空なる我  上巻

第二章 「 空なる我 」への道

空なる我への道


「 自我 」は、神仏エネルギーの混合である「 空なる我 」が生存のために集積した自分のための可能性を無意識な「 能力 」として蓄えたエネルギーであり、この齢になって全てを放棄しなさいと言うのではありません。

煩悩によって集積したものですから、多くの物を捨てることになるかも知れませんが、「 可能性を集積する力 」は、「 空なる我 」が、他の自然物が諸物を集合し結合して「 形 」を作るエネルギーと同じく人間に与えられているエネルギーとして残り(自然エネルギー)、生存するためのエネルギーは生命エネルギーとして、人間に与えられた様式に沿って使うことが条件で残ると考えます。

「 自我 」を捨てて「 空なる我 」になるのですから、自分の為を捨てて人間一般の為に置き換え、自分がこれまで生きて来て得た「 可能性 」という能力(エネルギー)を人間一般の「 可能性 」として、自分から離れて、人類進歩の為に「 可能性を活かす 」ことが、自然エネルギーと付与された生命エネルギーに戻ることになるかと思います。

「 自我 」を捨てることは、「 可能性 」を放棄するのではなく、人類進歩のために「 可能性 」というエネルギーを使うことで、才能ある人がノーベル賞を受けられるのは、自我から離れて「 空なる我 」になって社会に還元したことだと思います。

勿論、ノーベル賞は貰えませんが、趣味といえない趣味があるように、自分が「 空なる我 」をもって、自分のエネルギーを人類のために使うなら、生命エネルギーを司る「 仏 」の立場からは、同等であると思います。

人類の為というのは、「 創造 」にエネルギーを使うことだと思います。

客観的な評価に捉われずに、当時の「 合理性 」を疑って一見して不合理とも思われることでも、その方向を貫くことだと思います。

「 方向 」は精神の問題で、いづれ間違いが後世になってなされるでしょうから、間違ったことを言わない自分であるため何も言わないではなく、間違っているかも知れないが「 自分の信じる道を行く 」ことが肝要かと思います。

勝負では、「 勝つと思うな、思えば負けよ 」といいます。

将棋なら、「 勝ち 」や「 負け 」に拘らず、自分が考えた最善の手を指して、「 負けた 」としても、「 その手では負ける 」と示すことで、人のためになるかと思います。

菊の花がバラにはなれないように、アヒルが白鳥になれないように、人間も皆、自然界にはDNAがあり、自然界から見れば生物として同等で優劣はなく、世間でいうノーベル賞を貰えないけれど、人類進歩に役立ったならば、人間として生きるべき「 仏の世界(生命エネルギー) 」から見れば、「 空なる我 」になれたことになるから、ノーベル賞の受賞者と同等に扱われると思います。

自分のDNAに従って、自分のためという観点を捨てて、自分の能力に「 可能 」なかぎりを尽くすべきだと思います。

それが、「 空なる我 」の持つエネルギーをエネルギーに無理しないように、解消させ、発散させることで、進路の方向は正しいと思います。

私は、「 一切皆空 」に従って、私という自我も「 空 」であり、その「 空 」とは、自然エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合で、自然界にあるように「 形 」を作る働きがそのエネルギーであり、「 自我 」というのは、その時どきまでに、自分の生命維持のために「 可能性 」を集合させて無意識に「 からだ 」を動かす能力となっていて、そのエネルギーが自分のDNAなりの変化して現れた「 形 」だと思っています。

自然界での自分の存在感が「 気持ち 」や「 心 」で、それが「 自我 」であると思っていますから、今、自分が感じている気持ちは、神仏エネルギーが自分の煩悩に応じて「 形 」を作ったものを感じていることで、それは自然界と同じような「 現象 」を感じることであり、自分も他の自然界の動物も同じ「 エネルギーのひとつの現象 」として捉えるべきです。

その「 自我 」を「 空なる我 」にすることは、自分の存在を全否定するのではなく、「 自分のため 」という方向を「 人類一般のため 」と変えて、今、持っている可能性を、間違いに拘らずに、人間進化のために「 創造 」することが「 空なる我 」になることだと思います。

それが、無駄なエネルギーの解消、発散を放棄によって為すことにより「 空なる我 」になることだと思います。

無論、禅などを実施する仏教の立場ではなく、人間を「 エネルギーのひとつの現象 」と捉えて人間進化を目指すことは、仏教のいう人格の完成を目指すものではないですが、禅で真理を悟ったとしてもその後はどうするのかという進路の問題に突き当たりますから、真理を悟っていなくても、放棄によってエネルギーの発散を図る方向は正しいので、神仏には同等に見えると思います。

人は人間の生きる多様性を示すためにDNAを違えて作られていると思い、現在の自分は、自然界と同じく「 エネルギーのひとつの現象 」と捉えるなら、セミやトンボやクマや馬や犬や猫のように、エネルギーが尽きるまで、一所懸命に生きて死なねばならないのが生物を創った創造主の意図であるだろうし、「 自殺 」するのが人間だけというのは、人間の欠点であり、誇るべき考えでないことは明白です。

「 どうして死んではいけないの 」というのは、犬や猫のようにエネルギーが尽きるまで生きなくてはならないのが、命を持つ生物の生き方であり、「 自殺したら犬や猫に叱られますよ。一所懸命に生きましょう 」というべきでしょう。

「 私は無神論者だ 」という人には「 あなたのなかで生きている神様(エネルギー)が泣きますよ 」とでもいうべきでしょうか。

「 無 」がエネルギーの世界であれば、この世は全て「 無 」であることになりますが、同時に、全てがエネルギーに満ちているとも言えます。

虚無論は「 一切皆空 」の考えとコインの裏表のように、有無の裏表であるかも知れません。

私は、「 空なる我 」としますから、虚無論ではないつもりです。

私のようなDNAを持つ者にとって、「 人間の進化 」に役立つことができるのかを考えますと、今まで、偉人たちが疑問や嘆きとして残した文句や、昔から受け継がれている難解な文章に、自分なりの解釈を与えることぐらいしか思いつきません。

私は「 無我 」というのを、「 一切皆空 」に従って「 空なる我 」と考え、それを実体の無いもので「 からっぽ 」ではなく、自然エネルギーと生命エネルギーの習合と考えることによって、一切を「 エネルギーのひとつの現象 」と捉え、その発展した「 形 」を「 自我 」としましたので、「 形 」を変えてもエネルギーは消滅しないならば、「 自我 」という「 形 」を自分をはずした「 形 」に変えることで、「 無我 」の枠を持たない「 形 」のエネルギーとなることを書きました。

ここから、おのずと「 生きる意味 」や「 自殺の意味 」もわかると思います。

私は、「 空なる我 」は、自然エネルギーと生命エネルギーの習合として、「 一切皆空 」に従って「 自我 」という実体ではなく、ちょうど台風のように、どこに中心があるのか知らないが「 空なる我 」の周りに「 煩悩 」によって「 心 」や「 気持ち 」を作りそれを「 自我 」だと思っています。

仮に、ある株式投資をしていて株を持っているとき、その株自体を自分の煩悩で集めて、その株式の価値が市場で上下して、自分の懐と比べて不安になるように、無常に変動し、「 心 」が安らぐことはなく、手放したら安心するようにいつも自分に不安をいだいています。

煩悩自体は、「 欲 」でして、生命のエネルギーだと思いますから、煩悩を滅却することが「 即身成仏 」になるとは考えずに、煩悩の捉われて不安になったり喜んだりと、煩悩に左右されるのが、「 汚れ 」だと思いまして、「 空なる我 」は、引力のように引き付けたり離したりする力(エネルギー)であり清廉なもので、引き寄せる物が煩悩で偏っているため、地球上がゴミで汚れるように、煩悩が表面を汚しているから、それを捨てて、「 引力そのもの 」になろうというのが「 空なる我 」になることだと思います。

生きているゆえに、本能とも言うべき曇った煩悩を必要としますが、ハスの花が汚泥から首を伸ばして咲くように、本能(煩悩)の中から「 知 」という華を咲かせるのだと思います。

私は、般若心経しかお経は知りませんが、「 空(kuu)」が、仏教の根底にあって、自分を、自然界のエネルギーのひとつの現象だと考えることによって、「 慈悲 」も生まれ、そのための修行段階として、各宗派の戒律があるのであって、目指すところは「 空(kuu)」を実感することではなかろうかと思います。

戒律を守っておけば涅槃に到達するのではなく、「 空 」を知り、「自分」と同じ「 現象 」である他人のすべての悲しみを我が身の悲しみとして引き受け、悲しむ人に「 慈悲 」を行う僧侶こそ「 即身成仏 」した人だというのではなかろうかと思います。

仏の教えを受けた、そんな人が現れることを切に願っています。

kandk55
作家:高口克則
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