空なる我  上巻

A-⑤<無に対する現象>

以前、「 無 」や「 無限 」を「 ゼロ 」として、なぜその「 無 」から「 有 」が生じるかについて考えました。

その延長の考えです。

「 無 」や「 無限 」を「 数えきれない事 」という意味では同等として、なにを数えるのかは、人間の「 五蘊 」で感じる「 現象 」であるとして、その「 現象 」は「 エネルギー 」が「 形 」として現れた事象であり、人間などの生物は無論、すべての構成要素は同じで、それを結合させているのが「 エネルギー 」であり「 神 」であるとしました。

自分を突き詰めればエネルギーになるだろうし、物を突き詰めれば、それを結合させるエネルギーとなるでしょうし、それが「 色即是空 空即是色 」だと考えています。

その際、「 無 」から「 現象 」の「 有 」が生じるのは、完全な均衡(無限・無)から、偶然にも結合させる「 神 」の手違いで、対消滅するべき要素と違った要素が結び付いて、「 現象 」という「 有 」が生じるのではあるまいか?としました。

ちょうど、南部氏の「 対称性の崩れ 」のように。

そうであれば、この世の物質は、すべて「 神の手違い 」で生じたもので、その内実は、要素が衝突するエネルギーであるだろうとしますと、物質を生じさせた「 エネルギー(神)」は、この世の全部に広がっており、それが宇宙の温度かも知れません。

その他に、ダークエネルギーやダークマターがあるとしましてら、他にもエネルギー(神)が、おわすことになり、それが「 やおよろずの神 」であるかも知れません。

この世が、ダークエネルギーから発した違ったエネルギーが働いているのなら、それこそ「 やおよろずの神 」がおわす事になると思います。

さて、話は戻って、「 無 」とか「 有 」とかいうのは仮定の上での概念だけであり、経験できるのは、自分を動かしているエネルギーぐらいなものだとして、「 無 」が完全なエネルギーの均衡状態で、その均衡が、ある偶然で破れたとき認識可能な「 現象 」で、それを「 有 」としますと、実験室での手違いなどによって偶然に発見されたものがノーベル賞になったケースを考えますと、当時の世間では間違った手順なのに、それが、結び付ける「 神 」の眼からは「 正当 」であるように、失敗の積み重ねで「 正当 」になることもあり、人間の手で「 現象 」を作れるかも知れないと思ってしまいます。

「 藤井聡太七段のAI超えの手 」のように、人工知能から「 不可 」と言われているにも関わらず、人工知能のその時の判断が間違ったケースなど、社会で「 客観的 」で「 合理的 」なものは「 真実 」を保障せず、当時の人間の思考を満足させるだけですが、人間そのものも、「 神の手違い 」であれば、その評価も「 真実 」でないことは明らかでしょう。

ある「 現象 」に遭遇し、それまでの概念で、不条理や矛盾という言葉を添付して「 諦めること 」はせず、社会一般での「 客観的 」や「 合理的 」という評価を気にせず、自分のDNAに従って行動すれば、「 後悔 」も少ないのではないかと思います。

(宇宙が膨張しているか、縮小しているかについてアインシュタイン氏が躊躇したように)

その「 不条理 」や「 矛盾 」がなぜなのかを後世に残して、その不条理を包摂する考えこそ「 真実 」に近づけるもので、今、生きている時代に、出来るだけの「 オリジナル 」な構成物を後世に残すという意味で、「 芸術 」や「 逆説 」を作る意味があるだろうと思います。

社会的には批判も多いでしょうが、数多くの「 逆説 」を残すことも、後世のためになるかも知れません。

(ちょうど、「色即是空 空即是色」という言葉のように)

 

私は、これまで書きましたように、私立の法学部卒であり、その他の分野には疎いのですが、「 成り行き上 」、よその分野に踏み込まざるを得ません。

数学者でも哲学者でも僧侶でもありませんが、前回に書きました「 無 」から認識可能な「 現象 」が「 有 」として数えられて、その行き着くところが「 無限 」であろうというのを、「 一切皆空 」や「 色即是空 空即是色 」や「 万物一如とする無分別智 」などから、現在、生存中の私の考えを書いてみます。

私は、「 一切皆空 」で「 空 」を「 エネルギー 」としますから、「 無 」も「 現象 」も「 有 」も「 無限 」も、「 エネルギー 」の元に成立する概念と考えて書きます(私の立場)。

「 無 」も「 無限 」も「 数えきれない 」という特徴があり、「 数える 」のは「 現象 」を主客対立にして、数字という符合、あるいは「 象徴 」をつけて、区別する事であり、それを「 分別する 」ということだろうと思います。

私の立場で考えると、「 無 」は認識不可能なエネルギーの完全な対称の「 形 」であり、「 現象 」は本質など他の概念の中で捉えるのではなく、文字通り「 象 」となって「 現れること 」であり、なにが「 象 」になるのかは「 エネルギー 」が何かの手違いで、人間が認識できる「 象 」(表象)となったのであり(空即是色・E=MC²)、その「 象 」(表象)を主観と客観で見て「区切って」、集めたのが加法で「 象 」が認識することが出来なくなったのが除法で、数えきれなく計算不能になった「 現象 」を「 無限 」だと考えまして、「 現象 」はいずれ「 空(エネルギー)」になる(色即是空)から全体の均衡がとれているのが宇宙だろうと、私はここで考えています。

まず区切ることが可能なのか?を問いますと、「 万物一如とする無分別智 」から見ると、ひとつを区切っても、もうひとつの間には「 無限 」の完全な対称があるかも知れませんから、「 一如 」であるのに「 区別 」によって「 無限 」を自らが「 作り出すこと 」で、それは人的加工されて有理数の間には「 無限 」の対称は存在しないと勝手に決めた約束事であり、別れたように「 現象 」させた神をも恐れぬ不届き者がすることで、数字の発生源である「 現象 」は途切れることなく連続するから「 変化 」するのであり、「 有 」と「 無 」には、存在の「 形 」こそ違えど「 エネルギー 」は続いているから、数字は符合しか意味はなく、実物するという物も認識不能な「 空・エネルギー 」になり得て、常に同一でないことも考えられます。

「 実在 」すると仮定していても、エネルギーとしては「 実在 」すると思いますが、実在する一定の「 物 」という保障は無く(色即是空)、前提そのものが疑わしいと思います。

科学は数字と共に進歩したのだと思いますが、それ自体が「 砂上の楼閣 」でして、一定に実在すること自体が出来ません(無常)。

無常の上の構成物ですから、実物に適用すれば、既に変化した物に不変の公式を当てはめますから、狂うのは当然でして、確率でしか存在を把握できないのは、存在自体が絶えず変化するから当然であり、確率は「 蓋然性 」であり「 必然 」ではないところに、不条理を捨てた合理性を感じます。

「 生死一如 」と申しますが、これも「 無 」と「 現象 」と同じく、神(エネルギー)の偶然の結びつきの「 形 」が誕生であり、その「 現象 」という「 形 」が崩れるときを「 死 」としますなら、「 誕生 」も「 死 」も、人間の認識可能な「 現象 」の「 形 」の「 生滅 」に過ぎず、流れるエネルギーは流れ来て、流れ去るものですが、その行き先は、同じエネルギーである「 無 」や「 無限 」の世界、それを「 無明 」といって生前は恐れますが、死後は「 無明 」という「 エネルギー 」の中に回帰するのだと思います。

ですから、人間界に聖者の再来も期待することが出来ると思います。

私の死後は、トンボやミミズや犬や猫や馬や牛など、生命がある物に転生したいと思って見ますと、動物たちが、いかに人間より「 悟っている 」のかを感じますし、彼らの生命が短いのも生命を与えた仏の慈悲でして、短い生を終えた死後は再び転生して、あなたの隣人になって、100歳までの長寿な老人になったり、学者や聖者に生まれ変わる可能性もあると思いますので、怖くはありません。

より良き人生を全うし、死ぬときは死ぬと、思うように心がけています。

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」と昔の人はいいました。

私は人間、あなたも人間。私は死んでゆきますが、あなたも同じく死んでしまうのです。どんな人間も、状況は同じなのです。

同じ人間として、いじめをやめましょう。差別をやめましょう。自殺をやめましょう。戦争をやめましょう。

A-⑥ (A)と(B)の合計

これまで書いて来て、少しだけ整理を出来ないものかと考えました。

私の考えでは、「 私 」は仏教の「 無我 」を「 空なる我 」として(神仏)エネルギーの集まりとしての「 我 」を認めまして、その周りに煩悩によって引き付けたものを「 自我 」としまして、「 自我 」を認めることは「 不安 」を認めることであり、その「 自我 」を本来の清らかな「 空なる我 」にもどすために宇宙(自然)エネルギーに頼る(ちょうど、呼吸して血液を綺麗にするように)と考え、ヨーガや山岳信仰などをその例として、「 安定 」に向かうのだと思います。

「 無 」である完全な均衡したエネルギーから偶然に飛び出した宇宙(自然)エネルギーが異種の生命エネルギーと結びついた時点で「 不安定な均衡 」エネルギーになって「 均衡 」に向かうべく「 生きる力 」となる。

生命エネルギーの「 形 」の変化として、DNAに従って人間の本能を持った胎児という「 形 」の誕生という「 現象 」となって認識可能になった時点で、本能(生命エネルギー=「 無明 」)が頭脳を作り出すと同時に、「 無明 」から来る「 不安 」という精神(意識)を持つ「 自我 」を生まれながらに持っているため、人間自体が、宇宙真理からほど遠いものとして誕生するのだと思います。

(神仏という)異種のエネルギーの結びつきによる不均衡から均衡へ向かうため「 (死に向かって)生きるエネルギー 」になり、「 死 」へ向かう段階である生老病死の段階で、異種のエネルギーの結びつきの「 空なる我 」に本能や煩悩(生命エネルギー=「 無明 」)から来る「 不安 」を引き寄せて精神(意識)の「 自我 」を形成し、その「 不安 」が、生命エネルギーの終焉である「 死 」への段階の生老病死の「 自我 」の中での「 苦 」となり、「 自我 」を否定して「 無我 」にして「 苦 」を逃れるのが仏教で、「 自我 」から「 空なる我 」に還元するのが、私の考えで、それによって「 不安 」や「 苦 」を解消し、「 安心 」「 涅槃 」の状態の人が「 即身成仏 」であると思います。

(神仏という)異種のエネルギーの習合によって「 生きる 」ことは「 不安 」であり「 有 」であり不均衡であるため、(神仏)エネルギーが、それぞれ完全均衡状態の「 無 」へむかう「 形 」が「 死 」とするなら、「 死 」によって生命エネルギーは終焉しますが、宇宙(自然)エネルギーが完全均衡状態に戻るべき、均衡する対(つい・pair)ともゆうべきエネルギーから飛び出したもので、消滅する相手のエネルギーが存在しないまま宇宙に漂うか、あるいは他の生命エネルギーと結びついて「 現象 」となる場合があり、前者は宇宙空間に漂う気(ki)というエネルギーとなり、前述したヨーガや山岳信仰でエネルギーのボルテージを高めるだろうし、後者は、他の動物の誕生の「 形 」の輪廻の現象になるのではなかろうかと思います。

「 形を変えてもエネルギーは消滅しません 」から、形が「 誕生 」であろうと「 死 」であろうと、「 現象 」に変わっただけで、エネルギーは消滅しないと思います。

「 自我 」を否定して「 無我 」となることは、自然と同様な現象となることだと思いますが、自分の存在自体を否定するとも考えられますので、私は「 無我 」ではなく「 空なる我 」という(神仏)エネルギーの習合としました。

天気予報で天気を知り、降雨を避けるために傘を準備するなど、自然から受けるエネルギーをそのまま受けるだけではなく、避けることも出来るのが人間ですから、分別するので人間の構造から真理からほど遠く、自然とは違った行動をして、失敗も多いですが、時々、思いもかけない異種の組み合わせで自然より強いエネルギーを引き出すこともあり、それが人間だと思います。

エネルギー完全均衡が「 無 」で、その均衡を破った不均衡なエネルギーが「 有 」で、前者が「 死 」で後者が「 生 」を表すと考えるなら、「 生命体 」を考えると両者は混在し、エネルギーが現象となって「 安定 」しているものとエネルギーのまま「 不安定 」が同居し、「 有 」から「 無 」へ、「 生 」から「 死 」へと向かうが、前者は「 エネルギー 」で後者は「 現象 」で、現象である「 自我 」を現象になる前の「 無我 」にするのは、(漢字で「 我 」が両方に含まれているように、)「 心・気持ち 」である「 自我 」という「 象・現象 」の存在は否定するが、存在まで至らない「 我 」は否定していないと思われて、私は「 自我という現象が存在する前の我 」は、エネルギーであり「 空なる我 」として残ると考えました。

「 有 」から「 無 」へエネルギーが推移するのは、(B)密教の思想で「 色即是空 空即是色 」の世界、「 生 」から「 死 」という現象の変化は、認識可能な現象ですから(A)の顕教の思想で「 縁起縁滅 」の世界であると考えます。

「 自我 」という「 象・現象 」を否定しますが、それは、「 自我 」が生来、含んでいる「 無明 」から来る「 不安 」を取り除くためであり、自分を喪失するのではなく、逆に、全ての能力を集結して「 無明 」を取り除いて、エネルギーの習合である清らかな「 空なる我 」にすること、「 智慧を得る事 」です。

「 無我 」は、煩悩の中で「 空なる我 」を模索することですが、「 無私 」は、自分の私利私欲を取り除くことで、「 自我 」をいったんは認めた上で、「 自我 」の煩悩が混じって歪んだ姿から、あるべき「 自我 」の処し方を模索することで、「 武士道 」などの道徳で「 滅私奉公 」といいますが、「 滅私 」といいますのは、自分の存在を否定するのではなく、私利私欲の無い事で、自分の事より他の人の事を思いやることで、まだ「 自我 」のあり方の範囲内の問題だと思います。

赤穂事件の大石内蔵助は、主君の遺恨を晴らすため、吉良邸に討ち入り、自分の身体を切腹という「 形 」で主君に恩を返したのですが、主君の遺恨が、吉良氏へと同時に「喧嘩両成敗」という武士の原則で裁かなった幕府への遺恨も、同時に果たすため、吉良氏を単に暗殺などで殺害するのではなく「 討ち入り 」の「 形 」で、幕府の誤りを認めさせるための行為であり、それが大石内蔵助の武士道だったと思います。

彼は、たまたま、自分の身体を「 滅した 」のですが、儒学の武士道は、主君のために己の身体を捨てよという規律ではなく、私利私欲を持つ事無く、忠実に主君に仕えよというだけで、切腹するのは主君のためではなく、自分の武士としての誇りを保つためだと思います。

kandk55
作家:高口克則
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