オーディション

審査室に入ると、長テーブルに三人の審査員が腰かけていた。部屋の中央には、ステージがセットされていた。向かって左手に白髪のおじさん、真ん中に眼鏡のおばちゃん、右手に受付をしていたイケメンのお兄ちゃんが、マジな顔つきで二人に目を据えていた。二人がステージに立つと、亜紀は、案内スタッフからマイクを手渡された。だが、すぐに、拓実に手渡した。笑顔を作り拓実に視線を向けた眼鏡のおばちゃんが、優しく声をかけた。「ももいろといき、ね。アカペラで、ハイどうぞ」亜紀は、アカペラの意味が拓実はわからないと思い、拓実にとにかく歌うように促した。「タクミ、カラオケなしで歌うの。歌える?」拓実は、頷き、歌い始めた。「さかせて さかせて ももいろといき あなたに だかれて こぼれるはなになる ・・」

 

 エントリーのミスは、3歳を13歳と勘違いしたスタッフにある事が分かり、審査員たちは、とにかく聞いてあげることにしていた。しばらくすると、じっと聞き入っていた審査員の顔が紅潮してきた。3歳にしては、信じられない透き通った歌声と歌唱力に感嘆してしまった。本来ならば、1週間後に郵送で結果を知らせることになっていたが、三人の審査員の話し合いの結果、この場で褒めてあげようということになり、感想と審査結果を伝えることになった。

 

白髪のおじさんが話し始めた。「信じられない。3歳で、こんな大人の歌を歌えるとは。声と言い、歌唱力と言い、素晴らしい」中央の眼鏡のおばちゃんも笑顔で話し始めた。「まったく、信じられない、こんなに歌唱力のある子供は、初めて。とってもかわいいし、きっと、このまま頑張れば、アイドルになれるわ。小学生になったら、もう一度チャレンジしてね。すごくよかったわよ」

 

審査員たちは、拓実を女子と完全に勘違いしているようだったが、亜紀は、素知らぬ顔で、満面の笑みを作りお辞儀をした。拓実は、笑顔で話す審査員たちを見てニコニコしていた。亜紀は、拓実の耳元で褒められたことを伝えた。二人は、審査室を出るとヒフミンが待っている広場に出た。ヒフミンは、ベンチに腰掛け将棋の本とにらめっこしていた。スパイダーは、ヒフミンの足元で寝ころんでいた。

 

「ヒフミン、お待たせ。タクミ、かわいくて、きれいな声してるって、審査員に、すっごく褒められた。きっと、アイドルになれるって」ヒフミンは、ほっとして、拓実に話しかけた。「さすが、タクミ。アイドルになれたら、サイン頼むな」拓実は、アイドルの意味がよくわかっていなかったみたいだったが、笑顔でうなずいた。スパイダーも拓実の笑顔を見て、しっぽをフリフリ、ワンワンと祝福した。

 

兵役義務

 

 歩いて伊都文化会館までやってきた亜紀たちは、歩いて帰る元気はなかった。それで、タクシーに乗って帰ろうと思ったのだが、亜紀もヒフミンもタクシーに乗るお金を持ち合わせていなかった。やむなく、亜紀は、明菜の応援に伊都文化会館まで歩いて来たと嘘を言ってアンナに迎えに来てもらった。夕食時、亜紀たちが歩いて伊都文化会館まで行ったことをあきれた顔でアンナはさやかに話した。「さやか、亜紀ったら、伊都文化会館まで歩いて行ったんだってよ。しかも、ヒフミンに拓実をおんぶさせてよ。いったい、何を考えてるのかしらね。明菜ちゃんの応援に行くっていえば、送ってあげたのに」

 

 さやかも目を丸くして亜紀を見つめた。「アキちゃん、タクミちゃんは、まだ小さな子供なんだから、遠出するときは、アンナに頼みなさい。それに、たとえ仲のいい友達だからと言って、友達におんぶさせたりしちゃだめよ。いい」亜紀は、叱られてもうなずくだけで、拓実がオーディションを受けたことは黙っていた。アンナは、うつむいてまったく反論しない亜紀がかわいそうになったのか、話を替えることにした。

 

 「まあ、無事に帰ってきたことだし、さあ、いただきましょう。アキの大好きな佐賀牛のしゃぶしゃぶよ。あんなところまで歩いたんだから、おなかペコペコでしょ。たくさん食べなさい。タクミは、なんだか、ご機嫌じゃない。いいことでも、あったのかしら?タクミも、たくさん食べて、ヒフミンみたいにたくましい男子にならなくっちゃね。そういえば、ヒフミン、奨励会、合格したのかしら?」

 

 亜紀が目を輝かせて、返事した。「ヒフミン、合格したみたい。師匠に神武以来の天才って、言われたんだって。でも、師匠のところに下宿するのは、中学になってからだって」アンナは、笑顔で話を続けた。「それは、よかったわ。もうすぐじゃない。半年後には、大阪に行ってしまうのか。ちょっと寂しい気もするわね。おバカさんだけど、とっても優しい子だから、師匠にも好かれるんじゃない。将来、名人になるといいわね」

 

 亜紀もヒフミンがいなくなると寂しくなるような気がした。今までヒフミンを応援していたが、いなくなってしまうと思うと元気よく応援する気になれなかった。いつも頓珍漢(とんちんかん)なことを言っていたが、さやかもヒフミンのやさしさを実感していた。「今どき珍しい、おバカで優しい少年じゃない。人は見かけじゃわからないものね。おそらく、みんな、ヒフミンのすごさがわからないのよ。ヒフミンは、奇跡を起こすような気がする。きっと、歴史に残る名人になるわ」

 

 亜紀はいつも心でおバカおバカと言っていたが、なんとなくそれは違っているような気がした。逆に自分たちこそ常識にとらわれたおバカじゃないかと思えた。伊都文化会館までおんぶするなんて、大人はおバカと思うかもしれないけれど、ヒフミンのおんぶは大人が忘れてしまった本当の優しさじゃないかと思った。頭が悪い人をバカにする大人びた秀樹だったら、絶対におんぶなんかしないと思った。でも、名人になってピースと結婚する、と言い張るところなどは、やっぱ、かわいいおバカかも、と心の奥で笑ってしまった。

春日信彦
作家:春日信彦
オーディション
0
  • 0円
  • ダウンロード

23 / 29

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント