出ヤマト記 平成日本に別れを

通し番号十六海外引っ越しの難ーー平成30年7月から9月末までの為(2)



ーードイツから振替送金をさせようとしてーー


さて、この間の生活費ですが、帰国時には口座はむしろマイナス状態で息子に借金する始末だったのが、次第に年金が入るとは言え、十月の渡独の飛行機代金と海外引っ越し代金はさっぱりありませんでした。


日本の景気が低空となり、国の借金が増え続けた平成時代、あたしたちの収入はなんと年々減っていったのを、JBが老後のことを考えてそれでも少々ドイツに送金しておいた虎の子がありましたが(退職後、医療費などかさむので年金だけではとうとう暮らせなくなり、すでにそれに手をつけ始めていたのですが)、ドイツから日本への振替制限額では足らず、なんども日本に送らせなければならないことになりました。さあそれが精神的に大変なのです。


普通、簡単なのは振込用紙をドイツの銀行からもらってあるのでそれにユーロで金額とかサインとか書いて送る、するとおおよそ1、3倍になって得するような感じの円の金額がゆうちょの口座に入ります。その後ゆうちょからこれこれという通知のハガキがきます。


あたし名義の口座から口座へ振込をするのです。つまりドイツ名の口座から日本人名の口座へ。別人という取り扱いです。このやり方でも失敗は多く、例えばサインをうっかり違う書体で書いてやかましい手紙がきたり、位取りを間違ってうっかり送金額を大金にしてしまい、慌てて送り返したり、生きた心地はしません。


この方法は、単にJBがものぐさなのであたしにやらせていたということだったのですが、今回、あたしのドイツの口座が空っぽになったので、ドイツのJBの口座から日本のJB(カタカナ名)の口座へ振替えようとしたところ、音沙汰がありません。


苦悩です。大変です。

しかしふと、啓示のように勇気を出し、電話して(もちろんパスワードのようなものが必要で、JBのものが不明状態なのであたしが国際電話するんです。あたしのパスワードで)みたところ、また書き送ったらいいと超簡単に言うのです、若い男の声が。


もう一枚送って要請しました。ところがまたもや失敗、宛先国を書き損ねたのです。どうなるか。ミュンヘンという都市名は有名だからわかってくれるだろうと期待するしかありません。


ところがその日、1枚目の振替申請に関して文句の手紙がドイツから届きました。

JBのサインの書体が登録されたのと異なるという判定をコンピューターが出したというのです。以前に書いたもののコピーがあったので比べてみると、寸分違いません。


そこでまたもやテレフォンバンキングということになるのですが、1回目は何かの間違いか、あるいは担当の女性が親切だったのか、自分の口座以外の口座の情報を質問したのに教えてくれました、そんな処理は全くなされていませんと。

1枚目のはやはりダメだったのです。それでJBと話し合い、また同じ手を使って、あたしが電話し、JBの口座から送金を依頼することができるかもと試したのですが、今回は別の女性にきっぱりと断られました。そりゃそのはずです、そうでなければ詐欺が横行することでしょう。


しかしこちらは大変です。お金が手に入りません。

その頃には日通との契約が進んでいたのです。母の遺産の虎の子を使う気はありません、JBはもちろんそれを使うつもりだったのですが、ここは頑としてあたしも譲りませんでした。そんなこともあろうかと、生前贈与を開始していたのですから。


そうしたところ、天の計らいかJBが自分のパスワードを見つけました。

さあこれで次の時間帯にはJBが電話する番だという夜のこと、ドイツポスト銀行からついに電話がかかってきました。


そしてJBが応対したのですが、送金先の口座の名義人が不明である、同一人物なのか理解できないと言う内容らしく、あたしの場合だと日本人だから苗字が違うことはありうるが、とでも言うのでしょうか、呆然としているとすぐに手紙が着きました。しかも2通も。同じ内容です。

つまり、2通目もドイツ行きと書き損ねたけれどもなんとかドイツについたけれども、この理由でアウトなわけです。


向こうは親切で、あるいは正確さを期していたのでしょうか、確かにJBの口座名義はカタカナなのを無理矢理に知ったかぶりの誰かがローマ字に直して理解しようとしたらしく、その割りには自分のしたことの馬鹿らしさがわからなかったのかも。


それでやっと、JBの電話初登場です。若い男の声で、こちらは超緊張しているのに、超簡単そうな取り扱いで、2通目の要請は通してもらえてラッキー、でもそれだけでは不足なので、調子に乗ってまた百万円になるよう送金を頼むと、テレフォンバンキングでは一回25万円が限度だと言うのでそれを3回頼むことを受け入れてもらい、あとは送金を待つのみとやっとの事でなったのでした。やれやれ、流石に同じドロ舟の二人は顔を見合わせたのでした。


しかし、すでに日通に支払いをしないと船荷が出発しないと言う日になっていました。

やれやれ、あたしは薬をもらいに行ったついでにコンビニにより、一度試してみよう、無理だったらできませんとかATMが言うだろう、と気軽に80万円以上を振り込みと言うボタンのオーケーを押しました。

できました。


すでに出発の9月30日が近づいていました。ホテル代は現地払いです。

ホテル代、の意味は、借家からベッドも無くなってしまえば空っぽの家、そこになお暮らすことは、たとえ一晩であっても重病人、と言うか半死半生のJBには無理なので駅近くのホテルに移るし、またフランクフルトに着いた時も一泊余裕がいるだろうと思ったからです。


これは、海外転居が理由ではなくJBがいなかったらしないことなのです。


送金問題には相当心臓が参ったらしく、あたしの動悸や息切れが増えました。



通し番号十七 もう一度7月に戻して



ーー親切な人たちーー


時間の流れをまた元に戻して、帰国して最初の月7月から始めましょう。


最初にし始めたことの一つは、2011年の引っ越しの時に押入れの下の奥にJBのものの入った箱を開けもせずに押しこんでおいたままだったのを、引き出して中身をいるいらないに分類するという仕事でした。


これらは勤めていた大学の部屋に置いてあった本などで日常的には全くいらないものばかりでした。もちろん、JBが若い頃に勉強した成果のノートなどは取っておくと言うのは理解できます。あたしのものは惜しむものもなし、ほとんど捨ててしまいました、写真に撮って残すものはあります。



写真といえば、アルバムの写真保存、廃棄も最初に始めたことでした。写真の多さには驚きます。セピア色の赤ん坊の顔から、思い出ばかり、両親の顔、ほとんど廃棄したのでデジタルとして残っているばかりです。


母の描いた植物の絵も実物は捨て、写真に収めました。身を切るような思いもしましたが、あたしが死んだらそっくり捨てられてしまうものばかりです。著名な作家なら別として庶民の持ち物は消えてしまうのです、誰の記憶からも。


衣類のうち、JBの集めた変な趣味のものは捨てる第一の対象です。半分はもっと前にネットで箱詰めにして売りました。もうサイト名の忘れましたが。思えば2011年にも捨てまくったのにまた溜まっていたのです。


先に少し触れておいたのですが、引越しの中心人物は、ミセスGとミセスK、同年齢で週に数日の仕事があります。


どちらかというと肉体労働ですが、どちらも若いときにはひ弱だったのが、この歳になってから充実したという自覚を持つようになったと話してくれました。


そしてあたしが、自家用車は止めてあるままで運転もできない愚か者であるのを気にして、まずは買い物、交互に時間の空いたときに車でスーパーやドラッグストアに(何しろ水、コーラを始め、ペーパー類、乾燥剤などかさばるものばかり、それに肉類、ヨーグルト、JBの必要なものを中心に)連れて行ってくれ、すぐにあたしの買うものを頭に入れてさっさと下見もしてくれるのでした。


二人の特徴は、目が大きくクルクルしていて、要領が良くて気がきくことです。あたしは、あ~そうだった、などとむしろ付いて回るのでした。これが毎週のことです。


ときにはお茶やランチをしたり、二人とも図書館美術館が好きで、二人とならあたしは本来ならばもっと楽しくともに人生を過ごせたことでしょう。三人で会うことはありませんでしたが。だってそれはいわば時間の無駄ですから。


とりわけ暑い夏となりました。ミセスKが納涼祭に連れて行ってくれたとき、あたしの左足が例の神経管狭窄で痺れたりして、ミスタKまで動員されて車を出してくれました。いつもは閑散とした神社が人で埋まり、協力してあれこれの行事が進んで行くのを見ました。



*アメリカ大統領トランプばりに、世界に対し、神に向かって無駄な発信をしているあたしです。こんな風に。。。。


(7/18 青い惑星に一つのものとして個性豊かなる生命の、納涼祭での種々の催しに触れているうちに、自らに課した移動ではあるが人々の愛しさゆえに別れの涙が浮かんだ。

TV Lucifferシリーズで気づいたマリンバのリズムを刻むBGM音楽が最近どこでも耳につく、

地球上に鳴り響いているかのように。



ミセスGとは、彼女のクリンセンター経験を聞いていたため、ちょっと郊外のそこまでまず連れて行ってもらいました。それから、おそらく余り乗り気ではなかったでしょうに、うちに積んだままで使いもしないガラクタを何度も運んで行ってくれました。


これはミセスGでなくてはできないことでした。というのもセンターでは車を自在に前後に動かさなくてはならず、環境的に危ないところもあったからです。ミセスKにはその自信がなかったことでしょう。

普通の週3回のゴミ出しの日には大きすぎて出せないものでも、切り刻んで出せば可能ですが、あたしの関節が痛んでいたのです。

彼女にはいくばくかのお金を渡しました。気持ちよく受け取ってくれるので助かりました。



(8/1 友よ太神よ、確かに悲痛がなければ大いなる力を求めない。

まさにその転換点が1999年だったのですね。

電磁波が互いにうねりうねりして進むように、今はこの戦いに隣人という無上の諸手の手助けを得て進む断捨離、同時に過去を体験させられ。

青い車の彼女とも助け合う関係。

恐らく金を払うことで人助けも



帰国してすぐ、生い茂っていたモッコウバラの茂みを(ついに最後の花盛りも見ることなく)順々に切り取り、次第に大枝に移り、根っこを掘り出し、支えの網目も外し、どうしても掘り出せない根のみを残すまでにしました。


すると欲ができて、白い羽衣ジャスミンの茂み、要するに目隠しのための生垣なのですが、これも徐々に刈り取り、一本の根からよくもというほどに茂って広がっているのを延々と伐採しました。さほど苦痛ではなく、やや哀れを催しながら独り言を言いながら、お別れしたのでした。


綺麗好きのご近所を慮って、見苦しい雑草(主ににら、これまで抜かなかったハナニラ、猫じゃらし、オオバコ、年ごとに栄養不足の朝顔、その他名も知らぬもの)をざっと抜き去り、家の四方を一人でさっぱりさせたとき、流石に腰痛が起こりそうになっていました。


オシロイバナの驚くほど大きな球根も、残っていました、実生から育った蝋梅の木の根もスコップなしでは無理でした。

誰か手伝いが必要でした。柿、金柑、金木犀は元々植えてあったので、抜く必要はありませんでした。


こんな仕事と同時に、相変わらずこの天地とありうべき聖霊とのシステム的な関係を理解し定義する努力もありました。

そこには個人的な、あるいは生物的な善悪入り混じったシステムの理解も第一義的に重要で、そのための物理的かつ哲学的形而上学的理解も欠くべからざるものなのです。

そうするうちに間欠的に、JBという存在への理解が変化し、また逆変化し、揺れるのでした。



(7/29 光なる太神へ、ヒトが聖霊を実体的に感じるための装置が魂であり、感じれらるということが物質世界の所以か、そんな構築かと;再考を要するも。

人を苦しめた罪の償いを自分に課しているのが私一人ではなく二人だとわかって驚愕する。

彼は同士だった!

しかもお互いを苦しめるという方法も追加して



ミセスKには子供、孫あれこれいるのですが、同居中の市役所勤めの長男のその長男に母親がいなくて、我が子のように育てていたのですが、大学生になり神奈川県にいたのが帰省するという話でした。

あたしにとっては渡りに舟、神の巧みな計らい以外の何物でもありません、うまく腰痛も起こってきたので人に頼むのに迫力も出てきますから。


庭仕事に難儀しているのはもちろんお隣なのでわかってもらえており、ミスタKも「暇で困ってますから、コツコツ何かやるのが好きですから」とこれでもかと生えてくる草を抜いてくれます。

ミセスKもゴミ袋とほうきなど一式揃えてプロのそうじ力を発揮させ、ちょっと話をしただけて溝の落ち葉やくずを集めて自分ちの袋に入れて、ゴミ出しの日に出してくれ、もう言う事有りません。



その孫の虎太郎くんがついに帰省して初めて挨拶したところ、僧兵のような大男で無口ですがなかなか味のある若者でした。時間千円でひょっとすると英語会話付きと宣伝してスコップ仕事を頼んだのです。

何しろ、ミスタKも実は心臓が悪く、また菜園のご夫婦も病身、と言う健康な人ゼロという地域です。


ところが、孫が汗をかいて、汗を垂らして働くとジジババも放ってはおけず、毎日のように三人でうちの狭いながらも四方の庭を、抜く先から生えてくるのを見事に更地になるまで完璧に土色にしてくれました。


ちょっと傑作なのは、ミスタKが忘れやすく熱中しやすい、という振る舞い、それによって抜く必要のない木の根っこまで破壊し全てをツルツルにしてしまった事です。何度となくそれは抜かなくていいと言っても、はいはいとは言うものの抜かないと気が済まないらしいのでした。



(8/5 友よ太神よ、7月が終わり腰痛が始まり、同時に助っ人虎太郎くん登場。

痛くなければ頼めないという難点解消。

CWGの著者Neale Walshの矛盾点、目の前にあるかのような現実世界の創造は私個人によるのか世界幻想なのか。

どこかで他人を苦しめていることの無意識の償い。

イエスはその慈愛もて苦悩に寄り添う)CWG:Conversation with God


暑い暑い夏、あたしはむしろ腰痛を心配されて草抜きには参加しないままこんな想像もつかない親切を受け続けたのでした。

もちろん、ミセスGのゴミ出しサービスも止まず、どちらからも買い物その他の手伝いも受けていました。


こんなことがあって良いものでしょうか。しかし助けてもらわなくてはどうしようもない私たち夫婦でした。



ーー大仕事、持っていかない物を如何に処理する、8月の為事ーー


捨てるべきもののうち、捨てるのが簡単なもの、つまりクリンセンターで処分できるものが徐々に減っていき、たくさんの事務製品やハンガーなど菜園でもらってもらい、ミセスKは自分でも使いつつ知り合いに勧めてもくれ、消えては行くのですが、全体の数%と言うところです。


そこで2枚目のふすまへの張り出しの紙を製作します。この紙の使い方についてはもう触れたことがあるのですが、実際は計画と現実がクルクルと変わります。


あたしたち夫婦二人とも白いラックされた家具で珍しいことに意見が一致するので、いつの間にかお揃いのように集まってしまった家具、折りたたみ食卓、テレビボード、戸棚4つ、電話台、整理ダンス、壁一面の洋服ダンス組み立てもの、安楽椅子、これにプラスして、その他の大物はこれまた意見一致で集まったガラス机3つ、ガラス卓3つ、さらにプラス、その他の大物でこれまた意見一致で集まってしまったメタル製大棚が二つ。

 それに最後にベッド。布団。


電化製品はみんな持っていけないので、ドイツで買う他ないとすると、新たに家具を買うのも面倒だし勿体ないのでお揃いだし持って行くと言う方向になっていたのですが、日本通運に問い合わせたところ、コンテナいっぱいで150万はすると聞きました。流石にそこまでは予想していなかったので、急に全て捨てる、と言うことに方向転換です。



しかし、どうして捨てたらいいのか?

一番に、ネットで良さそうな引越し処分屋を見つけ、店の場所も確認せずという大失態を犯しました。


前回2011年の引越しに際して運良くNPOのようなリサイクル組織が近くにあり、無料で色々引き取ってくれたので気軽に考えていたのです。


今度のサイトはうまく作ってあり、1トントラックで39800円にサービス中と書いてあり利用者コメントにも満足感がありました。「すぐ来てくれました」

電話するとこれまた感じよく、いい人らいしいのでそのサービスで頼みました。

ちゃんと事前に電話があり、道中が混んでいるので少し遅れますと。ここではっと気づいたのです、どこからくるのですか? 都内です。


おまけにやって来たのは2トントラックだとかでもう基本料金が違う。49800円。

おまけにやって来たのは三人のハンサムな若い衆で、抵抗できないほどいい子なのでした。信用してしまいます。


頼んだのは、メタル大棚3つ、洋服ダンスのメタル扉4枚、布団たくさん、小引き出したくさん、これらを並べて積んだところで、

 「高さが80センチでこの値段ですので、もう超えています。」と一人が言うのです。


超えたからにはもう少し、とばかり食卓、電子ピアノ、バケツ、桶、高価だったミシンなど。結果はあれこれで12万となりました。


流石に呆れて文句を言うと、電話しますからと長く待たされたのち

 「では三人分の人手をゼロにし、もう一度最後の廃棄をうちに頼むと言うことで11万円」と言われました。

それでもひどいわねえ、と渋っていると、これから布団毛布など僕たちが細かく切ってクリンセンターに持って行くんです、としおらしく言う若者。もう2度と頼むまいと思いつつ、その口約束で彼らと別れました。


JBはそれを聞いてもちろん怒り心頭、クリンセンターにお金を払うよりきっと山の中に捨てるに決まっている、とありうることを言うのでした。あたしも全体的に失敗!と思いました。しかし息子に話すと、そんなやり方で普通だとこともなげなのでした。東京に頼んだことが敗因でした。



一方、ネットではなく電話帳をめくって古道具屋へ様子見をかけると、買いません買いません。つまり骨董でなければならないというわけです。


ブックオフからは査定に来てもらうことができて、ありたけの本を玄関先に並べておいたのに、一冊一冊パラパラとめくり、書き込み点検して、どういう基準か右と左に分けて置き、重量級の辞典も貴重な外国語字典も需要がないと持って言ってくれず、そうです、持って行ってもらうというのが最重要課題でした。車はあれども運転手無しではとても事足りません。

半分くらいはそのまま置きっ放しで、引き取りの値段はCDも入れて、1500円ほどでした。需要が、、と言われると引き下がるほかありません。


その頃になって、ミセスGとふらりと入ったのはリサイクル店エコランドという名前の広い店ですぐ近くにあるので行けば良さそうなものですが、そこまで歩く10分ほどの暑さが想像しただけで耐えられず、チャンスを待っていたかのように、すっと入って行ったのでした。

レジの若者に事情を話すとなんと、じゃあいつにしますかともうメモを取ろうとします。こんな態度は古道具屋では初めてだったので、  ま、まだ分類が済んでませんので、とおおよその日時を約束して電話番号をこちらがメモしたのです。

さあ、進捗しそうですが何を持って行ってもらおうか、売るなどという大それたことはもう考えませんでした。


そこへ、ミセスKに一案が浮かびました。あたしとしては早く言ってよ、という感じの一案だったのです。彼女の娘の一人が別の市の中古店でアルバイトしていて、白い家具に興味があるかも、というのはミセスKの意見です、やたらとポジティブなので当てにはならないとは思うものの、当たらずとも遠からずが普通の成果だったことを思うと、一案として採用することになりました。


すると写真に撮ってスマホに送れときました。そうそううまくはできません。ここに来て知り合いの娘の顔を潰してはいけないという難点が出て来ました。この案は良し悪し。


案の定どれを売るつもりかはっきりしろみたいな感じで、こちらから直に電話して実はまだ決定していないので、と言うとじゃあ、さようならと言う感じの応答の男の声でした。それが雇い主なのです。あとでわかったことですが、引き取りにくる車の大きさが問題だったのです。

しかもそもそも頼むときからミセスKが、全てただで良いからと水を向けたのでした。日程のことですったもんだがありましたが、取りにきたのは中年の夫婦者で天蓋付きの大きな車に、安楽椅子、飾り棚2つ、ガラス机2つ、ガラス卓大1、テレビボードを積み込んで去りました。見送りながらなんだか惜しいことをしたような気がしたものです。


これで家の中はだいぶスカスカになりました。戸袋には2011年のまま使わないものがまだまだ残っていました。母の残り物がほとんどです。


食器はほとんど廃棄、これはリサイクルの日に出すことができます。たくさんのドイツ製のバインダー、これも持って行ってくれました。本も週一のリサイクルの日に小山のようにして出し続けました。衣類も何を着るつもりと思うくらい捨てまくりました。

洋服ダンスも次第に空になり、ここでミスタKの登場です。


実はすでにミスタKに打診はしてあったものの、その後いいチャンスが見つからなくてそのままが続いていたのですが、解体をいつするのかと向こうからせっつかれていました。


寝室にあるのでJBが起きているとき、つまり夜しかチャンスがなく、つまりチャンスは全くなく、困っていると、ある日彼が起きていました。

 即! 

ミスタKがぬっと入ってきました。二人ともヒッピー風の汚い長髪です。解体は思ったより簡単でした。JBとあたしだけでもできたでしょう、ただ、問題は長いメタル棒です。


ここでミスタKが神から遣わされた者であることが明確になりました。

彼はそのしつこい性格で、メタル棒を切り、それらから見事な棚を作ってそこにうちにあった鉢物の植物の置き場所を作ったのでした。あるいは、蔦のための支柱をうまく作って、これを誰かにあげるといいとまるで自分の利益などは考えていなくてそのくせ熱心なのです。これこそ無条件の愛です。


そうです、うちの植物たちはそこに安住の地を見つけて咲いているらしいのです。

ハナキリン、匂い桜、ジュズサンゴ、シュロ、へデラ、十両藪柑子、ミントグリーンは思い出の何十年もの。


また菜園夫婦も何かともらってくれました。勿体無い、とあの日本の言葉を連発して。花瓶も捨てるに困るものです、特に母の手製などと言うと。それも菜園夫婦が預かり、知り合いに分け与えていました。うちのお父さんは金物は分解して捨てるのが上手だから、とあたしが困っていた物干し台、庭仕事の母譲りの道具、たくさんの母譲りの植物の支柱を道路を横切って運んで行きます。


そのうちに扇風機や洗濯機が壊れそうとか冷蔵庫が古いとかいうことが分かり、それらも使ったりあるいはお父さんの解体の対象になることになりました。


通し番号十七 もう一度7月に戻して(2)



ーー捨てないものの処置、日本通運の海外引っ越しーー


捨てるものの話ばかりになっていますが、もちろん、持って行くものの準備もしなくてはならず、まずはやはり日通、昔からの丸に通の字です。電話。


ところが7月中に電話したとき、見積もりは8月3日までは無理ということで、3ヶ月はかかるという船荷を考えるとできるだけ早く出したい、しかし生活に使うものばかりなのでその加減が難しいわけで、そこらへんを訪ねたくてメールでやりとりが始まります。平松さんと。

書類も送ってくるし、メールもするのに、どうしてか理解できません。流れが納得できないのです。説明の要領が悪い。


前の引越しの時の段ボールが20個くらいあったので、それにとりあえず生活に関係ない本を詰め始めました。びっちりと崩れないように。


30年前の昔、若くて元気だったJBが日本へ就職するために書籍を詰めたその時のごとくにびっちりと。それらの箱は空っぽになった書斎の隅にくっつけて積み上げます、全体で何立方メートルになるかがわかりやすいように。

その次に大きめの箱を送ってもらい洋服など詰めます。日通からの書類には、細かく本が何箱、衣類がMサイズに何箱、大きなものは何とかリストに書き込み、それを送ると機械が計算して見積もりが出てくるのです、おおよそのところで最初は60万円くらいでした。

何を持って行くかがなかなか決まりません。生活がどうなるかが見当もつかないのですから。JBの容態も。


その重病人のJBが命より大切にしているのが武道具たちです。世界で唯一敬愛する吉田先生関係の薙刀道具、合気道胴着と袴、趣味の収集物。これらをどう運搬するのか彼の気がかり、触れられたくないが自分ではどうもできないというジレンマ。あたしには持って行くのも馬鹿らしいばかりのもの。



8月中旬にやっと見積もり人たちがやってきました。書類と衣類のほか、家具は、白い本棚1、白いメタル棚1、整理ダンス1、ポールハンガー1、木箱2、ガラス台小1、鏡台(1996年以前に買った黒いものをJBが執念で薄紫色に塗り、黄色い引き手のボタンをつけた、それを今は亡き子が最後に来た時に触って、これもJBが塗ったのかと確認した、そうよとつい言ったかもしれないがそうではなかったのをあの子はすぐにその鋭い頭で理解したのだ)と籐椅子各1、JBが無駄に買ってしまい、要らなくなるとあたしにくれる、くれたのだがガラス張りの本来はCDケース、これにはあたし好みの我楽多が並べてあったのをそっくり持って行く、黒厨子も捨てたので菩薩像とおりんと亡き子の名を刻んだお札、亡き人たちの写真、鍋いくつか、漆器類。


日通マンたちは誰もかも「各部屋に持って行く行かないを区別しておいてください、あとは我々がやります」と言う。やりますったってどれだけ時間がかかると思っているのだろう?

説明書によると、日本人の海外引っ越しは短期なので、家具などを3種類に分けるのだそうで、持って行かないが捨てないでどこかに置いておくものがある。そうするとうちはまだわかりやすい方なのです。

80万円の見積もりです。そして8月25日が運命のXデイです。どうなるのか。



もう一つすることがありました。アクセサリー。安いものは別として貴重品は運ばないわけで、あたしの三十年来のアクセ類を処分することを決心しました。仕事をしていた時はお揃いでつけていたものですが、時代遅れではあるし、当時は金もプラチナも安くて気軽に1万円で買い集めていました。さて、どうする。


電話帳で町にある換金屋の大黒屋にまず行ってみることに。目立つところにあるのですが、入ってみると薄暗い階段の上にはマージャン屋というドアがあり、人気はありません。急ぎ逃げ出した時、ガラス戸が一階の反対側にあり白シャツにネクタイの姿が見えました。ふと安心しました。ちゃんと開店時間が書いてあります。


そして、ミセスGがちょうど空いていた日のこと、おばあさん二人で入店しました。


往年の俳優の誰かを思わせる若い男がいて、愛想よく差別もせずに迎えてくれました。

あたしは指輪をたくさん、ザラザラと転がし全部18金ですと言いました。いろいろな石がついたものです。宝石屋のDMが定期的にきてあらゆる宝石(らしいもの)を揃えたいという欲望に火をつけるのでした。男は、ルーペで見ながらこんな石には何の価値もないんですよ、地金だけです。これ持って行きますか、と尋ねるので、はい、と言って、男が次々に外して行く石の色とりどりなのをプラスチックの小袋に集めました。


このルビーね、小さすぎて価値がないのです、かなり高かったのに? ええ、デザイン料ですねー、それなら売らずに使います。などといくつかはまた取り戻したのですが、それでも17万円になったのは今は金が値上がりしているせいだったか、ともかく嬉しかったのです。

これはミセスGと経験した面白ことの第一だったでしょう。 


その際に、店のドアをガタガタ言わせる男らしい姿がありました。その途端、きっとした顔になり、というか表情が一変して怖い顔になったその店長の変化を、さすがミセスG、見逃しませんでした。あの顔見た?と二人で面白がったものです。



恐怖のXデイとなりました。

午前中一仕事してから来るということでした。午後中かかるだろうと。やって来たのは4人の男ざかりという人たち、平松さんはいませんが。各部屋に一人、同時進行です。特別な紙でくるむというのがその方法でした。

あらたに別の箱に自分たちの方法で詰め直すのです。これがわからなかったことでした。

船荷特有の技があったのです。詰め込むより、紙で緩衝する。紙を運ぶようなものです、大げさに言うと。


前回の引越しもそうでしたが、JBが結局整理しそこなった小物は適当にくるまれて一箱ずつリストアップされて行きます。内容物が略記されるのです。あとでみるとまあいい加減なものですが。


そのリストを見ながら、転居先ではどの部屋に入れるかを一々あたしが指示するのだそうです、えーっと言う感じです。箱は68個になりました。ダンボール箱を材料にして、座椅子でも長い薙刀でも切りはりして箱の形にします。

数日後、最終の値段がわかる仕組みでした。その支払いについてはすでに書きました。


こう言うドタバタの間、JBは見事に蟄居状態で熱中症を避けるのに精一杯、医者に行くだけが外出です。あちこちの医者に紹介状を英語で頼み、薬をできるだけ余分にもらい、あたし自身も不整脈や膝痛の治療にと、そのためにも二人のミセスに大いに活躍してもらったのです。




ーーミセスK、ついにうちの中に乗り込んでくる。ーー


少し時間を過去に戻し、孫の虎太郎くんが外で働いていると、ごめんなさいとミセスKがゴミ袋とコロコロとダスキンモップを持って、手袋付きで入ってきました。

あれあれと思う間も無く、さ、どこから片付ける? 

 「と、ともかくでは、台所ですか。」 日々使っているのでどうしたらいいかわからないあたしの頭、2011年にはそんなことはなかった、わからないなんてことはなかったのに。


ミセスKはこれはこれは?と尋ねながら要らないものをまとめて行きます。みるみるうちに床が片付き、埃は拭かれあちこちが剥き出しになります。持っていくものだけはあり合わせの箱に詰めていたので、使いつつもやがて捨てるものを今処分してしまうという方法です。

情け容赦なく捨てないと最後の瞬間に泣く羽目になります。食洗機を乗せていた頑丈な棚ですが、それはあたしが組み立てたので力が足らず、ドアがよく閉まらないままでした。それは菜園のお父さんが直して使ってくれます。


母譲りのたわしなどの洗い物道具がたくさんありました。そんなものすら捨てられないのでした、ミセスKのゴミ袋無しでは。


同時にミセスKの凄腕は、やがてくるリサイクル店のための品物を玄関先にもう並べておくことにも発揮されました。彼女の判断で、これも持って行ってくれるかもと壊れたギター、父の尺八、母の羽子板、漆器の重箱、などを戸袋から出します。もちろん足の踏み場もないのですが、捨てるものは着実に外に出されて行きます。


そのうちに、ミセスKのさらなる方法が出てきました。玄関にあった靴箱にしている可愛い木の箱、扉付き。これを欲しいと言うのです。JBの持っていた色テープ、ミニチュア鉄道、たくさんの糸巻き、お皿のいくつか。水心あれば魚心?


そのうちにミセスGから意外な言葉が。

「お人形って大好きなの、日本人形。」

それこそあたしが悩んでいた代表でした。ドイツに持って行くことも考えたのですが最後どうする?と思うとだれか家族や孫のいる人にあげたいものです。しかもそれがお世話になった彼女だったとは。市松人形は実はとんでもなく高価なものでした。

以前隣に住んでいた奥さんが縁起が悪いからもらってと言うのです。恋人の母親に嫌われ、別れることにしたもののすでに妊娠していた子を堕胎し、しかしやはり押し切って結婚できたものの、その姑からの贈り物だったのです。その後都合でもう一人堕胎したそうですがそのうち二人の子の一人が、どうしてか機嫌が悪くてどうもならず占いをしてもらい、水子供養をしたところ嘘のように元に戻ったと言う話もしてくれました。



*日時が行ったり来たりしているので、まあこんな感じのツイートかなと。。。


(8/24 理神なる太神へ、生物への甘い素敵なギフトを人間は扱い損ねていること、自らもそうだったと苦笑の日々。

ジリジリとゆっくり焼かれているような変化の日々、やはり神慮のすでに与えられていたこと。

その弟が同じ誕生日の後藤さんは布団乾燥機と市松人形がずっと欲しかったんですって!

そして私がそれを持っていた!



(9/1 ありて見つけ難き理神、太神へ、重要なことのプラスマイナスの波に翻弄されてまるで遊園地に居るようなこの身、そこへ、Supernatural に満を持して出演したジーオーディ人間名チャーリー、大好きな人間のいる賢い自然界に住んでいるのだと。

そうとも言える。

ヒトの素晴らしさを見られず失望中らしい。

瞑想太極拳に気づく



ほとんど使っていなかった食洗機は、高価なものだったが廃棄、しかもリサイクル料金がいるというけれど仕方ありません。今回は単発で近くらしい業者にきてもらい、一万円前後払ったでしょうか、これらのこまごまとした実情をを記入していたパソコンのカレンダー機能はその後、基本OS変更の際に消えてしまいました。

モーターのついた洗濯機と冷蔵庫は菜園さんが欲しいというので安上がりだと思っていたところ、冷蔵庫は入らなくて無理ということになりこれはこの後の出会いにより解決するのでした。



(9/4 自然を見ていると理と情の太神なること認めざるを得ない。

数日封書の取り扱いをミスしてばかり、あるいは、うっかりと忘れっぽさを気付きさえせずにいたが、右往左往のうちに思いもしなかったことを知らされて、糸のその複雑さ。

現在起こることは五百年前から準備されていたと仏典にあるとか・然り)



近くのリサイクル店とようやく日程が合いました。と言っても居丈高な男ではなくとても優男がやってきてこちらが予定と違うことを言ってもはいはいと、百円でもプラスしてくれます。ミセスKの思惑が当たり、玄関先に出しておいたものは皆持って行ってくれました。ありがたいことです。おまけにいくらだったか、数千円支払ってくれたのです。


そんなやりとりを見ていたミセスKが、ガラスの机、事務用椅子、ガラス棚コロコロつきをもらうと言います。また孫のために英語の辞書などすでに持っていっていました。ただ有難いのみです。


うちに入り込んだせいで、その代わりにミセスKは自分の部屋をあたしに見せてくれました。

かなりの広さの部屋に畳ベッドと書棚、洋服タンスなどが手入れ怠りなし、という感じで古いなりに美しく収まっています。うちから持っていった本立てを使っているのを見せたかったのです。


時にはマリンパのミニコンサート、健康の講演、大宮神社など共にすることはたくさんありました。市役所にも。おかしなことに二人のミセスの子供は市役所職員なのです。きっとそんな繋がりの中にいるとも知らずに職場で知り合っていることでしょう。



(9/5 太神との結論(存在幻想ー人類<生物<自然<物質存在(極小極大有機無機)~~光子=エネルギー・・・・無いかのごとき情理の法則的マトリックス的実在=超越者、包括者。

こんな成り立ちの自分の階層における感覚として望ましいのは、

無限の情理というエネルギーに抱かれて居るという実感。如何?)


(9/10 友なる聖霊より届いたこころ:最近私を忘れていないか?(課題を一人で克服しようと焦っていた!)

そうじゃないこの難儀も喜びなさい、とまたも湧き出て来る、降って来る、友よあなたの厚情。

疲れた心臓が飛び立つ準備をしてる?

それもいい、がこの生を美しく片付けたい、

少し爪痕をつけたい老婆)


(9/16 微小の物質を柔らかに包む聖霊の、オタマジャクシの卵のような無尽蔵の泡の一つとして、我らは五感を通した景色を体験している。

友なる親なる頼りの太神よ、その後次々に舞い込む幸運を楽しんでいたのに、それを思い出すことができなくて実に残念。

ささやかな心のひだをメモしなければ失う。改心)



船荷が出てしまうと、掃除片付け、最後の廃棄の他に問題は食事をどうするかです。


するとなんと、ミセスKが食事を作って持って来てくれるようになったのです。これは思いも掛けないサービスでした。確かに、孫の虎太郎くんは2万円ほどを稼いでまた大学に帰り、机などいくばくかはプレゼントしましたがそのお礼などではすまない親切でした。


これまであまり料理には熱心でなかったけれどおかげで腕が上がったと何事にもポジティブな解釈です。ある時は、カレーをたくさんもらってびっくりしたのですが、それはミセスKの誤解で、ミスタが2階に住む息子一家4人にも持って行くのかと尋ねたのを、お隣と勘違いしてそれで大量に入ったお鍋を配達してしまったのです。虎太郎くんが呆れて話してくれたのですが。


何しろ彼女はみんなのためになりたい、みんな協力したらいい社会になると心からやる気になっているのです。町内の安全パトロール、行事への参加、公園の美化、孤老への声かけなど率先して迷うことなく、仕事はしながら、時々居眠りして回復しながら生きているのでした。恐るべしミセスK。




ーーいよいよ最終段階、分刻みの予約計画 9月ーー


あたしの赤い2冊目の手帳についにもう一つのカレンダーが記され始めました。

襖に貼ってある案件とは別に、最後の日程つくりです。


目標は10月1日、この日に離日しこの日にドイツに着陸。そして4日に役所でビザ面接。

9月29日不動産屋が点検、鍵返し。

9月28日マリンホテルへ移る。ベッド運び出し。電気ガス水道の栓を閉める。

固定電話、ケーブルテレビ、パソコン回線取り外し。

午前中購入した電機屋が来てエアコン3台を取り外す。そのうち新しい1台をミセスK宅の

居間に取り付ける、その費用は全部あたしが持つ。3台分の取り外し費用、2台はリサイクルなのでその費用も出す。合計いくらだったかわからない。


9月27日シルバー人材センターから人が3人くる。ざっと掃除。各部屋にはすでにミセスKの手が入っているので台所のしつこい汚れと湯殿、玄関、トイレ。この婦人たちに何千円か払いました。皆おしゃべりが大好きのようで笑えました。

その前にトイレのウォシュレット外しを頼んだのが、最終廃棄人の西大寺という業者でありました。これは最大のヒットでした。


なぜその存在を知ったか。チラシが入っていました、9月になってからです。以前からあったようですが。ちょうど近辺を回る日時だったのです。

「メタル製品ただで引き取ります」と詳しく書いてあり、「その他の用事もします。」 電話番号は携帯です。ともかくこれ幸いと電話するにしかず。ベッドのマットレスには数千円かかる、冷蔵庫も。それ以外はただ。

一も二もなく頼むことにしてその日に特別に来てもらうことにしました、が、切るときにふと気づきました、訛りがあるぞ、中国系だ。


そんなことを顧慮している暇はありません。回収予定日に炊飯器と電子レンジと冷蔵庫を残して、あらゆるメタル製品を出しました。電線もOK。

何よりもその人と兄弟と3人でしたが、とても感じが良かったのです。思えば最初の業者も感じよかったのですが。もうこれで本当に広々とした最初の家に近くなりました。


それから約束をした最終日となり、約束通りに兄弟できてくれ、カーテン全てもマットレスを覆うのに使うなどに気が利いて、あたしは感動してしまいました。ちょうどもう使うことのできないアップルカードが2枚あったので兄貴と弟にプレゼントしました。あの人たちは自分たちがいいことをしたと思ってくれたことでしょう。中国との関係やその思惑がどうであれ。



それで、マリンホテルは最寄り駅のそばなのですが、一泊した翌朝あたしは乗り馴れたバスで家に戻り、ミセスKと点検などして不動産屋を一人で待ちました。二人の女性が来て、押入れの全てが空っぽになった、あの最初の家の時刻に戻ったような気持ちで台所を見ました。

一人が戸袋を開けました。すると、なんとそこにはたわしなどの母の遺物が残っていたのです。それはまあ愛嬌として許してもらいました。


肝心の鍵、お気に入りの、金沢の組紐の美しい飾りから外し、はい、と返したところこれは本物ではないと言います。そんな、と思いますが仕方なくその分の1万円を支払います。


さらに畳がどうとやらで、また家の作り上クリーニングにコストがかかるとか、何万円か上乗せです。あとでわかるのですが、本物の鍵はとっくに船の上でした。なくした時の用心にと合鍵を使っていたのが仇になりました。溝に落とした時ですら磁石で救い出したあたしですから。


彼女らが家に残り、あたしは変な気持ちで家を離れました。お隣もお向かいも人の気配はなく静かで物音ひとつしませんでした。



(9/28 この朝あなたを何と形容しよう?無尽蔵の存在へ。

友二人の協力にてついにガラス張りの家を明け渡しマリンホテルへ。

日々の大波を乗り越えて、絶海の岩の孤島。

しかしなお渡独の空は人類の咎により「さあどう対応する?」とばかり大きな風の腕でこちらを見ているこの時、み言葉あり「一粒のタネとな

続「一粒のタネとなり人類の分断を阻止し新生地球人へと繋げる一助たれ」

微力なれどこの一念をもって自分の存在を決定いたしましょう。

各人は各人に対し救い救われる菩薩であること、何と尊い仕組みであること。

苦しみは他を苦しめた行為への有難い贖罪であること。

このままで極楽浄土、神の園なり)



マリンホテルは便利なところにあり、食事を買うのに不便もなく、最後の行事としてできれば近くの寿司屋に行きたいと思っていました。短歌の会のご婦人方とロビーで歓談、なんて人並みのこともしました。


そうそう、ミセスGの最後のお手伝いを受けました。

全てを船荷にすることは無理で、最後まで使い、かつすぐに向こうで必要になるものもあるのです。それらを航空便用にダンボール箱に梱包するとき、ミセスGは昔海苔屋で働いていたので、またあたしの手つきが痛みもあって要領が悪いので、ものを送る要領がわかっているとばかり、緑の粘着テープをがさっがさっと貼ってくれたものです。

その場面が妙に記憶に残っています。



通し番号十八 正念場


ーー台風との戦いと離陸ーー


この夏は、台風のほとんどすべてが列島の上をカープして通過していきます。


房総半島は日蓮の加護により毎回無事でしたが、9月末の台風予想は殊に大型であるらしく、飛行機はとっくに日程を決めておかなくてはならないのでひたすらぶつからないようにと願うのみでした。全く何が起こるか一寸先はわからないというのはまさにこんな事態のことでしょう。


10月4日のビザ面接に遅れてはならない、そこがこのてんてこ舞いの目的地点なのですから。しかもそれ自体不確かな。


マリンホテルはJBの入院先のようなものです。この男と荷物とを空港行きのリムジンバスに乗せることすら想像がつきませんでした。

歩いて10分ほどでバスの発着所につくのですが、そこまでもタクシーです。もっと近いホテルもあったのにマリンホテルの方にしたのは、そのホテルがタクシーを使うことも憚れるほどの距離だったからです。


誰にも言わず一人であれこれ考えていました。そうするつもりで、離陸前の最後の夜9月30日は羽田の空港ホテルを予約していました。



最後の大仕事は市役所での転出届です。これまでの国内の引越しではあっという間にすむ手続きでした。

海外引っ越しの日本通運から、手続き上必要な書類として転出証明書を要求してきました。かなり急にです。

ところがそれは実際に転出しないと出せない書類だと市役所の住民課の女性職員が言います。最初回転の遅い人で困ったのですが、呼ばれてきた若い女性は気の利く人で天から遣わされたかのようでした。


最初の彼女がいつが転出日かと尋ねるので9月30日と言うと、離陸日は10月1日なのでまだ日本にいるではないかと反応する。つまり保険などすべてが10月分まで支払うことになるわけです。


ちょっと損得を考えていたのでがっかりしました。仕方なく、今度は別の場所に行って、二人分の健康保険料とJBの介護保険料を払うことになりました。

その計算が大変らしく(例年一年分を6月から3月まで分けて支払う)どの職員も指を使って数えて大変でした。お金の額など聞いても耳に入らず、ただ支払うばかりでした。その領収書は幸いにもカバンに入れました。


これを済ませて、また戻るとキリッとした女性に変わっていました。問題は転出届の証明書をもらえる時にはもう日本にいないあたしでした。しかもそれを日通の平松さんに送らなければならないのです。

家族はと言えば、東京湾の向かい側に住む末の息子に取りに来てもらう案がありました。そのためにはまた息子の人物証明が必要なわけです。どん詰まりです。


じゃあ、と彼女が言いました。

 「この封筒に平松さんの宛先を書いておいてください、私が転出証明書を入れて送り出しますから」


なんと素晴らしい。彼女のこの小さなサービスがどれほどの人助けになっていることか、あたしは心の中で今も感謝しているのです。

この時、ミセスGがそばにいたか、座って待っていてくれたか、覚えていません、それほど対応に追われていたと見えます。


こんな風になんとか必要なことを済ませることができたのは、あたしの努力だけでないのは余りにも明らかでした。ふと、とかたまたま、とか思いもせず、とかそんなことがよく、しばしば起こりました。


普通大切であるはずの印鑑証明とか実印とかですが、なんとなく作って手続きはしていたのもの、実印を銀行印としても使っていたので、使ったのは口座を作った時、つまり三十年ほど前とそれに、2011年に借家を借りた時には使ったはずです。


その後間も無く夫婦してうっかり実印を大きなものに買い替え、届けもそれにしたらしいのです。

変な文章ですが、このことを全く覚えていませんでした。忘れ去っていました。記憶から消していました。

荷造りの際に変な大きな印鑑がお揃いで出てきても、これは誰それからもらった良くない印鑑だくらいにしか思っていませんでした。



たまたま、一度ミセスGとぶらりと市役所に行き、印鑑証明書をもらっておこうとしたところ、市民カードにある情報が示す印鑑のコピーはとんでもない見たこともないものでした。あたしは古い銀行印を見せてこれなのです、これなのですと茫然自失で叫んだものです。

職員は、でもこれ以外にこの市民カードでは出てくるものはありません、ともちろん言うわけです。


そう言えば、あれらのもう実印ではない印鑑はどこにあるのでしょう、探す時には絶対見つからないと言う法則があるようです。


*この頃のツイートはかなりもう観念しているようです。委ねるの心境。


(9/30 さてさて尊き聖霊の仕組みよ、500年前からすでに編み込まれていたという現在の状況、つまり大台風が渡独を刻々と左右していること。

お金が我々から流れ出てゆく、これが意味でもありうる。

全体の流れを理解するのはヒトの頭脳では及ばない。

全てに尊い由来と目的がある。

そう決める。ありのまま也


あたしがこんなことを肝をつぶしながらジタバタして済ませ、航空便の荷物をミセスGと郵便局に持って行ったり、1日走り回っている間、JBは最悪の人間を露出していました。

 あたしが彼を放っておくことを子供のように不快に思い、その仕返しのようにポルノを見て一日過ごすと宣言したのでした。

呆れて何も言う気もありません、勝手にさせておきました。



大型台風は、コースも時間もぴったりあたしたちの離陸に沿って動いていました。


その夜、急にあたしは決心しました。使い慣れているネットのブッキングサイトで空港ホテルの部屋をもう一晩早くするよう変更しました。一応近くのホテルにするつもりだったのですが、結局移動するタクシー代など往復かかるわけで、高いところなのはわかっているけれどもこれに決め、うまうまと成功させると、次に泊まっているホテルのフロントに行き、初めて見るすっきりと中性的な魅力の女性に言いました。


「急な変更で申し訳ないですけど、台風が心配なので臨機応変の対応ができるよう滞在を1日早く切り上げて、空港ホテルに明日移りたいのです、荷物が大変ですので。」

彼女は親切に対応してくれ、なんだかキャンセル料を取らなかったような気もします。

それから電話しまくって大型タクシーを予約しました。雨風が強くなっていました。明日羽田までの道も心配なほどです。


翌日9月29日、約束通り大きなタクシーが来ました。1時間ほどの旅です。

運転手は珍しい名前でした。珍しすぎて思い出せないくらいです。細身で印象深い顔立ちです。そうです、この人とも出逢いの一つでしょう、忘れないようにして愛念を送らなくては、出会う人々に愛念を送ることそれがあたしの仕事なのでした。


彼は若い頃、ヨーロッパを2年も放浪していたと言うのです。よりによってそんな運転手に会うものでしょうか。とここでその意味を決めるのもあたしの仕事なのです。意味の決め方一つで全てが変化します。


羽田に無事に着くと、なんとホテルの入り口が見つかりません。ホテルは目の前に見えるのに入り口らしきものがないのです。

普通の出発ロビーへの入り口で降りて荷物と車椅子とを交互に押して進む他ありませんでした。昔フランクフルトのホテルでイタリア人の詐欺の一味の仕事に遭遇したことを思い出しました。ふっと気をそらされてその間にスーツケースが消えるのですが、そのことに気づくまで時間が過ぎてしまいます。


電話するとすぐにホテルから迎えが来て、大きな出発ロビーの片隅にある通路から工事中のホテルに着きました。

台風情報、飛行情報をにらみながら、そばに住まう末の息子へ電話、10月1日は休みを取ったので朝からくるからと心強い言葉でした。


全日空のその便はまさに時刻的に台風と鉢合わせでした。飛ぶとは思えません。大型台風としきりにテレビが叫んでいます。風の具合を窓から常に確認します。


そうだ、フランクフルトのホテルをキャンセルすべきではないか? JBが動けないことからすでに早々と向こうの空港に近いホテルを予約していたのです、10月1日の夜を。


しかし飛行機は遅れるだろう、では2日からだろうか、そしてどうする、列車でバートクロイツナハまで行けるだろうか。乗り換えがある。タクシーでは荷物もあるし高すぎるだろう。エイままよ、もうこれ以上手を打てない。その場で決定しよう。とりあえずキャンセル。


でも何かすごく気になる、そうか、十月四日のドイツでのビザ面接に間に合わないかもしれないのだ、飛行機が予定通りに飛ばないとすると! エイままよ、役人にメールを書き送っておこう、どう反応するか見当もつかないが(見当もつかないことをよくやるあたしです)ともかくこの事情を説明して、次の予定日を確保してもらわなければならないのです。

こんな難しいメールも手伝ってくれるような夫ではないので、仕方なくブロークンなのはわかっていても自分の最善を尽くす(尽くしても全く間に合わないのですが)ほかありません、彼に対して文句を言う暇もありません。


ホテルについての葛藤は、羽田でも同じです。台風次第では宿泊延長もあり得ます。その手当は? フロントで相談します、仮予約という形をとりました。まだお金は一切払っていませんでした。すごいホテルです、親切です。


また、ホテルを出て離陸の決定を待つ間、もしはっきりしたことがわからない場合横になれる施設がないと困るとJBがゴネだした時も、搭乗口近くに特別な部屋を予約してくれました。ベッドがあるというのです。


ただ、困ったことになんどもカウンターに行き、離陸可能性の状況を尋ねるのですがどうしてか誰もしかとしたことを言えませんし、ネットでは予定通りに離陸すると書いてありますが、これは全く信用なりません。

とうとう30日の夜になり、外の風の具合を気にしながらどうせ飛行機で眠るからと思っていました。夜中に一時窓がうるさく鳴りました。しかしそれくらいです。この建物が丈夫なのかもしれません。



幸雄たちが来ました、孫は学校に行かせたと。病身とはいえしっかり者の藍ちゃんが当該便の変更を確かめに行ってくれている間に、荷物とJBの運び出し、特別ラウンジのベッドも確保、支払いなどを済ませようとします。


その時です、藍ちゃんから連絡、乗る予定の飛行機は遅延なく最初の時刻通りに離陸するので急いて搭乗手続きを! もう1時間もありませんでした。


またこれです。ゆっくりお別れの言葉を交わす暇もあらばこそ、ベッドをキャンセルし新料金を払い、大きなカーゴに荷物を積んで幸雄が押します、私は車椅子を。


それからは急げ急げの連続、じゃあね、と言ったか、元気でねとか有難うを言ったかわかりません。何故こんな果ての果てにという場所がフランクフルト直通の飛行機の搭乗口です。台風などどこに来たのでしょう。ごく普通の昼でした。

心労が無駄でした。というかあり難き幸せでありました、いつものごとく。




ーー国保の取り扱いの1日の価値、10月4日との関連ーー


道中何事もなく、食事も前回のようなゴムを噛むような変な材料を取り揃えたものよりはマシで、(何しろ格安エコノミークラスの客ですから)無事に時刻通りにフランクフルトに着陸。


ただ、車椅子介助を受ける乗客は、乗る時とは逆に一番最後に降ろされるのでその余波で手荷物の確保がごった返しの最中になりました、まあたまたまですが。

スーツケースをやっと見つけてもそれを乗せるためのカーゴが必要なのですが、あ、あそこにあったと走って行くと、1ユーロを差し込んで鎖から外す例の方法で不自由極まりありません、何故かというとあたしは2ユーロ玉しか持っていなかったのです。


銀行のデビッドカードで換金するという機械が備え付けてあったので仕方なく触っていると、そうそうあたしが何故自分でこんなややこしい事態に巻き込まれているかというと、ここまでJBを押してきてくれた女性が、なんとかなんとかと言って交代するらしく消えてしまったのです。


早速ドイツの荒波に放り込まれ大汗をかき、恥をかきながらあちこち押していると壊してしまい使えなくなったようです。あるいはすでに壊れていたのかもしれませんが。


それでそこを去ろうかと思っていると、次の男性がその機械を使えなくてちょっとコンタクトしてきました。あたしもわかったようなふりをして両手を広げて見せました。


困ったなあと必死で見回すともう一つ同じ機械があるので、小走りに行きました。するとまたさっきの男性がすでに済ましたらしくそこに立っています。そしてあたしに1ユーロ玉をくれました。持っていた小銭を渡そうとすると要らない要らないと手を振って去って行きました。

小さな「地獄で仏」です。



次に現れたのはトルコ人女性の介助人で、元気一杯歩くのであたしは遅れが止まりません。どこに行く、タクシーですね、と一生懸命誘導してくれますが、あたしの頭の中はパニック状態、タクシーでどこに行くのかが不明だったからです。ホテルの予約はキャンセルのままです、列車の手配もしていません。目的地のバートクロイツナハに行くには乗り換えなければなりません。

JBは自分のことなのに平気で黙って車椅子で押されて行きます。彼を責める余裕もありません。どうしよう。決めなければなりません。


ホテルにタクシーで行く費用、泊まる費用、列車の費用、それよりも直にタクシーで帰った方が、自宅までたどり着けるし疲れないし、そうだそれにしよう、あたしは密かに決意しました。秘密というわけではなく話し合う機会がなかったのです。


タクシー乗り場で荷物と車椅子が乗るだけの大きさのタクシーを彼女が世話してくれました。いよいよです。JBがその時痩せたおじいさんの運転手に「バートミュンスターまでどのくらいの料金でしょう」と尋ねました。130ユーロくらいだね。「じゃあそれでお願いします」みたいな話に決定、珍しく夫婦で阿吽の呼吸となりました。


見事な対応で、ぴったり130ユーロ。老練の運転手はさすが、フランクフルト空港詰めらしくこんなことは経験済みなのです。


ドイツではちょうど午後のいい時間でした。


ガランとした部屋に入り、まず思いついたのはナディアのカフェにピザを出前してもらうということでした。いつも出前をすると彼女は言っていたのに今まで頼んだことがなかったのですが。


「あ~ら、あなたね、(あたしのことを名前で呼ぶことはありません、客の名前までは覚えていられないのでしょう)どうしてたの。ウンウン、いらっしゃいな」と出前の話には反応しません。


仕方ない、寒くて疲れて、車椅子を坂道を押してゆくのは難儀だけど。情けない性格のあたしは人の言うなりなのでした。そこらにあるものを全部ひっかけて出かけます、日本の暑さがもう思い出せないほどの寒さでした。日本を10月1日に立ち、ドイツについても10月1日でした。


二晩、夏以前のように、九十度につないで置かれたソファと空気ベッドに分かれて就寝し、なんとか夜を明かし、食いつなぎしてとうとう今度のXデイ、10月4日8時がやってきました。タクシーと車椅子のセット、JB付きです。


初めて見る若い男性、これは入り口で次には難しい顔の上司が来るのかと思って廊下で待っていると、他に待っているのはイスラム系の主に若い男性ばかり、あたしたち老夫婦が一番に呼ばれ、呼んだのは先に部屋に入るのを見かけた若い男性で、その前に着席しました。


あたしは用意していた書類をざらりと前に並べました。全て揃っていました。彼は全てに目

を通しながら回収し、さて尋ねました。

 「どうしてドイツに住みたいのですか」

なんと分かりきったことを尋ねるのだろう。まあ彼の仕事柄だろうが。概して、日本びいきが多いので、そのせいかJBの病が重いので最期の時を故国で過ごさせたい、という大和撫子的思いやり、などは思い浮かばないらしい。あんな素敵な日本なのに、とか考えるらしい。


JBがいつも茶化すために言う、地震と台風と湿気にうんざりした、がまたそこでも使われました。台風で危うく戻り損なうところだったことは、この役人もあたしのメールを読んで覚えていたらしく見えました。うやむやのうちに終わり、で


 「あとは、健康保険ですが、これまでの日本で保険の証明がありますか、今まで保険に加入していたという」


そんなものは要求されていない。「KKHにもう加入しています」「日本の保険は」「もうありませんよ」「それではダメなのです、保険はぴったり続いていないと」聞いていませんてば。


まただ、またダークマター(こう呼ぶのは早とちり、まあ何となく)がやってきた。JBがKKHのグレフ氏に電話しますが、埒が明かないようです。健康保険がこんな意味で重要だと誰が知っていたでしょう。

また入室するように言われ、座った時ふとあたしは思い出しました。


「日本の健康保険は10月1日に10月分を払いました」

「その証明もっていますか」

 「はい、ここにあります」

あたしはカバンから魔法のように市役所での領収書を取り出したのです。カバンにしっかり入れておいたなんて天の配剤でなくて何でしょう。あたしはこのことをやはりドイツに居るようにと言う意味だと決めました。

こんな風に意味を決めることが肝心なのだそうです。あとは天の器量に委ねるとそれが実現するのですから。これには役人の彼も喜びました。


また待たされてのち入室すると、2週間ほどしたら書類が書きどめで届くのでそれを持ってきてカード式の滞在許可証を受け取るように、これは受け取り証明兼それまでビザの役目を持つ書類なので大切にしておくように、と妙に真面目な権威的な、厳かな脅かすような顔になりました。

あたしたちも浮かれた気分を削がれて、はい、と神妙に答えました。

うまく行ったのです。


この項終了


東天
出ヤマト記 平成日本に別れを
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