さよなら命ーくつのひもが結べないー

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ここで、「うん、いいよ。」と言えば、どれだけ森村は喜ぶだろう。
しかし、「それはできない。」と言えば、逆に森村はどれだけ落ち込むだろう。
健一は、何も答えられずにいた。

夕暮れがせまってきた。

「帰ろうか。」健一が言った。

健一は、どちらともはっきりと返答出来なかった。

二人はベンチを立ち、5,6段の石段を降りようとした。
そこを降りるのは危ないだろうと健一は森村の手をとった。
二人が初めて手を握った。
森村の体がガタッとして健一の方に倒れてきた。
健一は真正面から森村を受け止めた。
森村の胸が健一にあたった。
健一は服の上からは分かりにくかったその豊かさに驚いた。

「ごめんね、ありがとう。」と森村が言った。

その日はそのまま黙って歩き二人は別れた。

 

 

 

 

 

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 19、くつのひもが結べない その2

それからしばらくの間、森村は積極的に健一にアタックしていった。

 ある日森村は健一に手作りのクッションをプレゼントした。
それはアンティックな車をあしらった白いクッションだった。
健一は家に持ち帰りさっそく自分のいすにつけた。
あの森村のイメージからして手作りのクッションは意外だった。
こんな一面もあるのかと改めて健一は思った。

またある日、森村がこんな事を言った。

「藤ケン、自分を街で見かけたことある?」
「どういうことや?」
「街を歩いてたら、自分が向こうの方で横切るのを私よく見るの。」
「人違いと違うか?」
「そうじゃないの。今の私とか何年か前の私とかを見かけるの。」

健一には錯覚、いや精神的な妄想としか思われなかった。
でも森村は真剣に言っていた。

そんなある日の夜、健一はこんな夢をみた。

森村が赤ちゃんを抱いて高いところにある細い綱の上を渡っている。
すると綱が風で大きく揺れて落ちそうになり、森村は赤ちゃんを放り投げ、自分だけ
綱につかまって助かったのである。

健一は、もしそれが夢でないとしても森村ならやりかねないのではと思った。

 

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 健一はだんだんと森村とつき合っていてしんどくなってきた。
最初は受験で苦しむ二人ということで心をいやしてくれる対象だったが、
森村の性格が分かってくるにつれてつき合うことが負担になってきた。
健一は森村に電話しなくなった。
森村も健一の素っ気ない態度に気づいたのか電話をしなくなった。

そしてしばらくして一通の手紙が届いた。

「今日は雨です。
 いやな雨です。
  あなたが雨はきらいだと言っていたことを思い出します。
  私は、その時はそうなのかな?としか思いませんでしたが、
 今の私にはあなたの言っていた意味がわかるような気がします。
 真っ黒な空から落ちてくる冷たい雨が私の心にしみるようです。

 あなたは、離れたくないほど人を愛したことがありますか。
 私にはそういう人がいるのです。
 でも、その人は私から遠ざかろうとしています。
 私はどうしたらいいのでしょう。
 あほな私には分かりません。
  藤ケン、どうしたらいいのですか? 教えて下さい。

 私は泣いています。
 後から後から涙が出てきます。
 この冷たい雨は私の流した涙なのでしょうか・・・」

健一の目に涙が浮かんだ。
しかし、「僕には何もできないよ。」と言える勇気がなかった。
健一は、返事を書かなかった。

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そしてしばらくたったある日突然森村から電話があった。
「バイバイ、藤ケン。」
  それだけ言って電話を切った。

 森村は区切りをつけたかったのだろうと健一は思った。

 健一はその日の日記にこう書いた。

「彼女とつき合って僕の心の内は和やかになった。
 心の痛手を素直に打ち明けたのは彼女が初めてだった。
 ありがとうM
 別れる相手にこういう言葉は禁物なのでここで言わせてもらう。」

 

 

                 
                 
                 
                 
                 
                 
                 
                 
                 
                 
                 

富士 健
作家:富士 健
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