蒼い瞳に映っつた美しき伊豆

①癌

 

 しかし、例えば、ある人物が、癌を発症したとして、発症した要因には、遺伝的体質、摂取物、被爆要因などが、あるかないかがあげられるだろう。発見段階としては、早期発見であったか、既に末期であったかが、問われるだろう。対処療法として、投薬治療が可能か?手術が可能か?果ては、5年生存率が、何%かまでが、わかるだろう。  

 ところで、此処まで読んで、気づいたであろうことは、本人の故意、過失、他人の故意、悪意は、不確定要素として、「癌」を発症したことは、現実であり、偶然でもない必然だということである。

 

 

 これは、アメリカ9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件にテーマを置き換えても同様のことが言えるだろう。

②アメリカ、9.11同時多発テロ

アメリカ9.11同時多発テロは、イスラム原理主義の過激派が、旅客機をハイジャックし、自らビルデイングに追突した事件であるが、イスラム教と基督教との宗教対立、ならびに石油輸出大国としてのイスラム諸国と石油消費大国アメリカとの資源問題としてテロが起きる要因は、大いに予見されていた。

 

 テロに巻き込まれた乗務員、乗客、そして、その家族には、偶然起きた惨劇のようにも思えたが、身代わりに別の第三者が、惨劇巻き込まれることは、充分予見できた、偶然とは呼べない、必然的な政治外交上のテロ事件だと言えた。

③秋葉原連続通り魔殺害事件

 

 また、秋葉原連続通り魔殺人事件についても同様の事がいえる。私もまた、そう派遣社員を経験したが、バブル経済のはじけた世の中で成人し、人類未曾有の大不況の中、生活のため派遣社員とならざるをえなかった。

 

 それだけでなく、想像を絶する工場の製造ラインのスピードと昼夜交代制の勤務に彼は、心身を蝕まれていたように感じ、それだけに留まらず、いつ、工場の製造ラインが止まり、「生活の糧を絶たれるのでないだろうか?」

 

 という「不安とも闘っていたのではなかったのだろうか?」と思った。だからといって、無根拠な無差別大量殺人が許される筈もないが、「肉体的、精神的に強い人間ばかりでない。」という事もまた言える。

 

 そして、例えればだが、大阪府の橋本府知事などは、今日的な不況の中、巨額の財政赤字を立て直すため、大幅な財政支出の削減を図る一方で、警察組織への治安維持費は、まるで削減しないどころか、増加させている。

 

 2008年度、この度も重なった殺傷事件をまるで、予見していたかのように。

 

 このように、経済の減速から生じる景気の後退は、必然的な治安の悪化を意味し、殺傷された被害者にとっては、確かに偶発的であったかもしれない。

 

 しかし、類似する事件や事故が、起こることを全く予見できなかったわけでもない。

 

 また、これは、事実起きた惨劇である。

 

それゆえ、残念なことながら、これもまた、社会的な必然性の招いた事故だといえた。

 

 こうして、人の「死」を「肯定的」ではないが、「必然的」に訪れるものだと私は、述べてきた。

 

 前述したような惨劇で、親族を失った方々は、「そんなものを必然的だと肯定できるか?」と思われているだろう。なぜならば、私も内心は、加害者に対する怒りに満ち溢れているからだ。

 

 しかし、実際には、私も、上記した事件の詳細は、テレビなどのマスメデイアで知った。

 

 度重なる報道に、目を覆いたくなる事もあった。しかし、同じマスメデイアが、報道したもう一つの「死」については、どう考えられているだろうか?

 

 それは、前農林水産大臣松岡氏の自殺問題についてである。

④松岡前農林水産大臣の自殺

 この事件は、松岡農林水産大臣が、事務所で光熱費を架空請求し、それを端に国会で不正の追及を行われ、追求から逃れようとした松岡農林水産大臣が、ついに「自殺」に及んでしまったと言う事件であった。

 

 上記した、アメリカ9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件と決定的に異なる点は、マスメデイアが、9.11同時多発テロ、秋葉原連続通り魔殺人事件で、被害者擁護に徹底して回っていた点と異なり、松岡農林水産大臣の件では、マスメデイアが、松岡大臣の脱税の追及を徹底した際に、松岡前農林水産大臣が、自殺してしまったという、「死」に至るまでの経緯の違いである。

 

 国民心情には、これこそ、因果応報で自業自得な必然の死そう映ったのではないだろうか?

 

 しかし、こうもとらえられるのではないか?ということである。それは、「仮にもGNP世界2位の一国の閣僚たるものが、500万、600万程度の金で地位や名誉を失い。自殺に及んでしまった。と言うことである。」

 

 「一口に500万、600万というが、庶民からすれば、巨額の資金だ。」横領に至った経緯からも死は免れない。こう主張する方もやはり多いだろう。

 

 しかし、先に、リクルート、ロッキード事件で世を騒がせた、故田中角栄元内閣総理大臣、中曽根康弘元内閣総理大臣は、良か否かはさておき罪を認め一時職を辞された。彼らの行為により、政治に悪印象は、植え付けられたものの、松岡大臣のように、彼らが、自分の行いを責め「自殺」などに及んでいたら、日本の今日的な発展などなかったのではないかとも思えるからだ。

 

 また、確証は出来ないものの、農林水産大臣であり、その道のエキスパートであった彼の自殺などなければ、2008年今日の食糧危機問題などに、日本が、直面することなどなかったように思えるからだ。

 

 そうして、人の命に値段はつけられないというものの、9.11同時多発テロや、秋葉原連続通り魔殺人事件に遭遇することなく善良な子女であった彼らが生き延びられていたとして、一国の閣僚のポストに立つ人間に育てたか。疑問がよぎる。「善良と醜悪」その違いも明白なのにだ。

 

 こうして、怒りに満ちたまなざしでは、見ながらも、人々の死は、「必然だ。」と述べる私を憎むものも少なからず、いるだろう。但し、このような凶悪犯罪が起きず、被害者達が、そのまま生きていたなら、そこはかとなく広いこの世の中であった「輝く命」そのことにすら我々は、気づかずに過ごしていたかもしれない。

 

 また、凶悪な犯罪者の陰に潜む苦悩に我々は、気づかなかったのかもしれない。

 

 そしてまた、世に生きる誰もが気づかされた貴重な命があったと言う事実。それは、まさにそれが、「惜しまれる命」であったからのように思う。

 

 そして、ここまで述べてきた、「惜しまれる命」ということを背景に今、生きるということを問い直したいと思う。

 

 ひとえに、生きるといってもその作業は単調だ。仕事のある者は、労働をし、学業のある者は、学業に従事し、食事の形で栄養を摂取し、疲れを癒すために睡眠をとる。この世に生きるものならば、どんな人間であれ、回避することの出来ない営み。

 

 これもまた、生きるということの一形式だからでであろう。但し、この日常生活での労働は、分業と職業選択の自由が進み、現代では、そのスタイルも多用だ。

 

 以前、私も派遣労働者として働いたことがあったとは、前述したが、そのときのエピソードをここでは、まず、語ってみる事にする。

 

 

TOMOKAZU
作家:TOMOKAZU
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