空なる我  上巻

A-⑥ (A)と(B)の合計

これまで書いて来て、少しだけ整理を出来ないものかと考えました。

私の考えでは、「 私 」は仏教の「 無我 」を「 空なる我 」として(神仏)エネルギーの集まりとしての「 我 」を認めまして、その周りに煩悩によって引き付けたものを「 自我 」としまして、「 自我 」を認めることは「 不安 」を認めることであり、その「 自我 」を本来の清らかな「 空なる我 」にもどすために宇宙(自然)エネルギーに頼る(ちょうど、呼吸して血液を綺麗にするように)と考え、ヨーガや山岳信仰などをその例として、「 安定 」に向かうのだと思います。

「 無 」である完全な均衡したエネルギーから偶然に飛び出した宇宙(自然)エネルギーが異種の生命エネルギーと結びついた時点で「 不安定な均衡 」エネルギーになって「 均衡 」に向かうべく「 生きる力 」となる。

生命エネルギーの「 形 」の変化として、DNAに従って人間の本能を持った胎児という「 形 」の誕生という「 現象 」となって認識可能になった時点で、本能(生命エネルギー=「 無明 」)が頭脳を作り出すと同時に、「 無明 」から来る「 不安 」という精神(意識)を持つ「 自我 」を生まれながらに持っているため、人間自体が、宇宙真理からほど遠いものとして誕生するのだと思います。

(神仏という)異種のエネルギーの結びつきによる不均衡から均衡へ向かうため「 (死に向かって)生きるエネルギー 」になり、「 死 」へ向かう段階である生老病死の段階で、異種のエネルギーの結びつきの「 空なる我 」に本能や煩悩(生命エネルギー=「 無明 」)から来る「 不安 」を引き寄せて精神(意識)の「 自我 」を形成し、その「 不安 」が、生命エネルギーの終焉である「 死 」への段階の生老病死の「 自我 」の中での「 苦 」となり、「 自我 」を否定して「 無我 」にして「 苦 」を逃れるのが仏教で、「 自我 」から「 空なる我 」に還元するのが、私の考えで、それによって「 不安 」や「 苦 」を解消し、「 安心 」「 涅槃 」の状態の人が「 即身成仏 」であると思います。

(神仏という)異種のエネルギーの習合によって「 生きる 」ことは「 不安 」であり「 有 」であり不均衡であるため、(神仏)エネルギーが、それぞれ完全均衡状態の「 無 」へむかう「 形 」が「 死 」とするなら、「 死 」によって生命エネルギーは終焉しますが、宇宙(自然)エネルギーが完全均衡状態に戻るべき、均衡する対(つい・pair)ともゆうべきエネルギーから飛び出したもので、消滅する相手のエネルギーが存在しないまま宇宙に漂うか、あるいは他の生命エネルギーと結びついて「 現象 」となる場合があり、前者は宇宙空間に漂う気(ki)というエネルギーとなり、前述したヨーガや山岳信仰でエネルギーのボルテージを高めるだろうし、後者は、他の動物の誕生の「 形 」の輪廻の現象になるのではなかろうかと思います。

「 形を変えてもエネルギーは消滅しません 」から、形が「 誕生 」であろうと「 死 」であろうと、「 現象 」に変わっただけで、エネルギーは消滅しないと思います。

「 自我 」を否定して「 無我 」となることは、自然と同様な現象となることだと思いますが、自分の存在自体を否定するとも考えられますので、私は「 無我 」ではなく「 空なる我 」という(神仏)エネルギーの習合としました。

天気予報で天気を知り、降雨を避けるために傘を準備するなど、自然から受けるエネルギーをそのまま受けるだけではなく、避けることも出来るのが人間ですから、分別するので人間の構造から真理からほど遠く、自然とは違った行動をして、失敗も多いですが、時々、思いもかけない異種の組み合わせで自然より強いエネルギーを引き出すこともあり、それが人間だと思います。

エネルギー完全均衡が「 無 」で、その均衡を破った不均衡なエネルギーが「 有 」で、前者が「 死 」で後者が「 生 」を表すと考えるなら、「 生命体 」を考えると両者は混在し、エネルギーが現象となって「 安定 」しているものとエネルギーのまま「 不安定 」が同居し、「 有 」から「 無 」へ、「 生 」から「 死 」へと向かうが、前者は「 エネルギー 」で後者は「 現象 」で、現象である「 自我 」を現象になる前の「 無我 」にするのは、(漢字で「 我 」が両方に含まれているように、)「 心・気持ち 」である「 自我 」という「 象・現象 」の存在は否定するが、存在まで至らない「 我 」は否定していないと思われて、私は「 自我という現象が存在する前の我 」は、エネルギーであり「 空なる我 」として残ると考えました。

「 有 」から「 無 」へエネルギーが推移するのは、(B)密教の思想で「 色即是空 空即是色 」の世界、「 生 」から「 死 」という現象の変化は、認識可能な現象ですから(A)の顕教の思想で「 縁起縁滅 」の世界であると考えます。

「 自我 」という「 象・現象 」を否定しますが、それは、「 自我 」が生来、含んでいる「 無明 」から来る「 不安 」を取り除くためであり、自分を喪失するのではなく、逆に、全ての能力を集結して「 無明 」を取り除いて、エネルギーの習合である清らかな「 空なる我 」にすること、「 智慧を得る事 」です。

「 無我 」は、煩悩の中で「 空なる我 」を模索することですが、「 無私 」は、自分の私利私欲を取り除くことで、「 自我 」をいったんは認めた上で、「 自我 」の煩悩が混じって歪んだ姿から、あるべき「 自我 」の処し方を模索することで、「 武士道 」などの道徳で「 滅私奉公 」といいますが、「 滅私 」といいますのは、自分の存在を否定するのではなく、私利私欲の無い事で、自分の事より他の人の事を思いやることで、まだ「 自我 」のあり方の範囲内の問題だと思います。

赤穂事件の大石内蔵助は、主君の遺恨を晴らすため、吉良邸に討ち入り、自分の身体を切腹という「 形 」で主君に恩を返したのですが、主君の遺恨が、吉良氏へと同時に「喧嘩両成敗」という武士の原則で裁かなった幕府への遺恨も、同時に果たすため、吉良氏を単に暗殺などで殺害するのではなく「 討ち入り 」の「 形 」で、幕府の誤りを認めさせるための行為であり、それが大石内蔵助の武士道だったと思います。

彼は、たまたま、自分の身体を「 滅した 」のですが、儒学の武士道は、主君のために己の身体を捨てよという規律ではなく、私利私欲を持つ事無く、忠実に主君に仕えよというだけで、切腹するのは主君のためではなく、自分の武士としての誇りを保つためだと思います。

(C)全ての宗教の「 神 」=エネルギー=「 空 」 ?

「 無我 」を「 空なる我 」に置き換えて考えますので、無論、仏教ではなく、エネルギーを「 神 」としますので、同じようにみえる語句の使いかたや考え方をしますが、「 神 」を認めないと思われる仏教とは、まったく違う考えであり邪悪な考えと言われるかもしれません。

生物に共通な新陳代謝が、「 破壊の神 」とか「 創造の神 」などの「 神 」の働きではなく、異種の宇宙(自然)エネルギー (神)と生命エネルギー(仏)が習合した(空なる我)の不均衡(生)から均衡(死)へ向かうとなり、生命エネルギーの本能(=「 無明 」)の周りに、生命維持の自然エネルギーを引き付けた「 形 」として現れた(空即是色)のが「 誕生という形の現象 」であると考えます。

前者は完全な均衡の「 無 」を破ったエネルギーで、「 有 」を作り出す消滅する対(ペア)が無い不均衡なエネルギーであり、エネルギーが対(ペア)を求めて異種の生命エネルギーと結合して安定した「 現象 」の中に、他の対(ペア)を求める不安定なエネルギーとして含まれて、生命エネルギーが完全均衡になる「 死 」という「 形 」の現象に推移すると考えます。

私は、仏教者でもなく、キリスト教徒でもないのですが、この「 誕生 」や「 死 」を考えていましたら、最近、ユーチューブで日本語に翻訳された形で、聖書の内容だと思いますが、ヨハネとかルカとかいう福音書でキリストの誕生や死について語られる動画をみるようになりました。

これまでの私は、まったく聖書については知らなかったのですが、マリヤの処女懐妊などの話を聞きまして、男女間の性交がなければ妊娠や誕生は考えられないとして、信じる事はありませんでした。

私は、キリスト教がいう「 神 」も仏教と同じく「 エネルギー 」として考えられないかを頭に入れて、無謀にも、キリスト教の中に、「 色即是空 空即是色 」を導入して、キリスト教がいう「 神 」をエネルギーとして{ E=MC² }として考えたいと思います。

以上のような私の解釈から書きますと、「 誕生 」は、宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合が、母親の胎内に宿り、生命エネルギーの進達に応じて細胞分裂し、母親の胎内から胎児という「 形 」で人間が認識できる「 現象 」となって現れた(空即是色)のが「 誕生 」であり、生命エネルギーの終焉を迎えるのが、人間という現象が「 死 」という「 形 」をするもので、「 現象 」に中に潜んでいた宇宙(自然)エネルギーである気(ki)は、骨という物質や火葬にともなう臭気などの気体となって、宇宙空間に飛び出して循環するのだろうと思います(色即是空)。

私が信じなかった「 マリアの処女懐妊 」は生物的にみれば疑問なのですが、宇宙(自然)エネルギーは存在し、生命エネルギーを欠くのですが、その生命エネルギーが、何かの間違いで宇宙(自然)エネルギーがその代役をし、DNAは一般の生命エネルギーとは違って宇宙エネルギーのDNAですから、人体や胎児という「 現象 」は同じように見えても、その「 空なる我 」は、純然たる宇宙(自然)エネルギーですので、人間は宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合ですので、エネルギーである「 神 」にはなれず、「 神 」に近いブッダになれるくらいでしょう。

ですから、イエスが宇宙(自然)エネルギーだけが体内に働くのなら、人間とは違った「 奇跡 」といわれる事もできるかもしれません。

イエスのエネルギーは宇宙(自然)エネルギーと同質のものであり宇宙(自然)エネルギーそのものと同化していますから、彼の行為からは、宇宙(自然)エネルギーがあふれ出して来ることも考えられますし、彼の行動や彼の言葉はエネルギーそのもので、それらの中には、間違いがないどころか、福音書にもありますように予言も可能なのかも知れません。

彼が話す「 神 」の言葉は、「 無明で盲目のエネルギー 」が現象となったものですから、自然エネルギーが意思を持った状態で、私たち人間のように迷うこともなく、「 宇宙(自然)」の意思として語られ、イエスもご自分の言葉どおりの死を迎えられるのでしょう。

では、なぜ「 死 」を迎えるのかですが、宇宙(自然)エネルギーが生命エネルギーとなったとしても、生命エネルギーの衰退と同様に物質の変遷が起きて「 死 」という形をとると思いますが、習合しているのが宇宙(自然)エネルギーだけですので、輪廻転生することはないでしょう。

私は、人間が誕生から死後へと向かうことについては、全く恣意的な考えをしています。

 

宇宙(自然)エネルギーと生命エネルギーの習合したのが人間ですが、この宇宙(自然)エネルギーが如何にして生まれたかですが、「 無 」と「 現象 」を示す「 有 」ですが、完全均衡状態のエネルギーが何かの間違いでその対(ペア)となるぶきエネルギーから外れて、他のエネルギーと結びついて(いわば「 浮気 」のようなもの)、物質(浮気の結果の子供)が出来てしまい、「 安定 」し「 均衡 」しますが、宇宙(自然)エネルギーは、本来、安定し均衡すべき対(ペア)のエネルギの存在を欠いていますから、人体の中で安定しているように見えても、絶えず消滅すべき対(ペア)のエネルギーを求めていますから(例えば結婚しても浮気するように)に、人体の中で「 不安定 」を提供し、それが、新陳代謝の「 古い細胞を破壊する神 」となり、「 生きる原動力 」でもありますが「 死 」へと駆り立てるエネルギーにもなるんじゃなかろうかと思います。

ですから、キリスト教では「 神 」を「 父なる神 」と呼ばせ、自分の頭脳の中で「 創造 」を担当する神となり、不均衡から均衡へと動かせるゆえに創造の「 神 」の働きである「 創造 」を重視しているんじゃあないかと思います。

この世に「 破壊の神 」や「 創造の神 」がおわすのではなく、この世を構成する宇宙(自然)エネルギーが、そもそも「 無 」あるいは「 無限 」のエネルギーの対称の中から偶然にも飛び出して、他の受容体「 有 」なる「 現象 」を作り出すところから、それら二つの神の働きを持っている、即ち「 万物は流転する 」ことを可能にしているから、「 現象 」を次の「 現象 」に変えるのであり、「 無常 」を引き出しているのであり、この「 無常 」を感じることが「 神 」を感じることで、天災などに見舞われたときに、「 破壊する神 」を感じるのも、「 神の存在 」を確認する契機になるのかも知れません。

天災の被害を苦しむ人をみて、「 あれは、俺たちとは違う 」と、あざわらい、冷たく突き放すひとは、「 神 」を知らない人であり、その人こそ「 無宗教 」で享楽以外は何も持ち合わせていない動物のようなもので、「 神 」を信じる人であるとは思われません。

イエスの「 死 」でも、「 空なる我 」を構成していた生命エネルギーとして働いた宇宙(自然)エネルギーと純然たる宇宙エネルギーが宇宙に還流するのですから、イエスを構成していた「 空なる我 」は、消滅せず、人間にイエスの現象の残像とともに、生きているイエスを見た人の中に残るのでしょう。

kandk55
作家:高口克則
 空なる我  上巻
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