出ヤマト記 平成日本に別れを

通し番号十八 正念場


ーー台風との戦いと離陸ーー


この夏は、台風のほとんどすべてが列島の上をカープして通過していきます。


房総半島は日蓮の加護により毎回無事でしたが、9月末の台風予想は殊に大型であるらしく、飛行機はとっくに日程を決めておかなくてはならないのでひたすらぶつからないようにと願うのみでした。全く何が起こるか一寸先はわからないというのはまさにこんな事態のことでしょう。


10月4日のビザ面接に遅れてはならない、そこがこのてんてこ舞いの目的地点なのですから。しかもそれ自体不確かな。


マリンホテルはJBの入院先のようなものです。この男と荷物とを空港行きのリムジンバスに乗せることすら想像がつきませんでした。

歩いて10分ほどでバスの発着所につくのですが、そこまでもタクシーです。もっと近いホテルもあったのにマリンホテルの方にしたのは、そのホテルがタクシーを使うことも憚れるほどの距離だったからです。


誰にも言わず一人であれこれ考えていました。そうするつもりで、離陸前の最後の夜9月30日は羽田の空港ホテルを予約していました。



最後の大仕事は市役所での転出届です。これまでの国内の引越しではあっという間にすむ手続きでした。

海外引っ越しの日本通運から、手続き上必要な書類として転出証明書を要求してきました。かなり急にです。

ところがそれは実際に転出しないと出せない書類だと市役所の住民課の女性職員が言います。最初回転の遅い人で困ったのですが、呼ばれてきた若い女性は気の利く人で天から遣わされたかのようでした。


最初の彼女がいつが転出日かと尋ねるので9月30日と言うと、離陸日は10月1日なのでまだ日本にいるではないかと反応する。つまり保険などすべてが10月分まで支払うことになるわけです。


ちょっと損得を考えていたのでがっかりしました。仕方なく、今度は別の場所に行って、二人分の健康保険料とJBの介護保険料を払うことになりました。

その計算が大変らしく(例年一年分を6月から3月まで分けて支払う)どの職員も指を使って数えて大変でした。お金の額など聞いても耳に入らず、ただ支払うばかりでした。その領収書は幸いにもカバンに入れました。


これを済ませて、また戻るとキリッとした女性に変わっていました。問題は転出届の証明書をもらえる時にはもう日本にいないあたしでした。しかもそれを日通の平松さんに送らなければならないのです。

家族はと言えば、東京湾の向かい側に住む末の息子に取りに来てもらう案がありました。そのためにはまた息子の人物証明が必要なわけです。どん詰まりです。


じゃあ、と彼女が言いました。

 「この封筒に平松さんの宛先を書いておいてください、私が転出証明書を入れて送り出しますから」


なんと素晴らしい。彼女のこの小さなサービスがどれほどの人助けになっていることか、あたしは心の中で今も感謝しているのです。

この時、ミセスGがそばにいたか、座って待っていてくれたか、覚えていません、それほど対応に追われていたと見えます。


こんな風になんとか必要なことを済ませることができたのは、あたしの努力だけでないのは余りにも明らかでした。ふと、とかたまたま、とか思いもせず、とかそんなことがよく、しばしば起こりました。


普通大切であるはずの印鑑証明とか実印とかですが、なんとなく作って手続きはしていたのもの、実印を銀行印としても使っていたので、使ったのは口座を作った時、つまり三十年ほど前とそれに、2011年に借家を借りた時には使ったはずです。


その後間も無く夫婦してうっかり実印を大きなものに買い替え、届けもそれにしたらしいのです。

変な文章ですが、このことを全く覚えていませんでした。忘れ去っていました。記憶から消していました。

荷造りの際に変な大きな印鑑がお揃いで出てきても、これは誰それからもらった良くない印鑑だくらいにしか思っていませんでした。



たまたま、一度ミセスGとぶらりと市役所に行き、印鑑証明書をもらっておこうとしたところ、市民カードにある情報が示す印鑑のコピーはとんでもない見たこともないものでした。あたしは古い銀行印を見せてこれなのです、これなのですと茫然自失で叫んだものです。

職員は、でもこれ以外にこの市民カードでは出てくるものはありません、ともちろん言うわけです。


そう言えば、あれらのもう実印ではない印鑑はどこにあるのでしょう、探す時には絶対見つからないと言う法則があるようです。


*この頃のツイートはかなりもう観念しているようです。委ねるの心境。


(9/30 さてさて尊き聖霊の仕組みよ、500年前からすでに編み込まれていたという現在の状況、つまり大台風が渡独を刻々と左右していること。

お金が我々から流れ出てゆく、これが意味でもありうる。

全体の流れを理解するのはヒトの頭脳では及ばない。

全てに尊い由来と目的がある。

そう決める。ありのまま也


あたしがこんなことを肝をつぶしながらジタバタして済ませ、航空便の荷物をミセスGと郵便局に持って行ったり、1日走り回っている間、JBは最悪の人間を露出していました。

 あたしが彼を放っておくことを子供のように不快に思い、その仕返しのようにポルノを見て一日過ごすと宣言したのでした。

呆れて何も言う気もありません、勝手にさせておきました。



大型台風は、コースも時間もぴったりあたしたちの離陸に沿って動いていました。


その夜、急にあたしは決心しました。使い慣れているネットのブッキングサイトで空港ホテルの部屋をもう一晩早くするよう変更しました。一応近くのホテルにするつもりだったのですが、結局移動するタクシー代など往復かかるわけで、高いところなのはわかっているけれどもこれに決め、うまうまと成功させると、次に泊まっているホテルのフロントに行き、初めて見るすっきりと中性的な魅力の女性に言いました。


「急な変更で申し訳ないですけど、台風が心配なので臨機応変の対応ができるよう滞在を1日早く切り上げて、空港ホテルに明日移りたいのです、荷物が大変ですので。」

彼女は親切に対応してくれ、なんだかキャンセル料を取らなかったような気もします。

それから電話しまくって大型タクシーを予約しました。雨風が強くなっていました。明日羽田までの道も心配なほどです。


翌日9月29日、約束通り大きなタクシーが来ました。1時間ほどの旅です。

運転手は珍しい名前でした。珍しすぎて思い出せないくらいです。細身で印象深い顔立ちです。そうです、この人とも出逢いの一つでしょう、忘れないようにして愛念を送らなくては、出会う人々に愛念を送ることそれがあたしの仕事なのでした。


彼は若い頃、ヨーロッパを2年も放浪していたと言うのです。よりによってそんな運転手に会うものでしょうか。とここでその意味を決めるのもあたしの仕事なのです。意味の決め方一つで全てが変化します。


羽田に無事に着くと、なんとホテルの入り口が見つかりません。ホテルは目の前に見えるのに入り口らしきものがないのです。

普通の出発ロビーへの入り口で降りて荷物と車椅子とを交互に押して進む他ありませんでした。昔フランクフルトのホテルでイタリア人の詐欺の一味の仕事に遭遇したことを思い出しました。ふっと気をそらされてその間にスーツケースが消えるのですが、そのことに気づくまで時間が過ぎてしまいます。


電話するとすぐにホテルから迎えが来て、大きな出発ロビーの片隅にある通路から工事中のホテルに着きました。

台風情報、飛行情報をにらみながら、そばに住まう末の息子へ電話、10月1日は休みを取ったので朝からくるからと心強い言葉でした。


全日空のその便はまさに時刻的に台風と鉢合わせでした。飛ぶとは思えません。大型台風としきりにテレビが叫んでいます。風の具合を窓から常に確認します。


そうだ、フランクフルトのホテルをキャンセルすべきではないか? JBが動けないことからすでに早々と向こうの空港に近いホテルを予約していたのです、10月1日の夜を。


しかし飛行機は遅れるだろう、では2日からだろうか、そしてどうする、列車でバートクロイツナハまで行けるだろうか。乗り換えがある。タクシーでは荷物もあるし高すぎるだろう。エイままよ、もうこれ以上手を打てない。その場で決定しよう。とりあえずキャンセル。


でも何かすごく気になる、そうか、十月四日のドイツでのビザ面接に間に合わないかもしれないのだ、飛行機が予定通りに飛ばないとすると! エイままよ、役人にメールを書き送っておこう、どう反応するか見当もつかないが(見当もつかないことをよくやるあたしです)ともかくこの事情を説明して、次の予定日を確保してもらわなければならないのです。

こんな難しいメールも手伝ってくれるような夫ではないので、仕方なくブロークンなのはわかっていても自分の最善を尽くす(尽くしても全く間に合わないのですが)ほかありません、彼に対して文句を言う暇もありません。


ホテルについての葛藤は、羽田でも同じです。台風次第では宿泊延長もあり得ます。その手当は? フロントで相談します、仮予約という形をとりました。まだお金は一切払っていませんでした。すごいホテルです、親切です。


また、ホテルを出て離陸の決定を待つ間、もしはっきりしたことがわからない場合横になれる施設がないと困るとJBがゴネだした時も、搭乗口近くに特別な部屋を予約してくれました。ベッドがあるというのです。


ただ、困ったことになんどもカウンターに行き、離陸可能性の状況を尋ねるのですがどうしてか誰もしかとしたことを言えませんし、ネットでは予定通りに離陸すると書いてありますが、これは全く信用なりません。

とうとう30日の夜になり、外の風の具合を気にしながらどうせ飛行機で眠るからと思っていました。夜中に一時窓がうるさく鳴りました。しかしそれくらいです。この建物が丈夫なのかもしれません。



幸雄たちが来ました、孫は学校に行かせたと。病身とはいえしっかり者の藍ちゃんが当該便の変更を確かめに行ってくれている間に、荷物とJBの運び出し、特別ラウンジのベッドも確保、支払いなどを済ませようとします。


その時です、藍ちゃんから連絡、乗る予定の飛行機は遅延なく最初の時刻通りに離陸するので急いて搭乗手続きを! もう1時間もありませんでした。


またこれです。ゆっくりお別れの言葉を交わす暇もあらばこそ、ベッドをキャンセルし新料金を払い、大きなカーゴに荷物を積んで幸雄が押します、私は車椅子を。


それからは急げ急げの連続、じゃあね、と言ったか、元気でねとか有難うを言ったかわかりません。何故こんな果ての果てにという場所がフランクフルト直通の飛行機の搭乗口です。台風などどこに来たのでしょう。ごく普通の昼でした。

心労が無駄でした。というかあり難き幸せでありました、いつものごとく。




ーー国保の取り扱いの1日の価値、10月4日との関連ーー


道中何事もなく、食事も前回のようなゴムを噛むような変な材料を取り揃えたものよりはマシで、(何しろ格安エコノミークラスの客ですから)無事に時刻通りにフランクフルトに着陸。


ただ、車椅子介助を受ける乗客は、乗る時とは逆に一番最後に降ろされるのでその余波で手荷物の確保がごった返しの最中になりました、まあたまたまですが。

スーツケースをやっと見つけてもそれを乗せるためのカーゴが必要なのですが、あ、あそこにあったと走って行くと、1ユーロを差し込んで鎖から外す例の方法で不自由極まりありません、何故かというとあたしは2ユーロ玉しか持っていなかったのです。


銀行のデビッドカードで換金するという機械が備え付けてあったので仕方なく触っていると、そうそうあたしが何故自分でこんなややこしい事態に巻き込まれているかというと、ここまでJBを押してきてくれた女性が、なんとかなんとかと言って交代するらしく消えてしまったのです。


早速ドイツの荒波に放り込まれ大汗をかき、恥をかきながらあちこち押していると壊してしまい使えなくなったようです。あるいはすでに壊れていたのかもしれませんが。


それでそこを去ろうかと思っていると、次の男性がその機械を使えなくてちょっとコンタクトしてきました。あたしもわかったようなふりをして両手を広げて見せました。


困ったなあと必死で見回すともう一つ同じ機械があるので、小走りに行きました。するとまたさっきの男性がすでに済ましたらしくそこに立っています。そしてあたしに1ユーロ玉をくれました。持っていた小銭を渡そうとすると要らない要らないと手を振って去って行きました。

小さな「地獄で仏」です。



次に現れたのはトルコ人女性の介助人で、元気一杯歩くのであたしは遅れが止まりません。どこに行く、タクシーですね、と一生懸命誘導してくれますが、あたしの頭の中はパニック状態、タクシーでどこに行くのかが不明だったからです。ホテルの予約はキャンセルのままです、列車の手配もしていません。目的地のバートクロイツナハに行くには乗り換えなければなりません。

JBは自分のことなのに平気で黙って車椅子で押されて行きます。彼を責める余裕もありません。どうしよう。決めなければなりません。


ホテルにタクシーで行く費用、泊まる費用、列車の費用、それよりも直にタクシーで帰った方が、自宅までたどり着けるし疲れないし、そうだそれにしよう、あたしは密かに決意しました。秘密というわけではなく話し合う機会がなかったのです。


タクシー乗り場で荷物と車椅子が乗るだけの大きさのタクシーを彼女が世話してくれました。いよいよです。JBがその時痩せたおじいさんの運転手に「バートミュンスターまでどのくらいの料金でしょう」と尋ねました。130ユーロくらいだね。「じゃあそれでお願いします」みたいな話に決定、珍しく夫婦で阿吽の呼吸となりました。


見事な対応で、ぴったり130ユーロ。老練の運転手はさすが、フランクフルト空港詰めらしくこんなことは経験済みなのです。


ドイツではちょうど午後のいい時間でした。


ガランとした部屋に入り、まず思いついたのはナディアのカフェにピザを出前してもらうということでした。いつも出前をすると彼女は言っていたのに今まで頼んだことがなかったのですが。


「あ~ら、あなたね、(あたしのことを名前で呼ぶことはありません、客の名前までは覚えていられないのでしょう)どうしてたの。ウンウン、いらっしゃいな」と出前の話には反応しません。


仕方ない、寒くて疲れて、車椅子を坂道を押してゆくのは難儀だけど。情けない性格のあたしは人の言うなりなのでした。そこらにあるものを全部ひっかけて出かけます、日本の暑さがもう思い出せないほどの寒さでした。日本を10月1日に立ち、ドイツについても10月1日でした。


二晩、夏以前のように、九十度につないで置かれたソファと空気ベッドに分かれて就寝し、なんとか夜を明かし、食いつなぎしてとうとう今度のXデイ、10月4日8時がやってきました。タクシーと車椅子のセット、JB付きです。


初めて見る若い男性、これは入り口で次には難しい顔の上司が来るのかと思って廊下で待っていると、他に待っているのはイスラム系の主に若い男性ばかり、あたしたち老夫婦が一番に呼ばれ、呼んだのは先に部屋に入るのを見かけた若い男性で、その前に着席しました。


あたしは用意していた書類をざらりと前に並べました。全て揃っていました。彼は全てに目

を通しながら回収し、さて尋ねました。

 「どうしてドイツに住みたいのですか」

なんと分かりきったことを尋ねるのだろう。まあ彼の仕事柄だろうが。概して、日本びいきが多いので、そのせいかJBの病が重いので最期の時を故国で過ごさせたい、という大和撫子的思いやり、などは思い浮かばないらしい。あんな素敵な日本なのに、とか考えるらしい。


JBがいつも茶化すために言う、地震と台風と湿気にうんざりした、がまたそこでも使われました。台風で危うく戻り損なうところだったことは、この役人もあたしのメールを読んで覚えていたらしく見えました。うやむやのうちに終わり、で


 「あとは、健康保険ですが、これまでの日本で保険の証明がありますか、今まで保険に加入していたという」


そんなものは要求されていない。「KKHにもう加入しています」「日本の保険は」「もうありませんよ」「それではダメなのです、保険はぴったり続いていないと」聞いていませんてば。


まただ、またダークマター(こう呼ぶのは早とちり、まあ何となく)がやってきた。JBがKKHのグレフ氏に電話しますが、埒が明かないようです。健康保険がこんな意味で重要だと誰が知っていたでしょう。

また入室するように言われ、座った時ふとあたしは思い出しました。


「日本の健康保険は10月1日に10月分を払いました」

「その証明もっていますか」

 「はい、ここにあります」

あたしはカバンから魔法のように市役所での領収書を取り出したのです。カバンにしっかり入れておいたなんて天の配剤でなくて何でしょう。あたしはこのことをやはりドイツに居るようにと言う意味だと決めました。

こんな風に意味を決めることが肝心なのだそうです。あとは天の器量に委ねるとそれが実現するのですから。これには役人の彼も喜びました。


また待たされてのち入室すると、2週間ほどしたら書類が書きどめで届くのでそれを持ってきてカード式の滞在許可証を受け取るように、これは受け取り証明兼それまでビザの役目を持つ書類なので大切にしておくように、と妙に真面目な権威的な、厳かな脅かすような顔になりました。

あたしたちも浮かれた気分を削がれて、はい、と神妙に答えました。

うまく行ったのです。


この項終了


東天
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