さよなら命ーくつのひもが結べないー

101

 退場門を出るや否や、健一は水道のある所まで走った。
水道につくと健一は吐いた。
吐きながらも目がくらみその場に今にも倒れそうになった。
胃のけいれんがやっとの事で治まった頃、誰かが健一の背をさすっている。
後ろを振り返るとそれは恵子であった。

「もう大丈夫?」
恵子はやさしく声をかけた。
「ありがとう。」
健一はそう言うと苦い汁が残っている口をゆすいだ。
恵子がまだ側にいるのが健一には耐えきれなかった。

「ありがとう、もういい。」
健一の言葉の意味に気づいたのか、
恵子は黙ってそこを立ち去った。


 3年になって一,二度吐き気を感じたことはあったが、あまり気にしていなかった。
そして腎炎はもうすっかり良くなったと健一は思っていた。
それなのにたった200m走っただけで吐くなんて健一は自分が情けなくなった。
そして再び腎臓が悪くなっていることに気づいたのだった。

 恵子も吐いている健一の背中をさすりながら、健一が再び腎炎になったのではと
思った。
1年の時、腎臓を患っていた健一との恋を思い出したが、それよりも今こうして
苦しそうに吐いている健一を見て痛々しく思った。

 


 

102

 健一は最近食欲がないのを乱れた睡眠時間の為だと思っていた。
体育の授業でも吐き気をもよおす事はなかったので、腎炎はもう良くなっていると考えていた。
それが今度のことで自分は慢性腎炎であることを再び認識する事になってしまった。
これぐらいの運動で吐くなんて何も自分はできないという事なのか。
健一はあきらめてもあきらめきれない気持ちで改めて自分の病気を恨んだ。
それ以来健一は体育の授業でも吐くようになった。
健一は病院へ行くのをためらった。
あと5ヶ月自分は勉強だけをやらなければならないのだ。
病気の事なんか気にしている暇などないのだ。
健一は自分は腎炎ではないんだと思うように努めた。
努めはしたが健一は心身共に疲れ果てていた。
そしてベッドに横になり体を休めるときだけが唯一の心身共の安らぎになっていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

103

 15、政経の授業

「今の政治家に何ができるんや。ロッキード事件といい、国家権力を自分の好きなよう
に扱って自分の利益だけを考えている。俺はそういう奴を許すことができへんねん。
殺してやりたい位やが、悲しいことに殺せば罪になるからそれはできん。そやから俺は
政治家になろうと思ってるんや。政治家になってそういう奴をみんなやめさせたる。」

 政治・経済の授業では一人一人前に出て自分の考えを発表する形式をとっていた。
クラスの委員長をしている宮脇の大きな声がクラスの中に響き渡った。
宮脇はバレー部の部長をしているスポーツマンであるばかりでなく勉強もトップクラス
であった。
2年の時には体育委員長をしたりと彼の存在は北天門高校でも誰もが知っていた。
彼の口調には何者も恐れはしないという自信が満ちあふれていた。

「宮脇君の言うことはすばらしい事だけれど、私はそんな勇気がない。それに宮脇君
一人がどれだけ頑張っても上からの圧力で必ず押さえられてしまうと思うんです。」
女の子が素直に自分の意見を言った。
「そういう事を言ってるからあかんねん。みんながそんな気持ちやから政治家たちが
勝手気ままにやっとるんやないか。絶対あきらめたらあかんと俺は思う。」

 健一は宮脇の姿を見つめていた。
彼の自信たっぷりの言動がうらやましく思うのであった。
そして彼の今の姿に自分の過去の栄光を見ているような気がした。
宮脇は素晴らしい。いつまでもそういう気持ちを持ち続けて欲しい。
決して今の僕みたいになってくれるな。
健一は心の中でそう言いながら片隅では君もいつか僕のようになるんだ。
壁にぶつかって自信を無くし毎日びくびくしながら生きていくようになるに違いないと
思うのだった。

 

104

 健一の発表する日が来た。
その日の前日健一は何について話そうかとずっと考えていた。
今の自分に何が言えるのか。
すべてに自信を失い、この世が自分とは違った次元で動いているのに、
今その次元に立って何か言えと言っても無理なことだ。
それでも何かを言いたい気がする。
健一はほとんどその夜は眠れなかった。

 

「今日は藤君、前に出て下さい。」
政経の阿藤先生が健一を呼んだ。
健一は二冊の本を持って教壇に立つと話し始めた。

「今から僕が話をしますが、聞きたくない人は数学でもなんでもやっていて下さい。」
健一はこんな事を言おうと思っていなかったのだが、勝手に口が動いたのである。
それを聞いた阿藤先生が
「ちょっと待って、藤君それはどういう事?」と言った。
「いや僕の話なんか聞いたって仕方ないからそう言ったのです。」
「そんな事勝手に決めてもらったら困るわ。一応これは政経の授業ですから、みんなに
 参加してもらわないと。」

 阿藤先生は今年初めてこの学校に赴任してきた新卒の女の先生であった。
背が低く、まだ幼い顔立ちをしていたが、その目にはいつも真剣さが漂っていた。
健一は自分の言った事が阿藤先生を無視した発言であった事に気づき、もし今が数学の授業であったならきっと自分はあんな事は言いはしなかったと思うのであった。
「しっかり聞いて下さい。」
阿藤先生の目がいっそうするどく健一を見つめた。
健一は話を始めた。

 

富士 健
作家:富士 健
さよなら命ーくつのひもが結べないー
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