夢のネックレス

さやかは、ぐったりとしてしまった会長を寝かせつけ、三人は静かに病室を出た。二人は、さやかと正面玄関で別れるとアンナは亜紀の手を引っ張り、病院から逃げるかのように小走りで駐車場に向かった。車に乗り込みハンドルを握りしめたアンナは、なんとなくほっとした。子供たちに優しいおじいちゃんと思い込んでいた亜紀は、おじいちゃんが武器商人の悪者と知って、少し、がっかりした。

 

                 夢のネックレス

 

 ヒフミンの姉、香子(キョウコ)は、ヒフミンの激変に困惑していた。7月末までの奨励会受験申込み期限が過ぎてからは、魂が抜けたような子ブタになっていた。毎日のように将棋を指していたヒフミンが、今では、将棋について一言もしゃべらなくなった。勉強机の上には必ず将棋盤と駒が置いてあったが、部屋のどこにも将棋盤と駒の姿はなかった。それまでは、時々、アマ2段の香子に相手を頼んでいたが、それもまったくなくなった。思い余って、香子は将棋の相手を申し出たが、やんない、とあっさり断られた。

 

 ヒフミンは、受験すれば必ず合格すると確信していた香子は、受験をしないヒフミンの気持ちがわからなかった。そのことで、若いころアマ竜王戦の福岡県代表になったことのある祖父の銀次に相談することにした。夕食後、銀次は、いつものようにちゃぶ台でじっとアマ竜王決勝戦の棋譜を見つめていた。「おじいちゃん、ちょっといい」銀次は、香子のマジな口調に驚き振り向いた。「なんだ。お小遣いなら、もうないぞ。薬代で、我が家は火の車だ。そのくらい、分かってるだろ」

 香子は、銀次の正面に胡坐をかいて、銀次を睨みつけた。「違うったら。ヒフミンのことよ。最近変じゃない。将棋をまったく指さなくなったのよ。奨励会は、一生受験しない、っていうし。もう、将棋は飽きたとか何とか言って。あの将棋バカが、将棋を指さないってことは、きっと、何かあるのよ。おじいちゃんに心当たり無い?」銀次は、面倒くさい話を持ってきたとしかめっ面で答えた。「そのうち、気が向けば、指すさ。ほっとけばいい」

 

 でも、香子の気持ちは、治まらなかった。「おじいちゃん、本当にそう思う。あの将棋バカが、将棋を指さないのよ。おかしいでしょ。あいつったら、将棋盤と駒は、友達にやったとかなんとか言って、変でしょ。そう思わない?」銀次は、奨励会試験を受験しなかったことで、ヒフミンの気持ちを察していた。そこで、香子を諭すように返事した。「香子は、奨励会の難しさを知らないからだ。奨励会なんて、そんなに簡単に入れるものじゃない。そのことが、ようやく分かったんじゃないか」

 

 「おじいちゃんって、冷たいのね。何よ、最初から落ちると決めつけるなんて。確かにバカだけど、将棋の天才じゃない。どうして不合格になるって決めつけるのよ。やってみなきゃ、わかんないじゃない。一度や二度、落ちたっていいじゃない。とにかく、何度でも、チャレンジすべきじゃない」銀次は、これ以上ヒフミンのことは話したくなかったが、香子を納得させるために話を続けた。

 「まあ、小学生としては、天才かもしれん。だがな~、将棋ってものは、分からんものだ。奨励会に入っても、みんながプロになれるわけじゃない。ほんの一握りの天才が、プロになる。おじいちゃんは、受験をあきらめて、よかったと思っている。きっと、本人も納得してるはずだ」香子は、おじいちゃんを見損なった。頭からヒフミンの才能を踏みにじっているとしか思えなかった。

 

 これ以上話しても無駄なように思えた香子は、自分の決意を述べて立ち去った。「そうなの。おじいちゃんって、夢のない人ね。どんなに可能性が小さくっても、それにチャレンジさせるのが家族ってものじゃない。いいじゃない、プロになれなくっても。本人が、納得するまで、とことんやれば。それが人生ってものじゃない。分かったわ。もう頼まない。必ず、チャレンジさせてみせる」

 

 孫に嫌われてしまった銀次は、じっと耐え忍んだ。確かに、ヒフミンは将棋の天才と確信していた。だが、奨励会に合格しても、将棋を続けさせることができないほど家計は苦しかった。ヒフミンはそのことを察して、あえて受験を断念したと銀次は思った。悩みながらも受験を断念したヒフミンの気持ちを考えると、どうしてもチャレンジを勧めることができなかった。「すべては、俺が悪い。こんな体でなければ」香子に聞こえないようにつぶやいた。

 翌日、お友達には本音を話しているんじゃないかと思った香子は、亜紀の家に遊びに行った。ちょうど亜紀がテラスでピースと遊んでいたので、一緒に遊ぼうと公園に誘った。二人は、大きなクスノキの陰にあるブルーのベンチに腰かけた。目じりを下げた香子は、ピースを膝元に置いた亜紀に尋ねた。「亜紀ちゃん、ヒフミンのことだけど、最近、変でしょ。亜紀ちゃんと将棋指す?」亜紀も変だと思っていたので、一度、そのことを香子に話したいと思っていた。「やっぱ、変よね。ヒフミンは、一生、将棋は指さないって。まったく、わかんない」

 

 香子は、ヒフミンの決意を再確認した。「そう、やっぱ、そうか。それにしても、変よ。将棋バカが、将棋をやめられるはずがないのよ。どうしてそんなことを言ったのかしら?受験をあきらめるなんて、信じらんない。いったいどういうこと?」亜紀も同感だった。「そうよ、七転び八起き、っていうじゃない。何度でも、チャレンジすればいいのよ。ヒフミンだったら、きっと合格できると思う」

 

 香子は、合格した時のことを思った。奨励会は、大阪にある。ということは、大阪に住まなくてはならない。そんなことは、火の車の家庭ではできない。もしかしたら、そのために、受験を断念したのではないかとふと思った。「亜紀ちゃん、ありがとう。ヒフミンのことは、任せて。どうにかしてみせる。あの将棋バカから、将棋を取ってしまえば、何が残るというの。将棋バカは、バカでいいじゃない。とことん、バカを貫き通すのよ。よっしゃ、まかせとき、きっと、プロにしてみせる」

春日信彦
作家:春日信彦
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