空なる我  上巻

A-④空なる我の実益

私は、これまで書いて来ましたように、「 無我 」というお釈迦様の考えではなく「 空なる我 」と呼んで、宇宙(自然)エネルギー(神)と生命エネルギー(仏)の習合で、ちょうど太陽や地球の引力や物質を結合せるようなエネルギーであると考え、そのエネルギーは引き付けた集合体が「 自我 」であり、それはエネルギーがひとつの眼に見える現象となったものであり、エネルギーを「 空(kuu)」とし、現象を物質と同一視して「 色(siki)」としました(空即是色)。

「 無我 」と言われると、私という生命体自体が否定されるように感じて、母親の胎内にひとつにエネルギーを秘めた種が宿るというように考えて、「 一切皆空 」の考えも加味して、「 無我 」をエネルギーである「 空なる我 」と置き換えて、上記のようなエネルギーが私の内部にあると考えました。

私は、自分も自然の中の、エネルギーの一つの現象で、それは皆さんも同じで、現象であるからこそ「 縁起縁滅 」というように、条件しだいで、これから違った形の現象にもなれる可能性を持っていると言うだけです。

これは、生きとし生けるものの中にあるのであって、ひとつの細胞の死から新たな細胞が生まれる「 新陳代謝 」という特徴があるもので、DNAに違いによって本能(能力)が違い、セミはセミ、トンボはトンボ、人間は人間と、DNAの通り、エネルギーが尽きるまで生き続けなさいという使命を果たすまで、ネコもイヌもライオンも生きれるだけ生きるのであって自殺をしたなんて、聞いたこともありません。

自殺するのは人間だけですが、他の動物とは違って「 意識 」を持つのは、動物が出来ない自殺するためですか?

E=MC²などという考えは、原爆を作ることもできましたが、同時に科学の進歩に多くの貢献をしたと思います。

「 意識 」の使いかたで、自殺も出来ますが、社会に貢献することも出来ると思います。

「 人間だけ自殺することが出来る 」というのは、人間としての誇りなどではなく、人間が他の動物がしない生きるという使命からはずれた事をする劣った動物であり、苦しくなったら使命なんかに構わずすぐ逃げ出す動物であることを示すことだと思います。

自殺以外に、「 死ぬ気になって 」することがあるのではないですか?

自殺したくても出来ない障害を持つ人や病人もいますが、その身を引き受けて生きようとしてる人に、なんと言うのですか?

「 羨ましいだろう 」とでも言うのですか?

 

引き付けるエネルギーを「 空なる我 」から発するのは、宇宙(自然)エネルギー(神)の下では平等でしょうから、DNAという生命エネルギーの種類や大小で引き付けるエネルギーと、引き付けられる物質も決まると思いますが、頭脳明晰や美人とかいっても、時の流れと共に色あせてゆき(無常)、毎年毎年、首席卒業者が排出され、絶えず技術も変わります(無常)しその人が皆、偉人でもありませんので、DNAの優劣は、人間としての優劣でないことは、いうまでもありません。

私は科学者ではありませんから、重力に関して重力子などという粒子の必要性の存否は知りませんが、昔、アインシュタイン氏は重力はエネルギーによる空間の歪みだとしたことを覚えていますので、私は、氏に従って、「 空たる我 」による歪み、中でも生命エネルギーによる歪みだと仮定します。

他の動物のような生命エネルギーでしたら動物らしくない歪みはないと思いますが、やはり先ほど申しました、自殺を企てる意識をもつのが人間で、特定の線を力線と思うような生命エネルギーの現象である意識による認識の歪みがあるのかも知れません。

生命エネルギーの中でも、お釈迦様がいう「 三毒の煩悩 」が一番先に思われますが、それを生むのも快楽を求める衝動・本能であり、それが現れる場面を「 空間 」とし、その「 空間 」を歪めるものが、先ほどの煩悩だと仮定しますと、「 空間 」を担当する右脳は同時に感情も担当しますから、危険度や好き嫌いも「 空間 」の中で同時に働いて認識を歪めて、衝動のまま近くに引き付ける事になり、本来は清涼な「 空なる我 」の周りに、自己中心の自分が好きな物(無意識な可能性)だけを引きつけた「 自我 」になるのだと思います(空即是色)。

しかし、「 自我 」を現象だと考えると、それを分析すれば煩悩というエネルギーが見えると思います(色即是空)。

あるいは、悟った人が私の「 空なる我 」を見て、「 歪んだ人 」と思うのかも知れません。

現象は「 空 」ですから(色即是空)、煩悩に塗れた「 自我 」という「 空 」を、清涼な「 空 」に変えることで、現象も変わると思います(空即是色)。

ネットで、悟るために修行するのが悟ることだという考えもありますように、煩悩というエネルギーが尽きることがない(無無明尽)ですから、生きている限り、悟る努力をすべきなのかも知れません。

「 自分も自然の中のひとつの現象で、条件しだいで相手の様な境遇にもなるが、他人も自分と同様なんだ 」と考えると、自分が嫌と思うことはせず、自分がされると気持ちの良いように他人にすると良いことがわかり、動物にも自然物にも、やさしい気持ちになって、いじめや差別も無くなると思うのです。

こんな私の考えが間違いなのか流行らないのか、遺書も残さず自殺に走る中学生が、絶えません。

A-⑤<無に対する現象>

以前、「 無 」や「 無限 」を「 ゼロ 」として、なぜその「 無 」から「 有 」が生じるかについて考えました。

その延長の考えです。

「 無 」や「 無限 」を「 数えきれない事 」という意味では同等として、なにを数えるのかは、人間の「 五蘊 」で感じる「 現象 」であるとして、その「 現象 」は「 エネルギー 」が「 形 」として現れた事象であり、人間などの生物は無論、すべての構成要素は同じで、それを結合させているのが「 エネルギー 」であり「 神 」であるとしました。

自分を突き詰めればエネルギーになるだろうし、物を突き詰めれば、それを結合させるエネルギーとなるでしょうし、それが「 色即是空 空即是色 」だと考えています。

その際、「 無 」から「 現象 」の「 有 」が生じるのは、完全な均衡(無限・無)から、偶然にも結合させる「 神 」の手違いで、対消滅するべき要素と違った要素が結び付いて、「 現象 」という「 有 」が生じるのではあるまいか?としました。

ちょうど、南部氏の「 対称性の崩れ 」のように。

そうであれば、この世の物質は、すべて「 神の手違い 」で生じたもので、その内実は、要素が衝突するエネルギーであるだろうとしますと、物質を生じさせた「 エネルギー(神)」は、この世の全部に広がっており、それが宇宙の温度かも知れません。

その他に、ダークエネルギーやダークマターがあるとしましてら、他にもエネルギー(神)が、おわすことになり、それが「 やおよろずの神 」であるかも知れません。

この世が、ダークエネルギーから発した違ったエネルギーが働いているのなら、それこそ「 やおよろずの神 」がおわす事になると思います。

さて、話は戻って、「 無 」とか「 有 」とかいうのは仮定の上での概念だけであり、経験できるのは、自分を動かしているエネルギーぐらいなものだとして、「 無 」が完全なエネルギーの均衡状態で、その均衡が、ある偶然で破れたとき認識可能な「 現象 」で、それを「 有 」としますと、実験室での手違いなどによって偶然に発見されたものがノーベル賞になったケースを考えますと、当時の世間では間違った手順なのに、それが、結び付ける「 神 」の眼からは「 正当 」であるように、失敗の積み重ねで「 正当 」になることもあり、人間の手で「 現象 」を作れるかも知れないと思ってしまいます。

「 藤井聡太七段のAI超えの手 」のように、人工知能から「 不可 」と言われているにも関わらず、人工知能のその時の判断が間違ったケースなど、社会で「 客観的 」で「 合理的 」なものは「 真実 」を保障せず、当時の人間の思考を満足させるだけですが、人間そのものも、「 神の手違い 」であれば、その評価も「 真実 」でないことは明らかでしょう。

ある「 現象 」に遭遇し、それまでの概念で、不条理や矛盾という言葉を添付して「 諦めること 」はせず、社会一般での「 客観的 」や「 合理的 」という評価を気にせず、自分のDNAに従って行動すれば、「 後悔 」も少ないのではないかと思います。

(宇宙が膨張しているか、縮小しているかについてアインシュタイン氏が躊躇したように)

その「 不条理 」や「 矛盾 」がなぜなのかを後世に残して、その不条理を包摂する考えこそ「 真実 」に近づけるもので、今、生きている時代に、出来るだけの「 オリジナル 」な構成物を後世に残すという意味で、「 芸術 」や「 逆説 」を作る意味があるだろうと思います。

社会的には批判も多いでしょうが、数多くの「 逆説 」を残すことも、後世のためになるかも知れません。

(ちょうど、「色即是空 空即是色」という言葉のように)

 

私は、これまで書きましたように、私立の法学部卒であり、その他の分野には疎いのですが、「 成り行き上 」、よその分野に踏み込まざるを得ません。

数学者でも哲学者でも僧侶でもありませんが、前回に書きました「 無 」から認識可能な「 現象 」が「 有 」として数えられて、その行き着くところが「 無限 」であろうというのを、「 一切皆空 」や「 色即是空 空即是色 」や「 万物一如とする無分別智 」などから、現在、生存中の私の考えを書いてみます。

私は、「 一切皆空 」で「 空 」を「 エネルギー 」としますから、「 無 」も「 現象 」も「 有 」も「 無限 」も、「 エネルギー 」の元に成立する概念と考えて書きます(私の立場)。

「 無 」も「 無限 」も「 数えきれない 」という特徴があり、「 数える 」のは「 現象 」を主客対立にして、数字という符合、あるいは「 象徴 」をつけて、区別する事であり、それを「 分別する 」ということだろうと思います。

私の立場で考えると、「 無 」は認識不可能なエネルギーの完全な対称の「 形 」であり、「 現象 」は本質など他の概念の中で捉えるのではなく、文字通り「 象 」となって「 現れること 」であり、なにが「 象 」になるのかは「 エネルギー 」が何かの手違いで、人間が認識できる「 象 」(表象)となったのであり(空即是色・E=MC²)、その「 象 」(表象)を主観と客観で見て「区切って」、集めたのが加法で「 象 」が認識することが出来なくなったのが除法で、数えきれなく計算不能になった「 現象 」を「 無限 」だと考えまして、「 現象 」はいずれ「 空(エネルギー)」になる(色即是空)から全体の均衡がとれているのが宇宙だろうと、私はここで考えています。

まず区切ることが可能なのか?を問いますと、「 万物一如とする無分別智 」から見ると、ひとつを区切っても、もうひとつの間には「 無限 」の完全な対称があるかも知れませんから、「 一如 」であるのに「 区別 」によって「 無限 」を自らが「 作り出すこと 」で、それは人的加工されて有理数の間には「 無限 」の対称は存在しないと勝手に決めた約束事であり、別れたように「 現象 」させた神をも恐れぬ不届き者がすることで、数字の発生源である「 現象 」は途切れることなく連続するから「 変化 」するのであり、「 有 」と「 無 」には、存在の「 形 」こそ違えど「 エネルギー 」は続いているから、数字は符合しか意味はなく、実物するという物も認識不能な「 空・エネルギー 」になり得て、常に同一でないことも考えられます。

「 実在 」すると仮定していても、エネルギーとしては「 実在 」すると思いますが、実在する一定の「 物 」という保障は無く(色即是空)、前提そのものが疑わしいと思います。

科学は数字と共に進歩したのだと思いますが、それ自体が「 砂上の楼閣 」でして、一定に実在すること自体が出来ません(無常)。

無常の上の構成物ですから、実物に適用すれば、既に変化した物に不変の公式を当てはめますから、狂うのは当然でして、確率でしか存在を把握できないのは、存在自体が絶えず変化するから当然であり、確率は「 蓋然性 」であり「 必然 」ではないところに、不条理を捨てた合理性を感じます。

「 生死一如 」と申しますが、これも「 無 」と「 現象 」と同じく、神(エネルギー)の偶然の結びつきの「 形 」が誕生であり、その「 現象 」という「 形 」が崩れるときを「 死 」としますなら、「 誕生 」も「 死 」も、人間の認識可能な「 現象 」の「 形 」の「 生滅 」に過ぎず、流れるエネルギーは流れ来て、流れ去るものですが、その行き先は、同じエネルギーである「 無 」や「 無限 」の世界、それを「 無明 」といって生前は恐れますが、死後は「 無明 」という「 エネルギー 」の中に回帰するのだと思います。

ですから、人間界に聖者の再来も期待することが出来ると思います。

私の死後は、トンボやミミズや犬や猫や馬や牛など、生命がある物に転生したいと思って見ますと、動物たちが、いかに人間より「 悟っている 」のかを感じますし、彼らの生命が短いのも生命を与えた仏の慈悲でして、短い生を終えた死後は再び転生して、あなたの隣人になって、100歳までの長寿な老人になったり、学者や聖者に生まれ変わる可能性もあると思いますので、怖くはありません。

より良き人生を全うし、死ぬときは死ぬと、思うように心がけています。

「 散る桜 残る桜も 散る桜 」と昔の人はいいました。

私は人間、あなたも人間。私は死んでゆきますが、あなたも同じく死んでしまうのです。どんな人間も、状況は同じなのです。

同じ人間として、いじめをやめましょう。差別をやめましょう。自殺をやめましょう。戦争をやめましょう。

kandk55
作家:高口克則
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