赤い糸

 

              性癖(せいへき)

 

 1014日(日)美緒はまだベッドの中だった。カーテンの隙間から差し込んだ光は、湿った部屋をほんのり暖めていた。先週、沢富との別れを決意して以来、全身の力が抜けてしまったように何をするにもけだるく感じられた。昨夜も、沢富と別れた後のことを考えると、孤島に一人放り出されたかのようにさみしさでいっぱいになった。また、ここ数日、熟睡できない日々が続いていた。そのせいか、日曜日だからため込んだ洗濯物を洗濯しようと必死に起き上がろうとしたが、腰に力が入らず、少し体が浮くとドスンと体がもとに落ちた。時計の針は、すでに午前10時を回っていた。再度、よし、と気合を入れて起き上がろうとしたが、やはり、頭は持ち上がらなかった。

 

 しばらくぼんやりしていると、父親からゆう子へ、さらに沢富への性体験が脳裏のスクリーンに映し出されていた。今は亡き父親、別れが迫る沢富、二人のことを考えると、美緒はさみしさの谷底に引きずり込まれる思いだった。沢富が現れてからは、ゆう子との関係はなくなった。でも、沢富との別れが決まってから、ここ数日、ゆう子のことばかり考えるようになった。そんな時、奇妙なことに突然、鳥羽のブサイクな笑顔がスクリーンにクローズアップされ、美緒を励ますのだった。美緒は、同年代の男子とデートしたこともセックスしたこともなかった。また、同年代の男子アイドルにも興味がなかった。美緒にとって、同年代の男子を意識したのは初めての経験だった。

 

 心の底で、「鳥羽ク~~ン」と小さな声で叫んでみた。すると、バリバリド~~ンという天地を引き裂く爆音とともに、マグマのような鈍い輝きを放つ明石教授の巨大な眼球が暗闇の割れ目から現れ、それは鳥羽への純情を打ち砕くように鋭い視線を美緒の心に突き刺した。そして、一瞬にして、美緒の体は、蛇ににらまれたカエルのように体が動かなくなった。しばらくして、好色な明石教授の視線が消え去るとなぜか、基礎看護学実習の風景が脳裏に浮かんできた。この時、明石教授は必ずといっていいほど美緒に好色な視線を突き刺していた。そして、手を握ったり肩を触ったりするのだった。美緒は、自分の心が見透かされているようで恥ずかしかったが、体は自然に反応して熱くなっていた。小学校5年生の時からの性体験は、中年に反応する体を作り上げていた。

 

 

 


 明石教授には教職にあるまじきうわさがあった。美緒は、鳥羽から知らされたうわさで定かではなかったが、美緒に対する態度から信ぴょう性が感じられた。その噂というのは、彼には、数人の愛人がいるという噂であった。その愛人の中には、看護師だけでなく、学生もいるということだった。明石教授の好色な視線を感じるとその噂は本当のように直感できた。でも、それは、美緒にとって不愉快なことではなく、歓迎すべきことだった。沢富と別れた後は、次のセックスフレンドを作りたいと思っていたからだ。おそらく、ちょっとした誘いに乗れば、即座にセックスフレンドになれる予感がした。すでに、心の奥底に潜む淫靡な気持ちは、明石教授の誘いを待っていた。

 

 最近では、美緒の性感は明石教授の体を求め始めているのか、無意識にたわいもない質問をしたり、何気なく接触するようになっていた。あたかも美緒の体は、明石教授の魔の触手を引き寄せているようであった。周りの学生も、明石教授の美緒への態度に嫌悪感を感じ始めていた。一度、ある学生が、セクハラじゃない、と美緒に囁いたこともあった。美緒は、苦笑いして聞き流したが、明石教授の態度はそれほどあからさまなものだった。明石教授の美緒に対するセクハラのうわさは、美緒にとっても不愉快なものとなった。美緒へのセクハラのうわさが広がるぐらいならば、いっそのこと、美緒のほうからアクションをかけて、セックスフレンドの関係を作ってしまいたい気持ちになっていた。

 

 いったんセックスフレンドの関係を作ってしまえば、男性は関係がばれないようによそよそしい態度をとるようになることを知っていた。美緒は、11月に入れば、明石教授との関係を発展させてもいいような気持ちが強くなり始めていた。でも、そう思う一方で、鳥羽の忠告が頭の奥底から響いてくるのだった。中年はやめとけ、という言葉が頭いっぱいに響き渡ると同時に鳥羽の笑顔が浮かび上がってきた。心の底では、自分の性癖を変えたいという思いがないわけではなかった。でも、自分の力だけではどうにもならないこともわかっていた。今まで何度か、頭では過去を忘れようとしたが、体は決して忘れようとはしなかった。中年の明石教授に見つめられると、頭では拒否していても、体は反応し、すぐに熱くなるのだった。

 

 

 

 


 

 美緒は、中年好みを疑問に思う時もあったが、自分の感じる体を嫌いになれなかった。体が求めるものをあえて心で遮りたくなかった。でも、鳥羽の意見を聞かされるたび、次第に、自分の性癖に悩むようになっていた。178だからといって、中年を好きになってはいけないというようなそんな道徳や恋愛観はない。恋愛は、いかなる場合も自由だと思い続けていた。でも、最近では、同年代の男子を好きになれない自分に疑問を感じるようになっていた。また、どうして若い男子に感じないのか?このような疑問がたびたび起きていた。ところが、ここ23日前から、鳥羽の顔を思い浮かべていると、次第に熱くなる自分に気づいた。若い男子を思って熱くなったのは、鳥羽が初めてであった。

 

 なぜ、あのブサイクな顔に熱くなるのか不思議だったが、初めての経験にうれしさが込み上げるのだった。そして、夜寝るときにはおやすみなさい、朝起きるときにはおはよう、と鳥羽の顔を思い浮かべ、心の底であいさつをするようになった。怪物のようなブサイクな顔と嫌悪していたが、なんとなく、かわいく見えてきて、いつでも、じっと見つめてほしい気持ちになっていた。そして、鳥羽のやさしいキスで起こしてほしいという願望が起きているのではないか?と自分の気持ちを確かめてみた。すると、朝起きれないのは、沢富との別れの悲しみが原因ではなく、鳥羽への恋心であることが判明した。そのことがわかるとますます鳥羽への恋心か強くなった。

 

 小学校のころから作られた性癖は、体が疼き出すと頭が真っ白になることだった。父親の横でいったん眠りにつくと夢遊病者のように無意識に体が動いているようだった。朝起きてみると、穿いていたはずのショーツが脱ぎ捨ててあった。必死に思い出そうとしても、昨夜の自分の行動は思い出せなかった。そして、なんとなく、不思議な満足感に包まれるのだった。沢富のマンションに行った時も、突然、頭が真っ白になり時間の空白ができた。気づいた時は、ベッドの上でふんわりとした満足感に包まれていた。突然変異が起きたのか、ここ数日前から、鳥羽の笑顔が脳裏に現れると次第に体が熱くなるようになった。そして、沢富の時と同じように頭がぼんやりとし始めた。

 

 

 


 頭の中に時間の空白が起きると美緒の左手はスマホを握り、右手の指は鳥羽のイニシャルをタッチしていた。一方、朝の五時に起きた鳥羽は、安部教授の膨大な実験データを論文に引用できるようにエクセルで整理していた。頭をフル回転させエクセルを操作しているとヘビーローテーションの着メロが鳴り響いた。今頃だれだろうとスマホを覗くと美緒からだった。こんな時に美緒かと内心舌打ちしたが、スマホにタッチした。「はい、何だい?」美緒は、即座に苦しそうな声で助けを求めた。「助けて、苦しいの。起きれないし、熱もあるみたい。早く、助けて」鳥羽は突然の助けを求める悲痛な声に腰を抜かした。もしかしたら、食あたりでも起こしたのではないかと思った。

 

 鳥羽は、即座に返事した。「わかった。きっと、食あたりだ。今すぐ行く。待ってろ」残りは午後にやることにして美緒のマンションにかけていった。鳥羽は、エントランスから大声で「開けて下さ~~い。お願いしま~~す。病気なんです」と管理人を呼んだ。入口左手にある管理人室でTVを見ていた管理人が何事かとびっくりしてエントランスに現れた。303号室の友達が急病ですぐに来てほしいという連絡があったことを管理人に伝えると疑いのまなざしでしぶしぶ入館を許可した。鳥羽は、刑事上がりのような鋭い目つきの管理人と一緒にエレベーターで3階に上がった。

 

 二人が303号室のドアの前に立つと管理人は、鳥羽に大声で相手の名前を呼ぶように指示した。しかめっ面の管理人の顔をちらっと見ると鳥羽は、大きな声で美緒に到着を伝えた。「みお~~、大丈夫か~~?助けに来たぞ~~」奥のほうから美緒の声が返ってきた。「入って、鳥羽ク~~ン。ありがとう~~」管理人は、不審者でないことを確認し、入室を許可した。「ここは、男子禁制だ。病状がひどいようだったら、救急車を呼ぶように。今回は特別だぞ。30分以内に出ていくように。いいな」目を吊り上げた管理人は、命令口調でそういうと熊のようにのっそのっそと巨体を揺らしながらエレベーターに向かった。

 


春日信彦
作家:春日信彦
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