蒼い瞳に映っつた美しき伊豆

第一章  人の一生

 

 「自分の一生とは、何だったのだろうか?」

 

 この問いかけに答えられる者とは、歳若き者ほど少なく、その本質的な答えに辿り着けた者とは、間も無く人生の終幕を迎える死期の迫った者であろう。

 

 どれほど崇高な理念を抱く人物であれ、人々が、顔を背けるような生き様を示した人物であれ、「自分が、この世に、生まれ出た意味を」自己が、死するその日まで、一時も考えられないであろう事は、考えられず、

「何故、私は、今、生きているのだろうか?」という、哲学的なこの問いに、ある者は、金のため、ある者は、家族のため、ある者は、名声のため、ある者は、自己顕示欲のためと答えるであろうか

 

 さだかではないが、そう、主張した誰もが、この世に均等に、生を享受したように、今度は、均等に死を享受する。

 

 「自己の人生に充分満足であった。」と答えるものもおれば、「自己人生に満足できなかった。」と回答するものもいるだろう。

 

 ある者は、「非業の死」あるものは、「天寿を全うした。」と称されるだろう。

 

 それが、「偶然か」、「必然か」と言えば、必然である。

 

 通り魔殺で殺害されたもの、老衰で他界したもの、病魔に蝕まれたもの。

 

 均一に必然的な死であった。と言えよう。

 

 その死が、偶然であったと人々が、信じたい要因は、その命が、惜しまれる命であったからに他ならない。

 

 「あの日、あんな所にいなければ・・・。」「あんなやつがいなければ・・・。」「あんな事故がなければ・・・。」「まだ、生きられたのでは・・・・?」確かに、様々な思いは、交錯するであろう。

 

 しかし、失ってしまったものは、帰ってこないのである。

 

 失ってしまったもの。それは、一番重要である「命」に代表されるが、それは、時に、「信用」であったり、「地位」であったり、「お金」であったりもする。

 

 「お金」や「信用」や「地位」が、比較的取り戻せることが多いため、「命」との比較の対象にならないと思われるかもしれないが、それを失ったことで、命を絶つ人もまた、多いことも事実だからである。

  それでは、何故、「死」が、偶然ではなく、必然なのか?

 

 「偶然か?」「必然か?」これも、今日まで多くの人が考えた。哲学的問いであろう。

①癌

 

 しかし、例えば、ある人物が、癌を発症したとして、発症した要因には、遺伝的体質、摂取物、被爆要因などが、あるかないかがあげられるだろう。発見段階としては、早期発見であったか、既に末期であったかが、問われるだろう。対処療法として、投薬治療が可能か?手術が可能か?果ては、5年生存率が、何%かまでが、わかるだろう。  

 ところで、此処まで読んで、気づいたであろうことは、本人の故意、過失、他人の故意、悪意は、不確定要素として、「癌」を発症したことは、現実であり、偶然でもない必然だということである。

 

 

 これは、アメリカ9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件にテーマを置き換えても同様のことが言えるだろう。

②アメリカ、9.11同時多発テロ

アメリカ9.11同時多発テロは、イスラム原理主義の過激派が、旅客機をハイジャックし、自らビルデイングに追突した事件であるが、イスラム教と基督教との宗教対立、ならびに石油輸出大国としてのイスラム諸国と石油消費大国アメリカとの資源問題としてテロが起きる要因は、大いに予見されていた。

 

 テロに巻き込まれた乗務員、乗客、そして、その家族には、偶然起きた惨劇のようにも思えたが、身代わりに別の第三者が、惨劇巻き込まれることは、充分予見できた、偶然とは呼べない、必然的な政治外交上のテロ事件だと言えた。

③秋葉原連続通り魔殺害事件

 

 また、秋葉原連続通り魔殺人事件についても同様の事がいえる。私もまた、そう派遣社員を経験したが、バブル経済のはじけた世の中で成人し、人類未曾有の大不況の中、生活のため派遣社員とならざるをえなかった。

 

 それだけでなく、想像を絶する工場の製造ラインのスピードと昼夜交代制の勤務に彼は、心身を蝕まれていたように感じ、それだけに留まらず、いつ、工場の製造ラインが止まり、「生活の糧を絶たれるのでないだろうか?」

 

 という「不安とも闘っていたのではなかったのだろうか?」と思った。だからといって、無根拠な無差別大量殺人が許される筈もないが、「肉体的、精神的に強い人間ばかりでない。」という事もまた言える。

 

 そして、例えればだが、大阪府の橋本府知事などは、今日的な不況の中、巨額の財政赤字を立て直すため、大幅な財政支出の削減を図る一方で、警察組織への治安維持費は、まるで削減しないどころか、増加させている。

 

 2008年度、この度も重なった殺傷事件をまるで、予見していたかのように。

 

 このように、経済の減速から生じる景気の後退は、必然的な治安の悪化を意味し、殺傷された被害者にとっては、確かに偶発的であったかもしれない。

 

 しかし、類似する事件や事故が、起こることを全く予見できなかったわけでもない。

 

 また、これは、事実起きた惨劇である。

 

それゆえ、残念なことながら、これもまた、社会的な必然性の招いた事故だといえた。

 

 こうして、人の「死」を「肯定的」ではないが、「必然的」に訪れるものだと私は、述べてきた。

 

 前述したような惨劇で、親族を失った方々は、「そんなものを必然的だと肯定できるか?」と思われているだろう。なぜならば、私も内心は、加害者に対する怒りに満ち溢れているからだ。

 

 しかし、実際には、私も、上記した事件の詳細は、テレビなどのマスメデイアで知った。

 

 度重なる報道に、目を覆いたくなる事もあった。しかし、同じマスメデイアが、報道したもう一つの「死」については、どう考えられているだろうか?

 

 それは、前農林水産大臣松岡氏の自殺問題についてである。

TOMOKAZU
作家:TOMOKAZU
蒼い瞳に映っつた美しき伊豆
0
  • 0円
  • ダウンロード

2 / 10

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント