小説の未来(15)

戦場から逃れるため国家を脱出した難民と言われる人々がいますが、すべての人は、どこかの国家に属していると言えます。だから、登場人物を描くということは、彼らにかかわる家族と彼らが属している国家を描くことになります。

 

小説は、架空の世界を描くと述べました。と言うことは、家族も国家も架空と言うことになります。では、架空の家族や国家を描いて、どのような効果があるのでしょうか?

 

家族や国家は現実の姿をありのままに描写した方が読者には実感がわいて有用的ではないか、との意見が一般的なように思われます。でも、あえて小説が架空の家族や国家を描くということは、やはり、何らかの有用性があるからなのです。


私たちは、家族の構成員ですから、自分の家族を通して家族を認識しています。さらに、実感できない国家においては、日々の事件を報道するテレビや新聞で認識しています。そして、それらの情報をもとに自分なり国家観を作り上げています。

 

と言うことは、それぞれの人たちは、自分の感性と言語に基づいて家族や国家を認識しているのです。そのように考えると、家族観も国家観もその人固有のものだと言えるのです。

 

たとえば、ある番組に呼ばれた国会議員が、日本国家は軍事力を中心とした自由経済主義国家を目指すべきだ、と叫んだとします。たとえ彼が国家を代表するような大学の博士号を持っていたとしても、その考えは、彼の国家観にすぎません。

 

 また、子供の貧困は犯罪の増加と学歴格差拡大の原因となると考えた主婦が、日本国家は貧困をなくす福祉国家を目指すべきだ、とデモで訴えたとします。これも、彼女の国家観にすぎません。

つまり、現実の国家は明確に認識できるようで、意外とあいまいなものなのです。私たちは、現実世界に住んでいるから現実を認識していると思っています。でも、そうでない場合が多いのです。身近な例として、太陽は、東から西に動いているように見えますが、実は、地球が動いているから太陽が動いているように見えるのです。

 

そこで、現実世界の認識をより客観的に把握するために、小説が描き出す架空世界と我々が認識している現実世界を比較してみるのです。

 

言語と国家

 

 私たちは、現実世界に生きています。だから、その人なりに現実をある程度認識しています。では、認識とはいかなるものでしょうか?目で見えたもの、耳で聞こえたこと、指で感じ取ったもの、鼻で匂いとして感じたこと、舌で味覚として感じ取ったもの、など五感で把握したものは、現実の認識と言えます。

 

 さらに、言語でも現実を認識しています。実は、文字と音声でとらえた現実こそが、自分が思っている現実に近いのです。と言うことは、その人それぞれの言語中枢によって、それぞれ異なった現実が生み出されているということなのです。

 

 小説は言語の集合体です。だから、小説が作り出す架空世界も言語の集合体でしかありません。国家について言えば、小説が生み出す国家は、言語の集合体としての国家と言うことです。ならば、実体はないのか、と言われるでしょう。

春日信彦
作家:春日信彦
小説の未来(15)
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