ピース

 アンナとさやかは、突然のことで顔を見合わせて、目を丸くした。亜紀ちゃんは、早くこっちに来るように招き猫のまねをして、右手の指先をピクピクと動かした。二人がテーブルに着くと亜紀ちゃんは、二人の顔を交互に見つめた。「あのね、取材を断る方法は、これしかないと思う。ピースには、内緒よ。あのね、ピースが死んだことにするの。死んでしまえば、結婚もできないし、取材もできないでしょ。どう?名案じゃない」

 

 アンナもさやかも返事に困った。しばらく、沈黙が続いた。アンナは思った。確かに、死んだことにすれば、結婚話も取材もなくなる。でも、今度は、ピースが死んだことが、世間の話題になってしまう。こうなれば、一生、ピースは家に引きこもらなくてはならなくなる。ピースは納得するだろうか。さやかも嘘をつくことに後ろめたさを感じた。いずれ、嘘はばれる。それが愛猫家たちに知られたら、非難の的になる。

 

 アンナもさやかも、頭を抱えてしまった。さやかが囁くように話し始めた。「嘘は、いずればれるのよ。ピースだって、嘘をつきたくないと思うの。このさい、今は婚約ということで、ヒフミンが名人になれたら結婚する、ということでいいんじゃない。それまで亜紀ちゃんがピースを預かるってのは、どうかしら。ヒフミンはやさしくて、ネコのことを第一に思ってくれているから、わかってくれると思う。ピースも、亜紀ちゃんが話して聞かせれば、きっとわかってくれるわよ。どうかしら」

 

 アンナも何度もうなずいていた。嘘は災いのもとと思ったアンナも同意の意見を述べた。「さやかが言うように、嘘は、きっとばれる。そんなことより、ヒフミンを信じてあげよう。ヒフミンだったら、きっと、ピースを幸せにしてくれる。さやかが言うように、ヒフミンが名人になるまでは、亜紀が預かればいい。ヒフミンだって、男よ。納得するわよ」嘘はよくないといわれ亜紀も反省した。ヒフミンを信じてあげられなかったことが恥ずかしくなった。

 

 亜紀は、とにかくピースにヒフミンの良さを話してみることにした。そして、婚約したからといって、このうちを出なくてもいいことを話すことにした。亜紀は、アンナとさやかに大きくうなずき、返事した。「亜紀が間違っていた。ヒフミンを信じる」そう言い終えた亜紀は、ソファーでぐったりと横になっているピースの横に腰を落とした。「元気を出して、ピース」亜紀はそっとピースを抱きかかえ、二階の自分の部屋に向かった。ベッドに寝かすと、亜紀もピースをいたわるように添い寝した。

 

 亜紀は、ぼんやりと天井を見つめて独り言のように話し始めた。「あのね、ヒフミンってね、本当に能天気なの。そう、小学校四年生の夏休みの時だった。薄汚いランニングシャツを着たヒフミンが、垣根の向こうから、ピース、ピース、って叫ぶの。亜紀がね、ピースを両手で持ち上げて、ここよ~~、って叫ぶと、一心不乱に玄関に突進してきて、ママに挨拶もせずに、ガタガタと階段を駆け上って、亜紀の部屋に飛び込んできたのよ。そしてさ~~、グイっとピースを奪い取って、抱きかかえると、好き好き、ピースって言って、ピースにチュ~~したのよ。ほんと、ヒフミンって、ピースのことが好きなんだな~」

 

 ピースは、耳をピクピクと振るわせ、聞いている様子を示した。亜紀は話を続けた。「そう、ヒフミンってね、勉強はできなかったけれど、将棋が得意でね、だから、プロになるように勧めたの。でも、貧乏だから、あきらめるといって、将棋の駒を捨ててしまったのよ。でも、ピースが王将のネックレスをして、ヒフミンを励ましてあげたじゃない。そうしたら、奇跡が起きて、ついに、ヒフミンったら、プロになったの。それも、史上最年少で。すべて、ピースのおかげだと思う」

 

 亜紀はそっとピースの頭を撫でた。閉じられていた目が、少し開き、亜紀の顔を見つめた。ピースも昔のヒフミンを思い出しているようだった。「ヒフミンはね、いま、大阪の師匠のうちで暮らしているの。必ず、名人になるって、約束してくれたの。名人になって、大金持ちになって、ピースと一緒に暮らしたいって、言ってた。でも、名人になるって、すっごく大変なことなのよ。おそらく、後10年でなれるかどうか。もしかしたら、20年先かも。それほど、大変なことなの。でも、ピースのためなら、頑張れるって言ってた。ヒフミンは、ブサイクでも、ヤッパ、男よね」

 

 ヒフミンの気持ちは、ピースもきっとわかってくれると思った。そして、ピースはヒフミンにとっても、亜紀の家族にとっても、かけがえのない存在であることをわかってくれると思った。「ねえ、ピース、ヒフミンが名人になるまで、みんなで応援してあげようか。ヒフミンが名人になるのは、いつになるかはわかんないけど。万が一、ヒフミンが名人になったら、結婚してあげてくれる?それは、ピースの気持ちで決めていいの。もちろん、名人になって、ヒフミンが迎えに来るまでは、ピースは亜紀と一緒よ。どうかしら?」

 

 ピースはか細く小さな呼吸をしていた。ピースは亜紀が思っている以上に年を取っていた。ピースは、毛並みがよくかわいいために、若く見えていたが、亜紀のうちに迷い込んできたときには、人間でいえば、60歳ぐらいにになっていた。また、ピースは、なんとなく自分の寿命を感じ取っていた。ここ1か月くらい前から、原因はわからなかったが、急激に体調が悪くなっていた。だから、ピースの体調が悪いのは、ヒフミンのことが原因ではなかった。必死に慰めてくれる亜紀ちゃんに心配かけて、申し訳ないと思っていた。

 

 ピースは、最後の力を絞り出して、グイっと立ち上がった。そして、亜紀の瞳を見つめると、大きくうなずいた。亜紀は、ピースがわかってくれたと思い、ピースをそっといたわるように抱きしめた。再びピースをベッドに横たえるとお気に入りのピンクのタオルをかけて、おやすみなさい、と言って部屋を出ていった。リビングでは、ソファーに腰掛けたアンナとさやかが、不安げな表情で亜紀を待っていた。リビングにやってきた亜紀を見て、アンナは声をかけた。

 

 「ピースの具合はどう?ピースの気持ち、確かめられた?」亜紀は、笑顔を作って、返事した。「わかってくれたみたい。ヒフミンが名人になったら、結婚してもいいって。それまでは、亜紀がピースの面倒を見る。ヒフミンも納得すると思う」アンナとさやかは、ほっとした表情でうなずいた。アンナが厄介な取材のことについて話し始めた。「ピースへの取材なんだけど、ピースは寝込んでるじゃない。だから、ピースの写真撮影は、断りましょう。写真が欲しいといわれれば、アルバムの写真をあげればいいわ」

 アンナは、いやいやながら2社のメディアに取材のOKを出した。なるべく近所迷惑にならないように午前と午後に一社ずつ取材に応じることにした。翌日の月曜日の朝、10時に甘党茶屋の駐車場にピンクのラパンが停まった。カメラを左肩に担いだ若い女性記者が、アンナの家の玄関に向かって軽やかな足取りで歩いてきた。彼女はドアの前に立つとピンポーン、ピンポーンとインターホーンを響かせ、笑顔を作った。ついにやってきたかとしかめっ面のアンナは、よっこらしょと腰を持ち上げ、重い足取りで玄関に向かった。

 

 踊り場に正座すると声をかけた。「どうぞ、お入りください」開いたドアから245歳の女性が顔を出した。「お邪魔します。初めまして、わたくし、愛猫週刊の猫山と申します」とあいさつするとアンナに名刺を手渡した。名刺を一瞥したアンナは、「どうぞ、おあがりください」といってリビングに案内した。カメラを担いだ女性記者は、アンナの後をゆっくり歩いて続いた。キッチンテーブルの席を勧められた彼女は、笑顔で腰掛けた。

 

 テーブルには、亜紀がすでに腰掛けていた。さやかの姿はなかった。さやかは、二階の亜紀の部屋で寝ているピースに付き添っていた。猫山の姿が現れると亜紀は立ち上がり元気な声で「こんにちは」とあいさつをした。お茶を差し出したアンナは猫山の正面に腰掛けた。上品に湯飲みに唇をつけてほんの少しお茶をすすると猫山は口火を切った。「早速で恐縮ですが、ご結婚相手のピースを拝見させていただけますでしょうか?」アンナは、即座に返事しなかった。

 

 言いにくそうな表情でアンナは、小さな声で返事した。「わざわざ、起こしいただいて、申し上げにくのですが、ピースは、ここ一週間ほど具合が悪くて、寝込んでいます。できれば、そっとしておいてあげたいのです。面会は、ご遠慮願いませんか。写真であれば、ここにたくさんありますので、お好きな写真をお持ち帰って結構です」アンナは、ピースのアルバムを猫山の前にさしだした。猫山は、一瞬気落ちしたような表情を見せたが、アルバムを開くと笑顔を見せた。

 

 

春日信彦
作家:春日信彦
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