ピース

 タイミングよく座席が空いたことは、神のご加護だと感謝した。ヒフミンが

窓際の席に着くとすぐに通路側の席に30歳前後のグレイの背広を着たサラリーマン風の男性が腰かけた。彼は、時々、チラチラっとヒフミンの顔を見ていた。彼は将棋ジャーナルの記者で、明日、二日市温泉で行われる王位戦第三局の取材のために福岡に向かっていた。彼は、天才棋士ヒフミンではないかと確かめていた。なぜ、この時間に福岡行の飛行機に乗っているのか不思議に思った。

 

 ヒフミンは、窓から見える夜空をスクリーンに白いピースのかわいい笑顔を思い浮かべていた。離陸してシートベルトを外した時、男性は、ヒフミンに声をかけた。「もしかして、ヒフミンさんでは、ありませんか?」ヒフミンは、一瞬凍り付いた。天才棋士としてもてはやされていたヒフミンは、いつもならば、笑顔でハイと返事するところだったが、福岡への逃避行は、誰にも知られたくなかった。しかし、棋士の顔をほとんど記憶している記者に対して、違いますとは答えられなかった。

 

 小さくヒフミンは、うなずいあた。「はい。おじいちゃんが、危篤なんです。だから」危篤と聞いた記者は、納得した。「そうでしたが、大変ですね。私、将棋ジャーナルの口先銀次(くちさきぎんじ)と申します。確か、明日は、竜王戦予選の対局でしょ。とんぼ返りってことですか。でも、天才ヒフミンさんであれば、予選は、難なく突破ですね。将棋ファンは、中学生竜王を期待しています。頑張ってください」

 

 気まずくなったヒフミンは、とにかく話を合わせることにした。「はい。頑張ります」ヒフミンは、大人と話すのは苦手だった。できれば、話しかけないでほしかった。即座に目を閉じ、うつむいたヒフミンは、タヌキ寝入りをすることにした。男性は、疲れて寝入ったと思い、少年を寝かせてあげることにした。しばらく、口先はヒフミンの寝顔を見ていたが、この出会いは神様が与えてくれたプレゼントではないかと勝手に思い込んだ。

 

 そして、もし、天才少年棋士のAIを凌駕する読みを記事にできれば、一躍有名になり、一気に出世できるのではないかとよこしまな思いを起こしてしまった。口先は、左手の人差し指をピンと伸ばし、ヒフミンの左肩をチョンチョン突ついた。タヌキ寝入りのヒフミンは、いやな奴に見つかったものだと心でつぶやいたが、頭を起こし、瞼を開き、左横の記者に顔を向けた。ニヤッと笑顔を見せた口先は、囁くように言葉をかけた。

 

 「睡眠中、申し訳ありません。ちょっと、質問よろしいでしょうか?」今は、誰とも話したくなかったが、むげに断って、福岡への夜間逃避行を記事にされては困ると思い、ちょっと笑顔を作って、返事した。「はあ、何でしょう?」急に真剣な表情になった口先は、ギョロ目で質問した。「将棋ファンなら、誰しも思っていることなのですが、ヒフミンさんのヨミは、AI以上です。この天才的ヨミは、どこから来るものですか?できれば、凡人にもわかるように話してもらえないでしょうか?」

 

 最も答えにくい質問をしてきたと思い、しばらく返事を考えた。自分にもわかりませんと答えては、天才少年棋士は生意気だなどと噂されて、多くの記者たちを敵に回すだろうし。それかといって、僕は生まれながらにして、将棋の天才です、では答えになってない。僕は、国語が苦手で、説明ができないんです、っていうのも私はバカですといっているようだし。こういう時に、亜紀ちゃんがいてくれたら、相談できるんだが。その時、脳裏にある将棋盤がピースの笑顔に変わった。

 

 ニコッと笑顔を作ったヒフミンは、答えた。「わかっていただけるかどうか、わかりませんが、実を言うとですね」口先の目が、ギラギラと輝き始めた。口先は、次の言葉をじっと待った。「僕は、1分ぐらいで、100手ほど読むんですが、どう読んでも勝ち目がないような時があるんです。もう駄目だ、このままだと負けてしまうって思うんですよね」口先は、ヒフミンの顔をじっと見つめていた。

 

 「もう負けてしまう。それで」口先は、話を促した。「その時なんです。暗闇の中でピカっと二つの目が輝くのです。そうすると、ドカ~~と宇宙を切り裂くようなイナズマとともに、今まで思いつかなかったヨミが現れるのです」顔を紅潮させた口先は、尋ねた。「その二つの目というのは、誰の目ですか?」ヒフミンは、恥ずかしそうな表情で答えた。「真っ白なネコの目なんです」

 

 口先の緊張の糸が、ぷつんと切れた。でも、話としては、面白いから記事になるような気がした。「つまり、ヒフミンの天才的ヨミは、白いネコのおかげということですね。その白いネコというのは、ピースでしょ」思いっきり笑顔を作ったヒフミンは、答えた。「正解。チュ~チュ~したいほど大好きな、ピースです」心では、あほらしいと思ったが、天才というものは、こういうものかと思い、苦笑いした。「凡人にも、よくわかりました。この話を聞けば、将棋ファンは、きっと喜びます。今後の活躍を期待しています」記者の頭の中で、しらけ鳥が飛んでいた。

 

 約8 0分のフライトで福岡空港に到着した。着陸のアナウンスが耳に入るとヒフミンは、あわててシートベルトを締めた。席を立つ時、励ましてくれた記者と握手を交わし、タラップを降りると到着ロビーを全速力で通過し、タクシー乗り場に突進していった。運良く、タクシーを待っている人は一人もいなかった。先頭のAIカラオケタクシーに近づくとドアが開いた。飛び乗ったヒフミンは、一言告げた。「糸島の平原歴史公園に行ってください」チャットちゃんは、元気よく返事した。「はい、かしこまりました」そして、ゆっくりと運転手の椅子が回転した。そこには、ひろ子の顔があった。

 

 「あら、小太り坊やじゃない。いったい、今頃何してるの。子供の夜遊びはだめよ。プロだからといっても、まだ、中学生でしょ」せっかくの幸運もここまでかとしかめっ面になった。「何言ってるんですか。夜遊びなんかじゃ、ありません。とにかく、平原歴史公園に行ってください。亜紀ちゃんのおうちに。いやな奴」ひろ子には9時過ぎに空港にいることが理解できなかった。 

 

 「亜紀ちゃんのおうちね。チャットちゃん、亜紀ちゃんのおうちにだってよ。いったい何を考えているのやら。亜紀ちゃんのおうちに、何の用事なの。もう、夜よ。なにがあったのよ」ピースの危篤のことを話そうかと思ったが、少しためらった。でも、ひろ子さんは、ピースをかわいがってくれていた。「実をいうと、ピースが危篤なんです。だから、会いに行ってるんです」

 

 ピースが危篤と聞いて驚いたが、もっと驚いたことは、ヒフミンが大阪から福岡にやってきたことだった。目を丸くしたひろ子は、尋ねた。「っていうことは、ピースが危篤と知って、大阪から、今、やってきたってこと」ヒフミンは、うなずいた。「余命二日なんだ。一刻も早く、会わないと。ピースが生きているうちに、お礼を言いたいんだ。プロになれたのは、ピースのおかげなんだ」

 

 AIカラオケタクシーは空港通インターに乗り上げると糸島に向かっていた。余命二日と聞いて、ひろ子は不安になった。到着した時には、亡くなっているかもしれない。ピースが生きていることを祈った。「そうだったの。ピースはヒフミンの人生を変えた大切なネコだったのね。ピースもヒフミンに会えば、きっと、元気が出るわ」ひろ子は、ヒフミンがピースが生きているうちに再会できるように手を合わせて神に祈った。

 

 甘党茶屋の駐車場にAIカラオケタクシーが到着しするとヒフミンは飛び降りた。そして、明かりが見える亜紀のうちに一直線にかけていった。インターホーンを鳴らさずに、自宅に帰ったごとく、ドアを勢い良く開き、スリッパも履かず、廊下をかけていった。人影のないリビングを確認すると、ドタドタと階段を駆け上がった。三人は、聞きなれた足音にまさかヒフミンと思った。傍若無人の足音は、何度も聞いたことのあるヒフミンの足音だったからだ。

 

春日信彦
作家:春日信彦
ピース
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