空なる我  上巻

(ⅰ)<空なる我になること>

私は、これまでに「 一切皆空 」のもと、お釈迦様が言う「 無我 」も、上記(1、はじめに)のような私の思考の延長で「 空なる我 」と考えました。

私は、仏教と申しましても「 般若心経 」の短い文章を唱え、その意味を自分勝手に解釈しまして、「 空(kuu)」が「 実体がないこと 」だとしましたら、我が国の法律で電気が財物か迷ったすえに財物としたように、もし、「 実体がない 」とは定義は出来ないことならば、定義することは出来なくても存在するものがあるということならば、つまり生命エネルギーのそとに何か不明な自然エネルギーがあると考えれば、「 空(kuu)」は「 (神仏)エネルギー 」でなかろうか?という考えになり、「 空 」を「 エネルギー 」としました。

これは、明らかに{ E=MC² }というアインシュタイン氏の考えを頂戴したもので、他のブログにも書いてありますように、古代の釈迦たちの考えには、現代物理学の像が見えていたのだが、{ E=MC² }を知らずこれを「 空(kuu)」としたもので、その智慧に辿り着くまでは古代では呪文を唱えて心を統一するしかなかったのだと思います。

私は、大乗仏教の龍樹の教えの本は読んでおらず、私の考えは仏教からは到底、認められないと思いますが、「 空(kuu)」とは、知識で理解するようなものではなく、「 からだ 」で感じるもので、ちょうど重力を自分の危険度で現すように、感じるものなのだと思いますので、例え龍樹が持っていた知識がなくても「 空 」を知ることが出来ると思います。

先ほど述べましたように、「 無我 」は「 空なる我 」で、「 (神仏)エネルギー 」の習合が「 我 」だとしまして、重力のようなものだと考えますので、それは無意識なら「 人格 」の完成でしょうし、本来はイメージが不可能な「 仏 」を昔の人が「 後光 」を像の背後に書いているのは、仏も「 空 」であり「 エネルギー 」であることを感じているんだと思います。

私は、人が持つ「 魅力 」というのも、そのエネルギーの現れではないかと思っています。

エネルギーは知識から得られるものではなく、感じるものだということは、極端にいえば「 心 」や「 気持ち 」を持つ暇もなく、偶像も作れないことであり、「 将棋は格闘技 」で書きましたように「 石火の気 」という武道にも通じることだと思います。

この考えは、あくまで現代の考えであって、今現在、客観的であり合理的であることは、「空」でもわかりますように「 不合理 」も含むのが「 真実 」だと思いますので、いづれ歴史により淘汰されるのだと思いますが、現代で、世界はホログラフという主張に対しては、そのホログラフだと見ることも、エントロピーも「 エネルギー 」に関するものですから、私にとりましては、その「 エネルギー 」の解釈によって、採択を決めたいと思います。

話は戻りますが、般若心経に書かれている「 無 」や「 不 」の解釈により、釈迦はまた違った世界観を持っていたのかも知れません。

お釈迦様は「 無我 」としましたからそこには違った意味があるかも知れず、僧侶の考えを聴かなくてはなりませんが、私は「 無 」は人類が経験したのではなく思考上の産物だとしましたが、「 無 」が「 0(ゼロ)」であり限りないエネルギーを持ち、「無(ゼロ)」という世界は対消滅する完全均等なる異次元の世界であるとすれば、またこれも私の考えは間違いであるのかも知れません。

そこまで考えての「 無 」とはせず、単なる否定の意味で、「 無我 」とは「 我 」を否定するものであるかとも考えましたが、一方では「 唯我独尊 」とまでいわれていますから、「 我 」をまったく否定するのではなく「 自然エネルギーと生命エネルギーの習合 」を考えて「 空なる我 」とし、自分の偶像が「 自我 」であり、その偶像を否定する意味で「 無我 」といわれているのだと考えています。

このように「 我 」を「 空なる我 」とし、自然物が自己を形成するエネルギーがあるように、人間にも人間を形成するエネルギーが「 我 」であり、これらはエネルギーとしては、自然物と同等のエネルギーであり、醜い動物はおのれが持つDNAにより人間の眼には醜くみえるのを自分ではどうすることもできませんが、人間は意識で、容貌を変えることが出来ますが、エネルギー(神仏)から見れば、醜い動物もどんな容姿や思想を持った人間も同等であり、ただ授かった命を「 自殺 」という「 形 」で形だけ変えてしまう人間は、神仏から見れば、真摯に生きる動物より劣った生き物に映るかも知れません。

作家などの知識人が「 自殺 」する場合が多いのですが、自分を「 空なる我 」として捉えて、自我は「 (神仏)エネルギーのひとつの現象 」に過ぎず、他人も同じ「 現象 」であると考えると、他人の悲しみを自分の悲しみといて捉えて「 慈悲 」の「 心 」が起こるのではないか、原爆被害に苦しんだり地震災害に苦しむ人を「 あざわらう 」ことなど、当然、出来るはずもなく、知識人であれば、その知識を活かして「 救済 」にまわるべきではないかと思います。

「 自殺 」する人も、原爆や災害に苦しむ人の苦しみなど無頓着、あるいは「 あざわらう人 」と同等であり、自分の容姿だけ「 形 」だけ、あるいは「 自我 」だけしか考えない人であり、ウシやウマやブタやトンボやカやハエや草花が生きている姿見習って「 人生 」をやり直すことが必要ですから、例え「 自殺 」で「 形 」を変えたとしても(神仏)エネルギーは残りますから、人類は幸福にはなれないだろうと思います。

私は、このように「 空(kuu)」の自覚が、仏教の根本にあると思います。

これは、これまで書いてきた(A)の思想も(B)の思想も、共に生きるには必要であり、宗派に分かれて主張されるのには疑問に思っています。

また、「 空(kuu)」を、「 からっぽ 」や「 空虚 」などという意味にして、この世は夢やバーチャルだと思うと、「 希望 」や「 変化 」や「 無常 」というエネルギーを生む考えとは反対に、「 絶望 」や「 あきらめ 」や「 虚無主義 」や「 自殺 」を肯定する考えや生き方になってしまうのではないかと思いますから、ホログラフィック宇宙が正しいかも知れませんが、先ほど申しましたように「 真実 」とは言い難いので、現在の私は、この考えは採用しません。

「 空(kuu)」をどのように解釈するかで、考え方や生き方の進路に大きな違いを見せると思いますから、素人の私としては、仏教の始めに般若心経の「 空(kuu)」の解釈から説明してもらえば、古代の人からもっと、人間が進化するための多くの疑問が湧くと思います。

 

 

 

(ⅱ)再考、無我と空なる我の違い 

私は、前回で「 無我 」を「 空なる我 」として考えますが、根本的に仏教とは違う考えではないだろうかと思います。

「 無我 」は因果の法則に従って「 現象 」するが、「 空なる我 」は、「 自我 」を現象として否定するだけでなく、因果の法則をも「 現象 」として否定(不変の法則は無いと)するからです。

仏教は、宇宙(自然)エネルギーを「 因果 」として考えて、その方向への人の救済の理論かと思いますが、私には、その「 因果 」という考え自体が生命エネルギーが生み出した煩悩ともいうべき「 現象 」であり、その「 因果 」を考えることは、既に「 自我 」の範囲に留まっていて、生命エネルギーから出た煩悩が、本来は清浄であるエネルギー全体を汚し、宇宙(自然)エネルギーの中の生命エネルギーは清浄ではあるが、動物の「 本能 」という無明と私には思われるものを含んだエネルギーに化し、般若心経でいう「 空(kuu)」という意識で否定することにより清浄を取り戻せるものだと思っています。

人間の他の動物も、意識でないにしても宇宙(自然)エネルギーを「 因果 」と捉えて行動するもので、人間も同じという考えもありますが、それは本能のまま行動することと同じであり、せっかく「 空(kuu)」は「 エネルギー 」であると意識できたのですから、古来の「 魂 」というのを(神仏)エネルギーの習合であるけれど、それは「 生命一般の生きる事 」だとして、特定の「 魂 」ではなく生命体一般に共通する「 命 」だとし、動物はDNAのため本能の煩悩のまま暴走するのが「 穢れのない命 」の行動であるかも知れませんが、「 空(kuu)」を知った人間が「 穢れのない命 」に従った行動というのは、仏教の「 慈悲 」というか、他人を自分と同じ「 エネルギーの現象 」として、相手を突き放した「 憐憫 」の「 気持ち 」や「 心 」をだくことなく、相手と同時に痛みを共に感じ、喜びを共にするのが「 空なる我 」になることであり、苦しむ人に財物を与えることや道理を教える「 布施 」というのもそれを現す行為だろうと思います。

ですから、なぜ「 布施 」をするかは、目の前の可哀そうな僧侶への寄付でもありますが、同時に私の「 魂 」の浄化であるとも考えていて、私は災害に対する義援金などの財物給付も、目的の第一としては苦しむ人のためでもありますが、自分の「 魂 」の浄化でもあると考えています。

これは、その行為の「 因果 」により、更なる自分の幸福への道ではなく、因果律には従わない幸福だと思っています。

それは、親の子への無償の愛のように「 見返り 」を求めるのではなく、自分が蓄積して来た自分の「 可能性 」を相手に与えることによって、自分の「 魂 」あるいは「 生命一般 」を清浄に戻すもので、それを「 幸福 」と捉えるなら、生きる自分が「 因果 」によっての「 幸福 」と同じ名前の別物を獲得することだと思います。

生命エネルギーは、その維持のために「 現象 」を形成しますが、それを否定する方向(放棄の方向)に向かう考えが「 空なる我 」のなかにあり、その幸福は何か?を考えまして、放棄が「 空なる我 」になることを意味し、自分の持つ自我を放棄して「 幸福 」と考えるからです。

別物といいますのは、もしも相手が遺恨を残して死んだ主君で、その人から育てられた自分の生命をかけることによって、相手の「 苦抜楽与 」が可能なら、主君の遺恨をはらすために討ち入りをした大石内蔵助の辞世の句である「 あら楽し おもいははるる 身はすつる 浮世の月に かかる雲なし 」と同じ幸福なのではなかろうかと思います。

しかし、五感の感覚や頭脳の働きが鈍って「 死 」へ到達するのですが、この喪失してゆくのは自然が「 空なる我 」に戻ることを援助していると思うならば、その喪失してゆく姿が「 悟りの道 」を歩んでいるとも思われ、「 死 」にも感謝すべきかも知れません。

kandk55
作家:高口克則
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