対馬の闇Ⅳ

 ひろ子は、今にも息が絶えそうなか細い声で話し始めた。「もうダメ。まさか、こんなにアホだとは思わなかった。きっと認知症。何が、天才よ。まったく、役たたず。どうしてくれるのよ。念書まで書いて、頭まで下げて、もらってきたというのに、何よ、あの無様な姿。ア~~、当てが外れた。ア~~、もう死にたい。ビヨンドのアホタレ」ビヨンドは、数々の賞を受賞した名犬だと聞いていた。さゆりは名犬を見れるのを楽しみにしていたが、ビヨンドを認知症だとか、アホタレだとか、言って、いったいどういうことだろうかと思った。確かに、老犬だから、弱っているのはわかるが、犬の鼻は、そう簡単には、衰えない。ただ、元気がないだけで、麻薬の匂いを嗅げば、きっと、反応を示すと信じたかった。

 

 ひろ子の態度は、ビヨンドに対し、あまりにも失礼だと思い意見をすることにした。「ひろ子、ちょっとビヨンドに失礼じゃない。認知症だとか、アホだとか、やる気がないだとか、言い過ぎよ。老犬なのよ。もっといたわってあげなよ。若かりし頃は、名犬としてバリバリ仕事をやっていたというじゃない。もっと、尊敬すべきじゃない」ひろ子は、もっともな話だとは思ったが、あのぐうたらな姿を見ると愚痴を言わずにはいられなかった。「いや、私が、バカだった。まさか、あそこまで、おいぼれだとは。もっと、確認すればよかったのよ。いったい、これからどうすればいいのよ。あれじゃ、そこいらの老いぼれ犬と同じじゃない。あ~~、夢も、希望も、すべて消え去った。神は、私を見捨てたのよ。今まで、信じてきた私は、バカだった」

 

 確かに、ひろ子がビヨンドに大きな期待をかけていたことはわかっていたが、まだ、本当に認知症で、鼻が利かなくなったとは言い切れない。散歩をしているうちに、回復することだってありうる。あきらめるのは、まだ早いと言い聞かせることにした。「ひろ子、ビヨンドは名犬だったのよ。ちょっと、元気がないからといって、鼻が利かなくなったと決めつけるのは、ビヨンドに失礼よ。ビヨンドを信じてあげなよ。麻薬の匂いをかげば、きっと、反応して、教えてくれるから。ひろ子が、そんなようじゃ、ビヨンドは、ますます、へそを曲げて、そっぽむいちゃうんじゃない。これからじゃない。ビヨンドを信じるのよ」目じりを下げて、ひろ子は小さくうなずいた。「まあ、信じてあげるか。後悔しても始まらないし。どんなにジジ~~でも、かつては、名犬だったわけだし。マ、イッカ」

 

 目を閉じてじっと耳を傾けていたビヨンドは、心ではムカついていたが、今の老いぼれた自分の姿を思えば、やむを得ないと心を落ち着けた。頭の中では、元気に走り回っていた自分の姿をありありと思い浮かべられたが、現実の自分は、ふらつきながら歩くのが精いっぱいであった。情けなくもあったが、年を取るということは、こういうことかとつくづく身に染みて実感した。でも、鼻のほうは、まだ、まだ、現役時代と変わらない自信はあった。というのは、別荘の玄関あたりで、一度、ヘロインの匂いをほんの少し感じたからだ。後は、飼い主のパ~プリンが確かめるだけだ、と訴えたかった。目を覚まして、ワンと大きな声を出して、びっくりさせてやろうかと思ったが、ワンと叫ぶ元気もなかった。言いたい奴には、言わせておけと、空港内をはつらつと駆け回っている若かりし頃の夢の続きを見ることにした。

 

 さゆりは、念のためにビヨンドの様子を確認した。「ビヨンドが元気がないのはわかったけど、散歩していて、何か変わった反応はなかったの?まったく、アホになったとは思えないんだけど」ひろ子は、沈んだ声で話し始めた。「そうね~~、いろんなとこ、散歩したんだけどね。北警の駐車場、釣り宿、民宿、比田勝港あたり、すぐそこの別荘。でも、ふらふら歩くだけで、ウンとも、スンとも、ワンとも。ちょっと歩いただけで、すぐ、休憩するんだから。やっぱ、ダメなんじゃない」さゆりは、うなずきながら聞いていたが、全く、何も反応がないということはないと思えた。必ず、どこかで、何か、反応を示すと信じたかった。「犬だからといって、ワン、ワンと吠えるとは限らないともうのよね。もう、年だし。何か変わった様子をしていたとか、いつもと違う動きをしたとか、何か、思い当たることはないの?」

 

 ひろ子は、しばらく目を閉じて思い浮かべてみたが、これといった変わった様子は思い浮かばなかった。ただ、一つだけ困ったことがあった。この民宿の北にある洋風のバカでかい別荘の大きな門の前に来た時、門の真ん前で寝転がり、どんなに引っ張っても動こうとしなかった。困り果てて、抱えて車に乗せたことだった。「変わったことね~。あのジジ~~、ちょっと歩くと、すぐ休憩すんのよ。さっきも、ほら、あのバカでかい別荘の門の前で、ジジ~のヤツ、寝転がって、ガンとして動かなかったのよ。しょうがないから、抱きかかえて、車に乗せてあげたのよ。まったく、ジジ~~は、困ったものよ。とにかく、どうしようもない認知症ね。もう、期待はしてないけど」さゆりはバカでかい別荘と聞いて胸騒ぎが起きた。というのは、一度、あの別荘に入っていくスモークのかかった黒いロールスロイスを見たからだ。そして、車から降りてくるサングラスをした人相の悪い人物を見たのだった。

 

 あのバカでかい別荘は、2年前に建てられた。さゆりは、よりによってこんなにさみしいところに建てなくてもいいのにと思いつつ、時々、別荘を見学に行っていた。その別荘というのは、約1ヘクタールほどの敷地に、周囲の風景とは場違いの3階建ての豪華な洋館だった。そこには、広々とした芝生の庭。その中央には、純白のビーナスの噴水。5台は停められそうな大きな車庫。ふと、あのときの様子が頭に浮かんだ。大きな門が開いたと思うと、黒いロールスロイスがやってきた。門の陰から、そっと、玄関前に止まったその車を見ていると人相の悪い口ヒゲを生やした男性と貫禄のある中年の男性たちが、執事に案内されて、館の中に入っていった。さゆりは、この別荘の持ち主は、中国人か、韓国人ではないかと推測した。というのも、対馬の港周辺のあちこちが、韓国人、中国人に買収されていたからだった。また、ホテル、釣り宿、スナック、など、近年、韓国人経営者が急増していた。

 

 さゆりは、もう一度、ビヨンドの様子を確認した。「ひろ子、さっきの話だけど、バカでかい別荘の話。大きな門の前でビヨンドが寝転がって動かなかったって言ってたじゃない。あの洋館の別荘は、かなりうさん臭いのよ。ビヨンドは、何か、合図を送ったんじゃないかしら」ひろ子は、あのバカでかい豪華な別荘を思い出していた。大企業の社長の別荘か、政治家の別荘のように思えた。「広々とした芝生の庭に、ビーナスの噴水。きっと、大企業の社長の別荘じゃない。うらやましいわ~~。一度でいいから、あの広々とした芝生を、かわいいプードルを引きつれて、散歩したいわ~~。執事に、お嬢様、足元に、お気をつけて、とか、言われちゃったりして。さゆりも、そう思わない」さゆりは、真剣なまなざしで、顔を左右に振った。「見たのよ。ロールスロイスから降りてくる、気持ち悪い人相の男たちを。きっと、あれは、ヤクザよ」

 

 ヤクザと聞いて連想した。麻薬、金、武器の密輸。ビヨンドは、あの別荘の門のところで麻薬の匂いをかいだのでは?ひろ子は、出口巡査長の手紙を思い出した。車に麻薬を詰め込み、密輸していた。ならば、どこかに工作する場所がある。もしかしたら、その場所が、あのバカでかい別荘?「なるほど、ヤクザの別荘ね~。におうな~~。密輸の中継地点ということも考えられる。でも、ヤクザの別荘じゃ、手も足も出会ない。やはり、現行犯を捕まえないと」ひろ子の独り言を聴いていたさゆりが声をかけた。「何、ぶつぶつ言ってんのよ」我に返ったひろ子は、尋ねた。「ほら、人相の悪い男性を見たって言ったじゃない。そのほかに、気づいたことはない?どこかで見たような顔がいたとか?」さゆりは、左の人差し指を顎に当て思い浮かべた。「あ、あの顔。確か、あの時の警官の顔に似ていた」

 

 

 ひろ子は、身を乗り出して確認した。「だれよ、似てる顔って。どこの警官。北署じゃない?」目をパチクリさせたさゆりは、うなずいた。「そう。3年前だったかな~。事故ってさ。北署に呼び出されたんだけど。その時のあの顔に似ているような」ひろ子は、せかした。「誰なの?しっかり思い出して。確かに警官なの?もう一度見れば、思い出すんじゃない」さゆりが心細そうな声で返事した。「まあ、なんとなくだけど。でも、他人の空似ってこともあるし。自信ないな~。そいじゃ、また、あの別荘に行ってみる。今度は、しっかり確認する」ひろ子は、もし、さゆりが見た人物が警察官であれば、そう簡単には出くわさないと思えた。それに、警察官であれば、変装していく可能性が高い。

 

 ひろ子は、今度密輸する場合も、出口巡査長の場合と同じ手口だと確信していた。となれば、今度の新任の巡査長が、運び屋になる。彼を現行犯で逮捕しなければ、解決の糸口はつかめない。当然、上司が指示を出しているわけだし、上司は、ヤクザとつながっているはず。まずは、現行逮捕が先決。となれば、麻薬が積み込まれた車を発見すること。それには、ビヨンドの活躍が不可欠。でも、ビヨンドは、この体たらく。まったく、絶望的。あとは、神に祈り、ビヨンドの奇跡を信じる以外ない。出口巡査長の場合は、警部の、いや、警部補の車が、密輸に使われた。その車は、北署を出発し、厳原港から出港していた。警部の車は、レクサス、警部補の車は、クラウン、おそらく、どちらかの車が使われる。まだ、警部と警部補の自宅あたりを散歩していないことに気づいた。まずは、二人の自宅あたりを散歩することにした。

 

 コーヒーを運んできたさゆりが声をかけた。「はい、どうぞ。ボケ~~と何考えてるのよ。ブルマンでも飲んで、すっきりしたら」ひろ子は、ブルマンの香りをかいだ。「いい香り。ブルマンって、高いんでしょ。儲かってるってことか。そいじゃ、ありがたくいただきます。「これは貰い物。自分では買えないわよ。9月、夫婦で利用された東京のお客様がいたの。そのお客からの頂き物。品のいい夫婦で、ご主人は公務員だといってた」ひろ子は、うわの空で聞いていた。ひろ子は、ビヨンドの寝姿を覗いたが、全く起きる気配がなかった。ビヨンドは、ヨボヨボのジジ~だが、さすが、名犬だと感心した。なんだか、幸運をもたらす奇跡の犬のように思えてきた。そして、ひろ子は、ビヨンドの寝顔に両手を合わせお辞儀した。

 

春日信彦
作家:春日信彦
対馬の闇Ⅳ
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