空なる我  上巻

「 行動しながら考える 」とか試行錯誤などは、その例で、行為や「 形 」から「 悟り 」へ進むのも同じことではないのかと思います。

スティーブ・ジョブズ氏が、当初は直観に任せて「 点 」を作り、あとからストーリを書くのは、当初からストーリの行き先が解っているからと申されたと思いますが、私の考えでは、彼がしたのは「 この事 」で、そうすることによって「 空なる我 」を、そのまま現出させる事が出来るだろうし、死後に彼が残した物が、彼の「 自我 」の殻であることになります。

生命エネルギーの終焉によりそれが「 形 」に残されたのが、その人の著作などの作品や知識だと考えますと、そのような殻は、その人の「 自我 」であり煩悩も残存していると思いますから、殻である著作を持って、その人と同じ「 自我 」を形成したいと思っても、DNAにより殻を引き寄せた煩悩も違いますから、蛇の抜け殻を見て蛇の大きさを推し量る事は出来ても蛇が創れないように、アインシュタイン氏の頭脳を保管しても、アインシュタイン氏を創れないように、殻を幾ら集めても殻を作るエネルギーは創れず、「 一切皆空 」なんかではなく、虚無に襲われるのかも知れません。

しかし、エネルギーは「 神 」でして、創造物である人間が、人間を創造するエネルギーを作ることは出来ないと思います。

私は、その残された殻を後生大事に保管し、エネルギーの復活を夢見るのではなく、その殻の中から自分の「 空なる我 」が進む可能性の糧とすること、がその著作を活かす事ではないのかと思います。

「 お経 」も「 聖書 」も同じで、持つ事に意味があるのではなく、その教えに従って生活する事が、それらを活かす事ではないでしょうか?

「 一切皆空 」ですから、著作も「 空 」というエネルギーを内部に秘めた「 無 」であり、そのエネルギーを「 現象 」として、この世に現出させることが、「 無 」から「 有 」を取り出す事(空即是色)であると思います。

有名作家の「 現象 」とか「 ブーム 」が報道されることがありますが、有名である事や客観的である事は、「 真実 」を保障しません。

何様の「 現象 」になっても自由と思いますが、人生は自分だけのものですから、自分が選択した点の間違いは、その先の「 大きな間違い 」となって、回復が大変なことになるかも知れません。

ちょうど、安全神話で騙された福島原発事故のように………。

A-④空なる我の実益

私は、これまで書いて来ましたように、「 無我 」というお釈迦様の考えではなく「 空なる我 」と呼んで、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合で、ちょうど太陽や地球の引力や物質を結合せるようなエネルギーであると考え、そのエネルギーは引き付けた集合体が「 自我 」であり、それはエネルギーがひとつの眼に見える現象となったものであり、エネルギーを「 空(kuu)」とし、現象を物質と同一視して「 色(siki)」としました(空即是色)。

「 無我 」と言われると、私という生命体自体が否定されるように感じて、母親の胎内にひとつにエネルギーを秘めた種が宿るというように考えて、「 一切皆空 」の考えも加味して、「 無我 」をエネルギーである「 空なる我 」と置き換えて、上記のようなエネルギーが私の内部にあると考えました。

私は、自分も自然の中の、エネルギーの一つの現象で、それは皆さんも同じで、現象であるからこそ「 縁起縁滅 」というように、条件しだいで、これから違った形の現象にもなれる可能性を持っていると言うだけです。

これは、生きとし生けるものの中にあるのであって、ひとつの細胞の死から新たな細胞が生まれる「 新陳代謝 」という特徴があるもので、DNAに違いによって本能(能力)が違い、セミはセミ、トンボはトンボ、人間は人間と、DNAの通り、エネルギーが尽きるまで生き続けなさいという使命を果たすまで、ネコもイヌもライオンも生きれるだけ生きるのであって自殺をしたなんて、聞いたこともありません。

自殺するのは人間だけですが、他の動物とは違って「 意識 」を持つのは、動物が出来ない自殺するためですか?

E=MC²などという考えは、原爆を作ることもできましたが、同時に科学の進歩に多くの貢献をしたと思います。

「 意識 」の使いかたで、自殺も出来ますが、社会に貢献することも出来ると思います。

「 人間だけ自殺することが出来る 」というのは、人間としての誇りなどではなく、人間が他の動物がしない生きるという使命からはずれた事をする劣った動物であり、苦しくなったら使命なんかに構わずすぐ逃げ出す動物であることを示すことだと思います。

自殺以外に、「 死ぬ気になって 」することがあるのではないですか?

自殺したくても出来ない障害を持つ人や病人もいますが、その身を引き受けて生きようとしてる人に、なんと言うのですか?

「 羨ましいだろう 」とでも言うのですか?

 

引き付けるエネルギーを「 空なる我 」から発するのは、宇宙(自然)エネルギー(神)の下では平等でしょうから、DNAという生命エネルギーの種類や大小で引き付けるエネルギーと、引き付けられる物質も決まると思いますが、頭脳明晰や美人とかいっても、時の流れと共に色あせてゆき(無常)、毎年毎年、首席卒業者が排出され、絶えず技術も変わります(無常)しその人が皆、偉人でもありませんので、DNAの優劣は、人間としての優劣でないことは、いうまでもありません。

私は科学者ではありませんから、重力に関して重力子などという粒子の必要性の存否は知りませんが、昔、アインシュタイン氏は重力はエネルギーによる空間の歪みだとしたことを覚えていますので、私は、氏に従って、「 空たる我 」による歪み、中でも生命エネルギーによる歪みだと仮定します。

他の動物のような生命エネルギーでしたら動物らしくない歪みはないと思いますが、やはり先ほど申しました、自殺を企てる意識をもつのが人間で、特定の線を力線と思うような生命エネルギーの現象である意識による認識の歪みがあるのかも知れません。

生命エネルギーの中でも、お釈迦様がいう「 三毒の煩悩 」が一番先に思われますが、それを生むのも快楽を求める衝動・本能であり、それが現れる場面を「 空間 」とし、その「 空間 」を歪めるものが、先ほどの煩悩だと仮定しますと、「 空間 」を担当する右脳は同時に感情も担当しますから、危険度や好き嫌いも「 空間 」の中で同時に働いて認識を歪めて、衝動のまま近くに引き付ける事になり、本来は清涼な「 空なる我 」の周りに、自己中心の自分が好きな物(無意識な可能性)だけを引きつけた「 自我 」になるのだと思います(空即是色)。

しかし、「 自我 」を現象だと考えると、それを分析すれば煩悩というエネルギーが見えると思います(色即是空)。

あるいは、悟った人が私の「 空なる我 」を見て、「 歪んだ人 」と思うのかも知れません。

現象は「 空 」ですから(色即是空)、煩悩に塗れた「 自我 」という「 空 」を、清涼な「 空 」に変えることで、現象も変わると思います(空即是色)。

ネットで、悟るために修行するのが悟ることだという考えもありますように、煩悩というエネルギーが尽きることがない(無無明尽)ですから、生きている限り、悟る努力をすべきなのかも知れません。

「 自分も自然の中のひとつの現象で、条件しだいで相手の様な境遇にもなるが、他人も自分と同様なんだ 」と考えると、自分が嫌と思うことはせず、自分がされると気持ちの良いように他人にすると良いことがわかり、動物にも自然物にも、やさしい気持ちになって、いじめや差別も無くなると思うのです。

こんな私の考えが間違いなのか流行らないのか、遺書も残さず自殺に走る中学生が、絶えません。

A-⑤<無に対する現象>

以前、「 無 」や「 無限 」を「 ゼロ 」として、なぜその「 無 」から「 有 」が生じるかについて考えました。

その延長の考えです。

「 無 」や「 無限 」を「 数えきれない事 」という意味では同等として、なにを数えるのかは、人間の「 五蘊 」で感じる「 現象 」であるとして、その「 現象 」は「 エネルギー 」が「 形 」として現れた事象であり、人間などの生物は無論、すべての構成要素は同じで、それを結合させているのが「 エネルギー 」であり「 神 」であるとしました。

自分を突き詰めればエネルギーになるだろうし、物を突き詰めれば、それを結合させるエネルギーとなるでしょうし、それが「 色即是空 空即是色 」だと考えています。

その際、「 無 」から「 現象 」の「 有 」が生じるのは、完全な均衡(無限・無)から、偶然にも結合させる「 神 」の手違いで、対消滅するべき要素と違った要素が結び付いて、「 現象 」という「 有 」が生じるのではあるまいか?としました。

ちょうど、南部氏の「 対称性の崩れ 」のように。

そうであれば、この世の物質は、すべて「 神の手違い 」で生じたもので、その内実は、要素が衝突するエネルギーであるだろうとしますと、物質を生じさせた「 エネルギー(神)」は、この世の全部に広がっており、それが宇宙の温度かも知れません。

その他に、ダークエネルギーやダークマターがあるとしましてら、他にもエネルギー(神)が、おわすことになり、それが「 やおよろずの神 」であるかも知れません。

この世が、ダークエネルギーから発した違ったエネルギーが働いているのなら、それこそ「 やおよろずの神 」がおわす事になると思います。

さて、話は戻って、「 無 」とか「 有 」とかいうのは仮定の上での概念だけであり、経験できるのは、自分を動かしているエネルギーぐらいなものだとして、「 無 」が完全なエネルギーの均衡状態で、その均衡が、ある偶然で破れたとき認識可能な「 現象 」で、それを「 有 」としますと、実験室での手違いなどによって偶然に発見されたものがノーベル賞になったケースを考えますと、当時の世間では間違った手順なのに、それが、結び付ける「 神 」の眼からは「 正当 」であるように、失敗の積み重ねで「 正当 」になることもあり、人間の手で「 現象 」を作れるかも知れないと思ってしまいます。

「 藤井聡太七段のAI超えの手 」のように、人工知能から「 不可 」と言われているにも関わらず、人工知能のその時の判断が間違ったケースなど、社会で「 客観的 」で「 合理的 」なものは「 真実 」を保障せず、当時の人間の思考を満足させるだけですが、人間そのものも、「 神の手違い 」であれば、その評価も「 真実 」でないことは明らかでしょう。

ある「 現象 」に遭遇し、それまでの概念で、不条理や矛盾という言葉を添付して「 諦めること 」はせず、社会一般での「 客観的 」や「 合理的 」という評価を気にせず、自分のDNAに従って行動すれば、「 後悔 」も少ないのではないかと思います。

(宇宙が膨張しているか、縮小しているかについてアインシュタイン氏が躊躇したように)

その「 不条理 」や「 矛盾 」がなぜなのかを後世に残して、その不条理を包摂する考えこそ「 真実 」に近づけるもので、今、生きている時代に、出来るだけの「 オリジナル 」な構成物を後世に残すという意味で、「 芸術 」や「 逆説 」を作る意味があるだろうと思います。

社会的には批判も多いでしょうが、数多くの「 逆説 」を残すことも、後世のためになるかも知れません。

(ちょうど、「色即是空 空即是色」という言葉のように)

 

kandk55
作家:高口克則
 空なる我  上巻
0
  • 0円
  • ダウンロード

24 / 32

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント