空なる我  上巻

菊の花がバラにはなれないように、アヒルが白鳥になれないように、人間も皆、自然界にはDNAがあり、自然界から見れば生物として同等で優劣はなく、世間でいうノーベル賞を貰えないけれど、人類進歩に役立ったならば、人間として生きるべき「 仏の世界(生命エネルギー) 」から見れば、「 空なる我 」になれたことになるから、ノーベル賞の受賞者と同等に扱われると思います。

自分のDNAに従って、自分のためという観点を捨てて、自分の能力に「 可能 」なかぎりを尽くすべきだと思います。

それが、「 空なる我 」の持つエネルギーをエネルギーに無理しないように、解消させ、発散させることで、進路の方向は正しいと思います。

私は、「 一切皆空 」に従って、私という自我も「 空 」であり、その「 空 」とは、自然エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合で、自然界にあるように「 形 」を作る働きがそのエネルギーであり、「 自我 」というのは、その時どきまでに、自分の生命維持のために「 可能性 」を集合させて無意識に「 からだ 」を動かす能力となっていて、そのエネルギーが自分のDNAなりの変化して現れた「 形 」だと思っています。

自然界での自分の存在感が「 気持ち 」や「 心 」で、それが「 自我 」であると思っていますから、今、自分が感じている気持ちは、神仏エネルギーが自分の煩悩に応じて「 形 」を作ったものを感じていることで、それは自然界と同じような「 現象 」を感じることであり、自分も他の自然界の動物も同じ「 エネルギーのひとつの現象 」として捉えるべきです。

その「 自我 」を「 空なる我 」にすることは、自分の存在を全否定するのではなく、「 自分のため 」という方向を「 人類一般のため 」と変えて、今、持っている可能性を、間違いに拘らずに、人間進化のために「 創造 」することが「 空なる我 」になることだと思います。

それが、無駄なエネルギーの解消、発散を放棄によって為すことにより「 空なる我 」になることだと思います。

無論、禅などを実施する仏教の立場ではなく、人間を「 エネルギーのひとつの現象 」と捉えて人間進化を目指すことは、仏教のいう人格の完成を目指すものではないですが、禅で真理を悟ったとしてもその後はどうするのかという進路の問題に突き当たりますから、真理を悟っていなくても、放棄によってエネルギーの発散を図る方向は正しいので、神仏には同等に見えると思います。

人は人間の生きる多様性を示すためにDNAを違えて作られていると思い、現在の自分は、自然界と同じく「 エネルギーのひとつの現象 」と捉えるなら、セミやトンボやクマや馬や犬や猫のように、エネルギーが尽きるまで、一所懸命に生きて死なねばならないのが生物を創った創造主の意図であるだろうし、「 自殺 」するのが人間だけというのは、人間の欠点であり、誇るべき考えでないことは明白です。

「 どうして死んではいけないの 」というのは、犬や猫のようにエネルギーが尽きるまで生きなくてはならないのが、命を持つ生物の生き方であり、「 自殺したら犬や猫に叱られますよ。一所懸命に生きましょう 」というべきでしょう。

「 私は無神論者だ 」という人には「 あなたのなかで生きている神様(エネルギー)が泣きますよ 」とでもいうべきでしょうか。

「 無 」がエネルギーの世界であれば、この世は全て「 無 」であることになりますが、同時に、全てがエネルギーに満ちているとも言えます。

虚無論は「 一切皆空 」の考えとコインの裏表のように、有無の裏表であるかも知れません。

私は、「 空なる我 」としますから、虚無論ではないつもりです。

私のようなDNAを持つ者にとって、「 人間の進化 」に役立つことができるのかを考えますと、今まで、偉人たちが疑問や嘆きとして残した文句や、昔から受け継がれている難解な文章に、自分なりの解釈を与えることぐらいしか思いつきません。

私は「 無我 」というのを、「 一切皆空 」に従って「 空なる我 」と考え、それを実体の無いもので「 からっぽ 」ではなく、自然エネルギーと生命エネルギーの習合と考えることによって、一切を「 エネルギーのひとつの現象 」と捉え、その発展した「 形 」を「 自我 」としましたので、「 形 」を変えてもエネルギーは消滅しないならば、「 自我 」という「 形 」を自分をはずした「 形 」に変えることで、「 無我 」の枠を持たない「 形 」のエネルギーとなることを書きました。

ここから、おのずと「 生きる意味 」や「 自殺の意味 」もわかると思います。

私は、「 空なる我 」は、自然エネルギーと生命エネルギーの習合として、「 一切皆空 」に従って「 自我 」という実体ではなく、ちょうど台風のように、どこに中心があるのか知らないが「 空なる我 」の周りに「 煩悩 」によって「 心 」や「 気持ち 」を作りそれを「 自我 」だと思っています。

仮に、ある株式投資をしていて株を持っているとき、その株自体を自分の煩悩で集めて、その株式の価値が市場で上下して、自分の懐と比べて不安になるように、無常に変動し、「 心 」が安らぐことはなく、手放したら安心するようにいつも自分に不安をいだいています。

煩悩自体は、「 欲 」でして、生命のエネルギーだと思いますから、煩悩を滅却することが「 即身成仏 」になるとは考えずに、煩悩の捉われて不安になったり喜んだりと、煩悩に左右されるのが、「 汚れ 」だと思いまして、「 空なる我 」は、引力のように引き付けたり離したりする力(エネルギー)であり清廉なもので、引き寄せる物が煩悩で偏っているため、地球上がゴミで汚れるように、煩悩が表面を汚しているから、それを捨てて、「 引力そのもの 」になろうというのが「 空なる我 」になることだと思います。

生きているゆえに、本能とも言うべき曇った煩悩を必要としますが、ハスの花が汚泥から首を伸ばして咲くように、本能(煩悩)の中から「 知 」という華を咲かせるのだと思います。

私は、般若心経しかお経は知りませんが、「 空(kuu)」が、仏教の根底にあって、自分を、自然界のエネルギーのひとつの現象だと考えることによって、「 慈悲 」も生まれ、そのための修行段階として、各宗派の戒律があるのであって、目指すところは「 空(kuu)」を実感することではなかろうかと思います。

戒律を守っておけば涅槃に到達するのではなく、「 空 」を知り、「自分」と同じ「 現象 」である他人のすべての悲しみを我が身の悲しみとして引き受け、悲しむ人に「 慈悲 」を行う僧侶こそ「 即身成仏 」した人だというのではなかろうかと思います。

仏の教えを受けた、そんな人が現れることを切に願っています。

(ⅰ)<空なる我になること>

私は、これまでに「 一切皆空 」のもと、お釈迦様が言う「 無我 」も、上記(1、はじめに)のような私の思考の延長で「 空なる我 」と考えました。

私は、仏教と申しましても「 般若心経 」の短い文章を唱え、その意味を自分勝手に解釈しまして、「 空(kuu)」が「 実体がないこと 」だとしましたら、我が国の法律で電気が財物か迷ったすえに財物としたように、もし、「 実体がない 」とは定義は出来ないことならば、定義することは出来なくても存在するものがあるということならば、つまり生命エネルギーのそとに何か不明な自然エネルギーがあると考えれば、「 空(kuu)」は「 (神仏)エネルギー 」でなかろうか?という考えになり、「 空 」を「 エネルギー 」としました。

これは、明らかに{ E=MC² }というアインシュタイン氏の考えを頂戴したもので、他のブログにも書いてありますように、古代の釈迦たちの考えには、現代物理学の像が見えていたのだが、{ E=MC² }を知らずこれを「 空(kuu)」としたもので、その智慧に辿り着くまでは古代では呪文を唱えて心を統一するしかなかったのだと思います。

私は、大乗仏教の龍樹の教えの本は読んでおらず、私の考えは仏教からは到底、認められないと思いますが、「 空(kuu)」とは、知識で理解するようなものではなく、「 からだ 」で感じるもので、ちょうど重力を自分の危険度で現すように、感じるものなのだと思いますので、例え龍樹が持っていた知識がなくても「 空 」を知ることが出来ると思います。

先ほど述べましたように、「 無我 」は「 空なる我 」で、「 (神仏)エネルギー 」の習合が「 我 」だとしまして、重力のようなものだと考えますので、それは無意識なら「 人格 」の完成でしょうし、本来はイメージが不可能な「 仏 」を昔の人が「 後光 」を像の背後に書いているのは、仏も「 空 」であり「 エネルギー 」であることを感じているんだと思います。

私は、人が持つ「 魅力 」というのも、そのエネルギーの現れではないかと思っています。

エネルギーは知識から得られるものではなく、感じるものだということは、極端にいえば「 心 」や「 気持ち 」を持つ暇もなく、偶像も作れないことであり、「 将棋は格闘技 」で書きましたように「 石火の気 」という武道にも通じることだと思います。

この考えは、あくまで現代の考えであって、今現在、客観的であり合理的であることは、「空」でもわかりますように「 不合理 」も含むのが「 真実 」だと思いますので、いづれ歴史により淘汰されるのだと思いますが、現代で、世界はホログラフという主張に対しては、そのホログラフだと見ることも、エントロピーも「 エネルギー 」に関するものですから、私にとりましては、その「 エネルギー 」の解釈によって、採択を決めたいと思います。

kandk55
作家:高口克則
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