オーディション

審査員たちは、拓実を女子と完全に勘違いしているようだったが、亜紀は、素知らぬ顔で、満面の笑みを作りお辞儀をした。拓実は、笑顔で話す審査員たちを見てニコニコしていた。亜紀は、拓実の耳元で褒められたことを伝えた。二人は、審査室を出るとヒフミンが待っている広場に出た。ヒフミンは、ベンチに腰掛け将棋の本とにらめっこしていた。スパイダーは、ヒフミンの足元で寝ころんでいた。

 

「ヒフミン、お待たせ。タクミ、かわいくて、きれいな声してるって、審査員に、すっごく褒められた。きっと、アイドルになれるって」ヒフミンは、ほっとして、拓実に話しかけた。「さすが、タクミ。アイドルになれたら、サイン頼むな」拓実は、アイドルの意味がよくわかっていなかったみたいだったが、笑顔でうなずいた。スパイダーも拓実の笑顔を見て、しっぽをフリフリ、ワンワンと祝福した。

 

兵役義務

 

 歩いて伊都文化会館までやってきた亜紀たちは、歩いて帰る元気はなかった。それで、タクシーに乗って帰ろうと思ったのだが、亜紀もヒフミンもタクシーに乗るお金を持ち合わせていなかった。やむなく、亜紀は、明菜の応援に伊都文化会館まで歩いて来たと嘘を言ってアンナに迎えに来てもらった。夕食時、亜紀たちが歩いて伊都文化会館まで行ったことをあきれた顔でアンナはさやかに話した。「さやか、亜紀ったら、伊都文化会館まで歩いて行ったんだってよ。しかも、ヒフミンに拓実をおんぶさせてよ。いったい、何を考えてるのかしらね。明菜ちゃんの応援に行くっていえば、送ってあげたのに」

 

 さやかも目を丸くして亜紀を見つめた。「アキちゃん、タクミちゃんは、まだ小さな子供なんだから、遠出するときは、アンナに頼みなさい。それに、たとえ仲のいい友達だからと言って、友達におんぶさせたりしちゃだめよ。いい」亜紀は、叱られてもうなずくだけで、拓実がオーディションを受けたことは黙っていた。アンナは、うつむいてまったく反論しない亜紀がかわいそうになったのか、話を替えることにした。

 

 「まあ、無事に帰ってきたことだし、さあ、いただきましょう。アキの大好きな佐賀牛のしゃぶしゃぶよ。あんなところまで歩いたんだから、おなかペコペコでしょ。たくさん食べなさい。タクミは、なんだか、ご機嫌じゃない。いいことでも、あったのかしら?タクミも、たくさん食べて、ヒフミンみたいにたくましい男子にならなくっちゃね。そういえば、ヒフミン、奨励会、合格したのかしら?」

 

 亜紀が目を輝かせて、返事した。「ヒフミン、合格したみたい。師匠に神武以来の天才って、言われたんだって。でも、師匠のところに下宿するのは、中学になってからだって」アンナは、笑顔で話を続けた。「それは、よかったわ。もうすぐじゃない。半年後には、大阪に行ってしまうのか。ちょっと寂しい気もするわね。おバカさんだけど、とっても優しい子だから、師匠にも好かれるんじゃない。将来、名人になるといいわね」

 

 亜紀もヒフミンがいなくなると寂しくなるような気がした。今までヒフミンを応援していたが、いなくなってしまうと思うと元気よく応援する気になれなかった。いつも頓珍漢(とんちんかん)なことを言っていたが、さやかもヒフミンのやさしさを実感していた。「今どき珍しい、おバカで優しい少年じゃない。人は見かけじゃわからないものね。おそらく、みんな、ヒフミンのすごさがわからないのよ。ヒフミンは、奇跡を起こすような気がする。きっと、歴史に残る名人になるわ」

 

 亜紀はいつも心でおバカおバカと言っていたが、なんとなくそれは違っているような気がした。逆に自分たちこそ常識にとらわれたおバカじゃないかと思えた。伊都文化会館までおんぶするなんて、大人はおバカと思うかもしれないけれど、ヒフミンのおんぶは大人が忘れてしまった本当の優しさじゃないかと思った。頭が悪い人をバカにする大人びた秀樹だったら、絶対におんぶなんかしないと思った。でも、名人になってピースと結婚する、と言い張るところなどは、やっぱ、かわいいおバカかも、と心の奥で笑ってしまった。

 拓実は、みんなの話にはまったく無関心のように黙々とお肉を食べていた。「タクミも、もう少し男の子らしくなったらいいんだけど。今のままじゃ、兵隊には行けそうもないわね。でも、兵役義務は守らないと、刑務所に入れられちゃうし。困ったものだわ。どうにか、兵役を逃れる方法はないのかしら」女子に見える拓実をじっと見つめて、亜紀も心配になった。「絶対に、行かないとだめなの?タクミは、兵隊なんて絶対無理」

 

 さやかも亜紀と同感だった。拓実はまったく男子に見えなかった。おそらく、成人しても女子に見えるんじゃないかと思えた。「そうね。タクミちゃんは、男子に見えないもの。兵隊に行ったら、みんなにいじめられるわ。かわいそう。兵隊に行かなくてもいい何か裏技はないかしら。そう、性転換して、女子になるってのは、どう?アイドルユニットに入って、兵隊の慰問に行く役をすればいいのよ」

 

 亜紀もできることなら性転換手術を受けさせても兵隊にやりたくなかった。でも、もし特高警察に見つかったら、しょっ引かれて、拷問されて、裁判にかけられるようで怖くなった。アンナは、いつものごとくいい加減なことを言い始めたと思い、さやかを睨み付けて叱るように強い口調で話した。「さやか、タクミは立派な男の子よ。何がアイドルよ。これから、バシバシ鍛えれば、たくましい男になるわよ。でも、兵隊にはやりたくないわよね。戦争に行けば、生きて帰ってこられるとは限らないんだから。だからと言って、兵隊を拒否したら、ブタ箱行だし」

春日信彦
作家:春日信彦
オーディション
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