ピース

和室の書斎で師匠の阿保田三吉(あほださんきち)は、ヨガの胡坐(あぐら)で、瞑想にふけっていた。書斎に入ってきたヒフミンの足音には気づいていたが、黙って瞑想を続けていた。ヒフミンは、丸眼鏡を鼻にちょこんと載せた師匠の前に突っ立つと大きな声で呼びかけた。「師匠、お話があります」瞑想をぶち壊しやがって、と内心腹を立てたが、師匠は、静かに目を開いた。「何だ。今は、瞑想中だ。後にしろ」

 

 ヒフミンは、即座に返事した。「急用です。緊急事態です。一刻の猶予もないんです」師匠は、何事かと思い、目を開いた。「何事だ。緊急事態とは?」師匠の真ん前に正座したヒフミンは、マジな顔で答えた。「ピースが、危篤です。すぐに、糸島に帰らせてください。お願いします」危篤と聞いた師匠は、尋ねた。「ピースとは、誰だ。家族か?」ヒフミンは、即座に返事した。「婚約者です。一刻の猶予もないんです。後、二日の命なんです。お願いします、帰らせてください」

 

 中学一年生で婚約者。師匠は、腑に落ちなかった。「危篤であれば、一大事だと思ったが、ピースという名に疑問を感じた。そのピースとかいう方は、昔でよく言う、いい名づけというやつか。ピースは、あだ名か?」ヒフミンは、ピースは、猫であることを言ってないことに気づいた。「すみません。ピースは、ネコです。でも、人間と変わりないんです。小学生のころから、大好きだったんです。今から、すぐに、帰らせてください」

 

 ピースは、猫の名前と聞いて、あっけにとられた。あまりにも真剣に話すから、バカにするのも気が引けてしまった。とにかく愚かな考えをやさしくとがめることにした。「まあ、大好きなネコが危篤であれば、一大事だ。でもな~、お前は、プロ棋士だ。プロ棋士というものは、親が危篤の時でも、悲しみに耐えて、対局をしなければならん。ネコが人間に劣るとは言わんが、ネコが危篤だからといって、不戦敗を認めるわけにはいかん。いいな」

 

 

 しばらくヒフミンは、黙ってうつむいていた。「師匠、僕にとって、ピースは、親よりも大切なんです。もし、ピースがいなかったら、プロへの道をあきらめていたんです。ピースの励ましのおかげで、プロになれたのです。だから、ピースは、命の恩人以上なんです。最期に、お礼を言いたいのです。わかってください、師匠」真剣なまなざしのヒフミンの言葉に、嘘はないように思えた。

 

 だからといって、猫が危篤だからといって、不戦敗を認めてしまえば、師匠として、将棋連盟へ顔向けができない。また、師匠として失格の烙印を押されかねない。師匠は、ヒフミンの気持ちを大切にしたかったが、判断がつきかねた。何かいい方法はないものかと頭をひねった。腕組みをした師匠は、首をかしげて、ウ~~とうなり、「困った、困った」とつぶやいた。

 

 ヒフミンも必死だった。師匠の顔を立てて、不戦敗にする方法はないか、考えた。「師匠、もしかしたら、僕、ガンかもしれません。どうも最近、体の具合がおかしいんです。検査入院させてください」もう一度、師匠はウ~~とうなった。急性盲腸ということもある。検査入院であれば、だれにも疑われない。みすみす竜王戦を棒に振ることになるが、長い目で見れば、大したことじゃない。師匠は、腹をくくった。

 

 「よし、行って来い。命の恩人、いや、命の恩ネコ、に最期の感謝を述べて来い。すぐに、タクシーを呼んでやる」すっと立ち上がった師匠は、お仏壇に向かった。正座した師匠は、お釈迦様に手を合わせた。そして、心でつぶやいた。”アホな師匠をお許しください。弟子の思いをかなえてあげたいのです。すんません”腹巻に押し込んでいたへそくり財布から、3万円を抜きとった師匠は、「花でも買ってやれ」と言って手渡した。あまりの嬉しさにヒフミンは、師匠に飛びつき抱きしめた。幸運にも伊丹空港からキャンセル待ちで午後815分の福岡行の便に乗ることができた。

 

 タイミングよく座席が空いたことは、神のご加護だと感謝した。ヒフミンが

窓際の席に着くとすぐに通路側の席に30歳前後のグレイの背広を着たサラリーマン風の男性が腰かけた。彼は、時々、チラチラっとヒフミンの顔を見ていた。彼は将棋ジャーナルの記者で、明日、二日市温泉で行われる王位戦第三局の取材のために福岡に向かっていた。彼は、天才棋士ヒフミンではないかと確かめていた。なぜ、この時間に福岡行の飛行機に乗っているのか不思議に思った。

 

 ヒフミンは、窓から見える夜空をスクリーンに白いピースのかわいい笑顔を思い浮かべていた。離陸してシートベルトを外した時、男性は、ヒフミンに声をかけた。「もしかして、ヒフミンさんでは、ありませんか?」ヒフミンは、一瞬凍り付いた。天才棋士としてもてはやされていたヒフミンは、いつもならば、笑顔でハイと返事するところだったが、福岡への逃避行は、誰にも知られたくなかった。しかし、棋士の顔をほとんど記憶している記者に対して、違いますとは答えられなかった。

 

 小さくヒフミンは、うなずいあた。「はい。おじいちゃんが、危篤なんです。だから」危篤と聞いた記者は、納得した。「そうでしたが、大変ですね。私、将棋ジャーナルの口先銀次(くちさきぎんじ)と申します。確か、明日は、竜王戦予選の対局でしょ。とんぼ返りってことですか。でも、天才ヒフミンさんであれば、予選は、難なく突破ですね。将棋ファンは、中学生竜王を期待しています。頑張ってください」

 

 気まずくなったヒフミンは、とにかく話を合わせることにした。「はい。頑張ります」ヒフミンは、大人と話すのは苦手だった。できれば、話しかけないでほしかった。即座に目を閉じ、うつむいたヒフミンは、タヌキ寝入りをすることにした。男性は、疲れて寝入ったと思い、少年を寝かせてあげることにした。しばらく、口先はヒフミンの寝顔を見ていたが、この出会いは神様が与えてくれたプレゼントではないかと勝手に思い込んだ。

 

 そして、もし、天才少年棋士のAIを凌駕する読みを記事にできれば、一躍有名になり、一気に出世できるのではないかとよこしまな思いを起こしてしまった。口先は、左手の人差し指をピンと伸ばし、ヒフミンの左肩をチョンチョン突ついた。タヌキ寝入りのヒフミンは、いやな奴に見つかったものだと心でつぶやいたが、頭を起こし、瞼を開き、左横の記者に顔を向けた。ニヤッと笑顔を見せた口先は、囁くように言葉をかけた。

 

 「睡眠中、申し訳ありません。ちょっと、質問よろしいでしょうか?」今は、誰とも話したくなかったが、むげに断って、福岡への夜間逃避行を記事にされては困ると思い、ちょっと笑顔を作って、返事した。「はあ、何でしょう?」急に真剣な表情になった口先は、ギョロ目で質問した。「将棋ファンなら、誰しも思っていることなのですが、ヒフミンさんのヨミは、AI以上です。この天才的ヨミは、どこから来るものですか?できれば、凡人にもわかるように話してもらえないでしょうか?」

 

 最も答えにくい質問をしてきたと思い、しばらく返事を考えた。自分にもわかりませんと答えては、天才少年棋士は生意気だなどと噂されて、多くの記者たちを敵に回すだろうし。それかといって、僕は生まれながらにして、将棋の天才です、では答えになってない。僕は、国語が苦手で、説明ができないんです、っていうのも私はバカですといっているようだし。こういう時に、亜紀ちゃんがいてくれたら、相談できるんだが。その時、脳裏にある将棋盤がピースの笑顔に変わった。

 

 ニコッと笑顔を作ったヒフミンは、答えた。「わかっていただけるかどうか、わかりませんが、実を言うとですね」口先の目が、ギラギラと輝き始めた。口先は、次の言葉をじっと待った。「僕は、1分ぐらいで、100手ほど読むんですが、どう読んでも勝ち目がないような時があるんです。もう駄目だ、このままだと負けてしまうって思うんですよね」口先は、ヒフミンの顔をじっと見つめていた。

 

春日信彦
作家:春日信彦
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