いや、一度だけ例外がある。その頃永井さんはボディービルを始め、体を鍛え始めており、写真集まで出していた。その写真集を友人らに送り付けたりしていたそうだが、私もその一人であった。永井さんにしてみれば、赤の他人でも、何者でもいいので、自分の裸体を見せつけたいとの思いからだったろう。しかし私の方では、初めて永井さんからのアプローチである。なんとか気を惹きたかった。私の好みではなかったので、その裸体に全く魅力を感じることはなかったが、精一杯の卑しいほどのおべっかを返礼した。
そんな見え見えのおべっかだったのに、永井さんは気を良くして、さらに写真を送ってきた。
その数年後、永井さんは新たな執筆のため、神風連とやらを取材するために熊本県に来る事となり、再会した。
私が小説を連載している雑誌の主幹、町田さんに会う事が主な目的の一つで、町田さんは郷土史家として名の通った人であり、また神風連に人並み以上の情熱を持った人でもある。
二人は意気投合し、大層熱心に神風連について話していたが、私には難しすぎてさっぱりだったが、それでも腰巾着として付いて回った。
熊本の観光案内についても、事前に調べて来ている永井さんの方がよく知っており、逆に私が案内される側となっていた。なにしろ、食事の美味しい所を尋ねられても分からないくらいである。
しかしそれでも、どの飲食店に入っても永井橋は歓迎され、様々な贈り物をされた。永井さんはそれを大切に鞄に収めていた。その中には、寿司屋の湯呑等もあり、私はそのようなものまで持って帰らなくてもと思ったが、くれた人の気持ちを大切にしたかったのだろう。私などは、物でも人にすらも、その利便性しか見えなかった。
ある時、永井さんに、熊本で有名な女のいるバーは無いかと尋ねられた。
異性愛者を装う永井さんの、女のいるバーに来ていたという情報を流しておこうという作戦である。
しかしこの時は、ある高級クラブの名が浮かんだ。そこには妹が勤めているのだ。ところがそこへ行くと、妹は既に辞めていた。
私がその事を知らずにいたという、その兄弟・姉妹への冷淡さに、永井さんはかなり驚いていた。
せめてできた事と言えば床の相手くらいだが、これも十分にこなせたとは言い難い。性欲処理ぐらいはできたはずだが、私に夢中になるというようなものではなかったはずである。
そもそも私も永井さんも、互いに好みではなかった。
まだ私が大学生の頃、永井さんがかつて恋をしてふられたので、たいそう落ち込んだ事のある青年を見かけた事がある。がっしりとした、柔道でもやっていそうな体育会系の体と顔で、やんちゃで快活そうな好青年であった。それは同時に私の好みでもあり、私と永井さんの好みは似通っていた。
ある夜、永井さんと繁華街を歩いていると、Kという私の知人が声をかけてきた。
Kは妻子持ちの、ノンケを装うバイセクシャルであり、私はその夜初めて聞いたのだが「永井さんの大ファンなんです。」と言っていた。
文学青年というものをあまり好かない永井さんだが、Kの事はかなり気に入った。Kも相当な社交家で、発言に嫌味を感じないからだろう。
バーからバーへと、3人で飲み歩いた。永井さんの泊まるホテルで別れる時、Kは子供みたいに別れを嫌がり、駄々をこね、私に引きはがされて泣きながら帰宅した。
演技なのか本当なのか、いや本当なのだ。Kはそういう奴である。しかしこの時の悲しみを引きずる事はないだろう。帰宅する頃にはすっかり立ち直っている。Kは目の前に居る人間を本気で愛する。それは確かに愛であり、その愛は永遠のものだが、情熱の方はすぐに別れた人間から離れ、その時目の前に居る者へ注がれるのである。
この愛し方は、永井さんと似ているのかもしれない。私は羨ましかった。このように生きられればどんなに人生、幸せだろうかと思う。
それはともかく、永井さんはすっかりご満悦で、この夜はとくに楽しかったとの事だった。
帰りの列車に乗る際、見送りの人達が来ていたが、Kもそのうちの一人であった。彼はスーツを着て正装しており、目が合うと軽く会釈するという、遠くから見送る形であったが、永井さんはそれを確認でき、嬉しそうであった。Kは相手の抱える事情に配慮できる人であったので、「昨夜はどうも」などと言わなかった。そして仲間内ですら、誰にも永井さんと飲み歩いたと漏らした事は無い。
それから数か月後、私は「現」の連載を終え、これを何とか本として残したいと考えていた。そこで大作家である永井さんに、どんな出版社でもいいので口をきいてほしいと申し込んだのだが、返事は芳しくなかった。私を傷つけないよう、言葉を選んでの返事であったが、「現」に本として出すほどの魅力を感じない事が要因と思われた。
これを書いている今なら、それがよく分かる。なぜならその小説「現」は言わば恨みの書であった。主に実母への恨みつらみを吐き出しているだけの作品であり、それは私を苦しめるヒステリーに苦しむ狂女を表すかのようで、書いた本人ですら読み返して不愉快になるような作品であり、こんなものはタダでも読みたくないとすら思った。
しかしこの時の私には、それが分からなかった。隠し持つヒステリー女を抑え込む事に疲れを感じ始めていたせいかもしれない。
その頃同居していた母は、永井さんの反応を知り「永井さんは林芙美子を嫌いと言ってたような人だから、上品な育ちのためか庶民的な作風を嫌うのだろう」と気を使い、私を慰めた。
私の好きな林芙美子と同等に並べるような言い方をされたので、それは私にとって大いに慰めとなったが、自分への恨みつらみを並べ立てるような作品に対して、よく母はそのように言えたものである。
母の寛容さを思うと同時に、自分の被害者意識の強さに我ながら呆れる。
ある時の永井さんからの返事に、細君が自分への手紙を勝手に開いて見る事になったので、自分や永井さんの男色を匂わせるような事は書かないでほしいとの内容があった。しかし同性愛内容の作品を書いた場合は、細君も気にしないので、気にせず送ってくれとの事だった。
何でもない普通の手紙である。しかしあの頃の私は、かなりおかしくなっていた。辛うじて、家の外では普通の教員を通していたが、家の中では襖をけたたましく開け閉めしたり、何かの入った箱をひっくり返したりしては同居する母を罵った。
抑え込んでいた狂女を、とうとう抑えきれず外に溢れ出してしまったのだ。
母はそんな私を、度々ごとに宥めていた。まるで泣きわめく赤子をあやすようである。
そんな半分くらいキチガイであったため、普通の手紙も普通に読めず、「もう手紙を送らないでほしい」と読解した。
今から考えれば永井さんも、やっかいな人物に関わったものである。私は「関係を持った中なのに、出版社との中を取り持ち、本を出版させてくれない」「いきなり拒絶された」「理不尽にも捨てられた」「馬鹿にされた」という風な、何の根拠もない被害妄想を膨らませ、逆恨みの感情を抱いた。
そしてそれ以降、永井さんに手紙も小説も送っていないので、当然永井さんからも返事は来ない。いつもの事なのに、私はそれを「永井さんが私に怒りを抱いているから」とこれまた被害妄想にとり憑かれ、一人悩んでいた。永井さんが私に怒りを抱くような事は何も無かったというのに。