対馬の闇Ⅳ

 目を閉じてじっと耳を傾けていたビヨンドは、心ではムカついていたが、今の老いぼれた自分の姿を思えば、やむを得ないと心を落ち着けた。頭の中では、元気に走り回っていた自分の姿をありありと思い浮かべられたが、現実の自分は、ふらつきながら歩くのが精いっぱいであった。情けなくもあったが、年を取るということは、こういうことかとつくづく身に染みて実感した。でも、鼻のほうは、まだ、まだ、現役時代と変わらない自信はあった。というのは、別荘の玄関あたりで、一度、ヘロインの匂いをほんの少し感じたからだ。後は、飼い主のパ~プリンが確かめるだけだ、と訴えたかった。目を覚まして、ワンと大きな声を出して、びっくりさせてやろうかと思ったが、ワンと叫ぶ元気もなかった。言いたい奴には、言わせておけと、空港内をはつらつと駆け回っている若かりし頃の夢の続きを見ることにした。

 

 さゆりは、念のためにビヨンドの様子を確認した。「ビヨンドが元気がないのはわかったけど、散歩していて、何か変わった反応はなかったの?まったく、アホになったとは思えないんだけど」ひろ子は、沈んだ声で話し始めた。「そうね~~、いろんなとこ、散歩したんだけどね。北警の駐車場、釣り宿、民宿、比田勝港あたり、すぐそこの別荘。でも、ふらふら歩くだけで、ウンとも、スンとも、ワンとも。ちょっと歩いただけで、すぐ、休憩するんだから。やっぱ、ダメなんじゃない」さゆりは、うなずきながら聞いていたが、全く、何も反応がないということはないと思えた。必ず、どこかで、何か、反応を示すと信じたかった。「犬だからといって、ワン、ワンと吠えるとは限らないともうのよね。もう、年だし。何か変わった様子をしていたとか、いつもと違う動きをしたとか、何か、思い当たることはないの?」

 

 ひろ子は、しばらく目を閉じて思い浮かべてみたが、これといった変わった様子は思い浮かばなかった。ただ、一つだけ困ったことがあった。この民宿の北にある洋風のバカでかい別荘の大きな門の前に来た時、門の真ん前で寝転がり、どんなに引っ張っても動こうとしなかった。困り果てて、抱えて車に乗せたことだった。「変わったことね~。あのジジ~~、ちょっと歩くと、すぐ休憩すんのよ。さっきも、ほら、あのバカでかい別荘の門の前で、ジジ~のヤツ、寝転がって、ガンとして動かなかったのよ。しょうがないから、抱きかかえて、車に乗せてあげたのよ。まったく、ジジ~~は、困ったものよ。とにかく、どうしようもない認知症ね。もう、期待はしてないけど」さゆりはバカでかい別荘と聞いて胸騒ぎが起きた。というのは、一度、あの別荘に入っていくスモークのかかった黒いロールスロイスを見たからだ。そして、車から降りてくるサングラスをした人相の悪い人物を見たのだった。

 

 あのバカでかい別荘は、2年前に建てられた。さゆりは、よりによってこんなにさみしいところに建てなくてもいいのにと思いつつ、時々、別荘を見学に行っていた。その別荘というのは、約1ヘクタールほどの敷地に、周囲の風景とは場違いの3階建ての豪華な洋館だった。そこには、広々とした芝生の庭。その中央には、純白のビーナスの噴水。5台は停められそうな大きな車庫。ふと、あのときの様子が頭に浮かんだ。大きな門が開いたと思うと、黒いロールスロイスがやってきた。門の陰から、そっと、玄関前に止まったその車を見ていると人相の悪い口ヒゲを生やした男性と貫禄のある中年の男性たちが、執事に案内されて、館の中に入っていった。さゆりは、この別荘の持ち主は、中国人か、韓国人ではないかと推測した。というのも、対馬の港周辺のあちこちが、韓国人、中国人に買収されていたからだった。また、ホテル、釣り宿、スナック、など、近年、韓国人経営者が急増していた。

 

 さゆりは、もう一度、ビヨンドの様子を確認した。「ひろ子、さっきの話だけど、バカでかい別荘の話。大きな門の前でビヨンドが寝転がって動かなかったって言ってたじゃない。あの洋館の別荘は、かなりうさん臭いのよ。ビヨンドは、何か、合図を送ったんじゃないかしら」ひろ子は、あのバカでかい豪華な別荘を思い出していた。大企業の社長の別荘か、政治家の別荘のように思えた。「広々とした芝生の庭に、ビーナスの噴水。きっと、大企業の社長の別荘じゃない。うらやましいわ~~。一度でいいから、あの広々とした芝生を、かわいいプードルを引きつれて、散歩したいわ~~。執事に、お嬢様、足元に、お気をつけて、とか、言われちゃったりして。さゆりも、そう思わない」さゆりは、真剣なまなざしで、顔を左右に振った。「見たのよ。ロールスロイスから降りてくる、気持ち悪い人相の男たちを。きっと、あれは、ヤクザよ」

 

 ヤクザと聞いて連想した。麻薬、金、武器の密輸。ビヨンドは、あの別荘の門のところで麻薬の匂いをかいだのでは?ひろ子は、出口巡査長の手紙を思い出した。車に麻薬を詰め込み、密輸していた。ならば、どこかに工作する場所がある。もしかしたら、その場所が、あのバカでかい別荘?「なるほど、ヤクザの別荘ね~。におうな~~。密輸の中継地点ということも考えられる。でも、ヤクザの別荘じゃ、手も足も出会ない。やはり、現行犯を捕まえないと」ひろ子の独り言を聴いていたさゆりが声をかけた。「何、ぶつぶつ言ってんのよ」我に返ったひろ子は、尋ねた。「ほら、人相の悪い男性を見たって言ったじゃない。そのほかに、気づいたことはない?どこかで見たような顔がいたとか?」さゆりは、左の人差し指を顎に当て思い浮かべた。「あ、あの顔。確か、あの時の警官の顔に似ていた」

 

 

 ひろ子は、身を乗り出して確認した。「だれよ、似てる顔って。どこの警官。北署じゃない?」目をパチクリさせたさゆりは、うなずいた。「そう。3年前だったかな~。事故ってさ。北署に呼び出されたんだけど。その時のあの顔に似ているような」ひろ子は、せかした。「誰なの?しっかり思い出して。確かに警官なの?もう一度見れば、思い出すんじゃない」さゆりが心細そうな声で返事した。「まあ、なんとなくだけど。でも、他人の空似ってこともあるし。自信ないな~。そいじゃ、また、あの別荘に行ってみる。今度は、しっかり確認する」ひろ子は、もし、さゆりが見た人物が警察官であれば、そう簡単には出くわさないと思えた。それに、警察官であれば、変装していく可能性が高い。

 

 ひろ子は、今度密輸する場合も、出口巡査長の場合と同じ手口だと確信していた。となれば、今度の新任の巡査長が、運び屋になる。彼を現行犯で逮捕しなければ、解決の糸口はつかめない。当然、上司が指示を出しているわけだし、上司は、ヤクザとつながっているはず。まずは、現行逮捕が先決。となれば、麻薬が積み込まれた車を発見すること。それには、ビヨンドの活躍が不可欠。でも、ビヨンドは、この体たらく。まったく、絶望的。あとは、神に祈り、ビヨンドの奇跡を信じる以外ない。出口巡査長の場合は、警部の、いや、警部補の車が、密輸に使われた。その車は、北署を出発し、厳原港から出港していた。警部の車は、レクサス、警部補の車は、クラウン、おそらく、どちらかの車が使われる。まだ、警部と警部補の自宅あたりを散歩していないことに気づいた。まずは、二人の自宅あたりを散歩することにした。

 

 コーヒーを運んできたさゆりが声をかけた。「はい、どうぞ。ボケ~~と何考えてるのよ。ブルマンでも飲んで、すっきりしたら」ひろ子は、ブルマンの香りをかいだ。「いい香り。ブルマンって、高いんでしょ。儲かってるってことか。そいじゃ、ありがたくいただきます。「これは貰い物。自分では買えないわよ。9月、夫婦で利用された東京のお客様がいたの。そのお客からの頂き物。品のいい夫婦で、ご主人は公務員だといってた」ひろ子は、うわの空で聞いていた。ひろ子は、ビヨンドの寝姿を覗いたが、全く起きる気配がなかった。ビヨンドは、ヨボヨボのジジ~だが、さすが、名犬だと感心した。なんだか、幸運をもたらす奇跡の犬のように思えてきた。そして、ひろ子は、ビヨンドの寝顔に両手を合わせお辞儀した。

 

              現金輸送

 

 108日(火)午後850分、カツラ、眼鏡、ひげで変装した岸は、梅屋ホテル近くのマンションを出た。パンのポエム近くの道路沿いに立っていると約束の9時ちょうどにスモークがかかった黒いロールスロイスが目の前に泊まった。彼が後部座席に乗り込むと国道382を北上し、県道182に入ると鰐浦方面に走り続けた。港沿いを北上した車は、洋風の館の大きな門が開くと中へと進んだ。そして、車はビーナスを中心としたロータリを時計回りに旋回し、正面玄関で止まった。車が停まると執事が素早くドアを開け挨拶した。「ようこそいらっしゃいました。お待ちしておりました」彼は、20畳ほどあるリビングに案内されるとしばらく待たされた。ドアが開くとシュー社長の姿が現れた。シュー社長が丸テーブルの正面に腰掛けるとニコッと笑顔を作りあいさつした。「お元気そうで、何よりです。心配事でもおありですか?顔が固まっておられますよ」

 

 岸は、奇数月に一回、この館にやってきていた。だが、今日は突然の呼び出しだった。何か、自分に落ち度があったのではないかと内心ビクビクしていた。万が一、落ち度がったら、出口と同じ運命。あごを震わせしどろもどろで返事した。「いや。突然のお呼び出しだったもので。失礼いたしました」シュー社長は、しばらく黙っていた。静かにドアを開けた執事がコーヒーを運んできた。香ばしい香りのブルマンをテーブルにそっと置いた。「いい香りじゃないか。最高級のブルマンだぞ。11万だ。日本で飲めるようなコーヒーじゃない。さあ」岸は、震える手でコーヒーカップをつかんだ。ガタガタと音を立ててしまった。ア、と声を出してしまったが、とにかく一口すすった。ほんの少し、気持ちが落ち着いた。固まった顔に笑顔を作り返事した。「最上級の香りと味です。今日は、特別に、お招きいただき、光栄に思っております」

 

 どうにか言葉を発したが、どんなことを言われるのだろうかと思うと震えが止まらなかった。しばらく俯いているとシュー社長が、静かに話し始めた。「今日お呼び出ししたのは、ちょっとお願いがありましてな」岸は、お願いと聞いて顔が真っ青になった。当然、お願いは、無理難題に決まっているからだ。岸は、恐る恐るそのお願いとやらを聞いた。「どのような?」シュー社長は、ブルマンの香りを嗅ぐとやさしそうな表情を作った。コーヒーカップを置くと話し始めた。「そう、大したことではない。現金を運んでもらいたい。ちょっと、庭を買いたくなってな。まあ、5億ほど、神戸まで、運んでほしい。クロネコヤマトじゃ、不安だし、お宅に、お願いするのが、もっとも、安全ですからな。お願いしてもよろしいかな」

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅳ
0
  • 0円
  • ダウンロード

11 / 30

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント