福島県にある、私が勤めた学校は山奥にある生徒数の少ない学校で、下宿先も寂れた旅館であった。その旅館には少年が一人、働いていて、彼は母子家庭で母親は他所で働いているのだが、ある日母親に男ができて、彼は捨てられた形となった。そのため、夜一人で泣いているのを見かけたのがきっかけで親しくなったのだ。
私はその少年に、形容しがたい下心を抱き、勉強を教えてあげると言って部屋に入れるようになった。勉強を教えながら、徐々に体に触れていき、要は性的悪戯をするようになる。
身寄りの無い、何も知らぬ子供である事が私を安心させ、私の性器は反応した。少年の顔は引きつっており、不快を感じているようだったが、それでも彼の知る世界で優しくしてくれるのは私だけなので、拒絶できないだろうと、私は安心していた。
この少年の心に、生涯抱えるであろう傷を残す事になると、私は知っていたが、それ以上に、この醜悪な行為によって自分の自尊心を取り戻せるとの考えの方が大きかった。
そして私は、自分は性行為が可能であると確信し、自尊心を取り戻したつもりでいた。醜悪な行為により取り戻す自尊心に何の価値があるのだろう。そもそも自尊心を取り戻してなどいなかった。その後も私は相変わらず、傷つきやすく脆い自尊心のままだったのだから。
私も母に捨てられた、というのは被害者意識の強い言い方で、あまり使いたくないが、そうでなくとも、私自身はそのように考えていた。
少年が自分の境遇と似ていると考え、自分がして欲しかったような事をしてやる気にならなかったのは、なぜなのだろう。
それ以来、私は彼と同じような、身寄りが無く、立場の弱い、何も分からないような少年ばかりを狙っては、このような犯行に及んでいた。
そして「私が少年達に本気で恋をしていたから、その気持ちが通じて世間に私の行為が露呈しなかったのだ」と、自分の憎むべき醜悪な犯行を美化する事で目を逸らし続けた。
私は少年趣味なわけではない。例えば、ゲイバー等へ行けば、デブ専の少年達が、当時肥満であった私と喜んで関係を持ちたがったが、私は本当に嬉しくなかった。
少年達は私の太った腹にしか愛着が無く、私の人格や個性、意思に全く興味が無かったからだ。
私は、彼らが興味を示さないそれらも含めて、自身の全てを受け入れられることを望んでいた。だから、抵抗力の無い子供になら、押し付ける事が可能と考えたのである。
上記のように、若い体に執着しているわけではないので、老年の男に惹かれ、ついていった事がある。
しかし結果は散々であった。酒をしこたま飲まされ、滅茶苦茶に酔わされて犯されたのだ。人によっては和姦と言うだろうが、私には強姦であった。自分もかつて、同じ事をしていた事を棚に上げ、私は酷く傷つき、屈辱を感じた。
このような感覚は、同じゲイの人間にも理解し難いらしい。我々ゲイの恋愛は、体の関係から始める者が多いのである。
私は、自分が恋人を求めているわけではない気がしている。おそらく母親を求めているのだ。性癖が男に向いているので、男に母性を求めるようになったのだろう。
大学を卒業した私は、高校教師の職を得て郷里の熊本に帰った。東京への憧れはかなり薄れており、東京の華やかな世界に進出する自信も気力も失っており、身寄りの無い場所での生活に心細さを感じてもいた。せめて身内が大勢住む場所で暮らしていこうと考えたのだった。
しかし私の冷淡さは、身内にも同様であり、貧窮する彼らを助けようなどとは微塵も思わず、こんな至らぬ身内を持つ自らのみを、憐れんでばかりいた。
ある時、実母が僅かばかりの金を借りに来た事があり、私は彼女を罵り追い返した事がある。母が大人しく、哀しそうに帰って行く後姿を見ながら胸が痛んだが、気が変わるほどではなかった。
今思えば私は母に甘えたかったのだと思う。産まれてから叔母に預けて、私を放っておいた事を根強く恨んでおり、恨み言を吐き出して、受け入れてほしかった。
そして金を借りに来た事に、私は逆に母が私に甘えていると感じて反発を感じた。
母の夫(私の義父)は没落し、寝たきりになった後、先立った。母は娼館の客引きをやりながら、甥や姪達を養っていた。
私は育ての親である、叔母と暮らしていたが、彼女が80を過ぎた頃、母は快く彼女を引き取り手厚い看護をした。私は育ての母親にすら冷淡だったからだ。
私の中には、一人のヒステリーに苦しむ女が隠れ住んでいる。そいつは半狂乱で暴れながら、親、兄弟、姉妹への憎悪を叫び続けている。その女を誰かに許容してほしかったが、そんな相手が居るはずもなく、私は一人抱え込み、その女に生涯悩まされ続けた。
私はその女を小説に吐き出そうとした。気は紛れたが、女は消えない。相変わらず私の心に居座り続ける。
その小説「現」は地元の同人雑誌に載るようになり、私は恐る恐るその雑誌を永井さんに送った。文学青年等があまり好きではない永井さんに、自分の書いた小説を送ったりしても好感を持たれるどころか、逆効果ではないかと怖かったが、何でもいいから永井さんと再び繋がりを持てるきっかけが欲しかったのだ。
期待しないよう、自分を戒めていたが、とても好意的な手紙が永井さんから送られて来た時は泣く程嬉しかった。なのですぐ返事を書き、地元の名産ザボンを箱詰めで送った。返礼が来て、上京する機会があれば是非連絡してほしいとも書かれていた。
身内のちょっとした用事で上京する事となった私は、永井さんに連絡して昼食を共にした。会いに行くため、ご自宅にもお邪魔したが、既に妻子持ちとなった永井さんの住むそこは、非常に華やかな洋風の館であった。細君も紹介されたが、ぱっと見でしかなかったが、非常に仲が良い。
会話上手な永井さんとの再会は、相変わらず楽しいものであったが、妻子持ちとなり、世間の許容する世界の住人の仲間入りを永井さんが遂げた事で、私は勝手に疎外感や孤独を感じ、「君も結婚してはどうか、自分の子供はそれは可愛いものだよ。」などと言われた時は、世間のはみ出し者として見下され、馬鹿にされた気がした。
それでも別れ際、新作ができたらまた送って見せてほしい、上京する際も是非れんらくしてくれと言ってくれたので、被害妄想が燻りつつも隠蔽する事ができた。
その後も私は、「現」の連載されている雑誌を熱心に、手紙と一緒に送り続け、永井さんは必ず返事を返してくれた。しかし永井さんが私に手紙を送るのは、いつも返事であり、永井さんから送られてきた事は一度も無かった。
いや、一度だけ例外がある。その頃永井さんはボディービルを始め、体を鍛え始めており、写真集まで出していた。その写真集を友人らに送り付けたりしていたそうだが、私もその一人であった。永井さんにしてみれば、赤の他人でも、何者でもいいので、自分の裸体を見せつけたいとの思いからだったろう。しかし私の方では、初めて永井さんからのアプローチである。なんとか気を惹きたかった。私の好みではなかったので、その裸体に全く魅力を感じることはなかったが、精一杯の卑しいほどのおべっかを返礼した。
そんな見え見えのおべっかだったのに、永井さんは気を良くして、さらに写真を送ってきた。
その数年後、永井さんは新たな執筆のため、神風連とやらを取材するために熊本県に来る事となり、再会した。
私が小説を連載している雑誌の主幹、町田さんに会う事が主な目的の一つで、町田さんは郷土史家として名の通った人であり、また神風連に人並み以上の情熱を持った人でもある。
二人は意気投合し、大層熱心に神風連について話していたが、私には難しすぎてさっぱりだったが、それでも腰巾着として付いて回った。
熊本の観光案内についても、事前に調べて来ている永井さんの方がよく知っており、逆に私が案内される側となっていた。なにしろ、食事の美味しい所を尋ねられても分からないくらいである。
しかしそれでも、どの飲食店に入っても永井橋は歓迎され、様々な贈り物をされた。永井さんはそれを大切に鞄に収めていた。その中には、寿司屋の湯呑等もあり、私はそのようなものまで持って帰らなくてもと思ったが、くれた人の気持ちを大切にしたかったのだろう。私などは、物でも人にすらも、その利便性しか見えなかった。