壊れた月が見る夢の果て~第一章:時の

プロローグ、二

 ざらつく大気の澱みに身を任せ、駆ける足は小さく傷だらけだった。
 不気味に揺れる木々の影が少女へと執拗に手を伸ばす。

 そこは闇よりも深く地よりも高い世界、冥界。
 少女がいる場所は冥界の三分の一を占めている森林地帯だった。

 通称『迷いの森』。

 この森は、世界が創世される前から存在すると言われていた。
 生育する樹木のすべてが自我を持ち、冥界の長である冥神を崇高していたが現段階では不確かなものとなっている。というのも、今まさに伸縮する数多の影手から逃避行している少女こそが、冥神の血族者だからだ。
 少女の名は芳姫ほうき――冥界を治める主神の娘だ。年は五、六歳だろうか。腰に届くほどの長さの黒髪を振り乱し、彼女は一心不乱に駆けていた。だがもう体力は限界のようだ。薄紅色の蕾のような唇は、森に漂う冷気で紫がかり吐く息は白い。
 地表から立ち昇る煙霧が視界を霞める。森は危険地帯だ。森が生み出す霧は心を惑わし意識を混濁させる毒だった。それでも、少女は立ち止まるどころか振り返ることもしない。
 止まってはいけない。もう少し…もう少しと、逸る心を抑えつつも走る速度は変わらなかった。

 しかし、薄暗い闇が彼女を止まらせた。土よりほんの少し盛り上がった木の根に躓いたのだ。
「――…ッ」
 前方へと勢いよく吹っ飛ぶと、芳姫は小鞠のように転がった。

 芳姫はわずかにうめき声を発し小刻みに震えた。体が恐怖を訴えているのだ。転んだ拍子に噛んだのだろう。口角から血が滲んでいた。苦い土と鉄錆の味をプッと唾と一緒に吐き出すと、顔を上げ瞳孔を大きく開いて周囲を見渡した。

「……」

 芳姫は唇を無造作に手で拭い立ち上がると、痛みに鈍感なのか、少女は抑揚のない表情で再び足を進めた。

 一体何が彼女を動かしているのだろう。歩み行く先に何があるというのか。

 しばらくすると、終点ではないがぼんやりと建物の影が眼前に浮き上がってきた。
 少女の視界ではとらえきれないほど巨大なもの。それは黒塗りの門だった。

 聳え立つ扉はすべてを拒絶するように荘厳さを放っている。

「……」 

 扉は固く閉じられている。隙間風が少女の髪を優しく撫でた。

 芳姫は扉の前でおもむろに天を仰ぎ見た。幼い少女の目には、天の頂きと扉の頂点が繋がっているように見える。だがそれは錯覚だと知っていた。なぜなら、天界など存在しないからだ。
 この扉、は冥界と他の世界を繋ぐ関所であり、境界線の一つにすぎないのだ。 

 けれど、彼女は何度ここを訪れただろうか。
「………」 
 芳姫は思考を支配している感情を小さな手のひらに強く込めた。握り締めた拳で扉を叩く。
「開いて……ッ」
 すがるように扉を叩き続ける芳姫の声が、切に森中に響き渡る。届かないと分かっていても叫ばずにはいられなかった。

「どうして開かないの!?」

 全身全霊で叫ぶ小さな姿は憐れだった。


 いっそ、喉が裂けたらいいのに。そうすれば泣き叫ぶこともしなくて済む。

 いっそのこと、風がこの身を切り刻んだらいいのに。

 そうすればこの腐った大地を駆けることもない。

 

 声にならない声で芳姫は何度でも叫ぶ。

 心の奥から噴出す感情があり、彼女はその名を知っていた。だから押し殺す。その心に憎しみに近い哀しみが入り混じっていたとしても、芳姫には嘆願することしか許されていないのだ。


 そうだ。許されているのは、ただひたすら願うだけ。

 

「お願い、確かめたいの! 確かめなくちゃいけないの! だからお願いッ だから………」
 最後の言葉は奥歯で噛み砕いた。そして、額を扉にこすりつける。冷ややかな扉の感触が意外にも心地よかった。
 見下すように聳え立つ扉の前で誇り高く涙を堪える少女を、世界は拒んでいるようだった。

 その時だ。何かの気配を感じたのは。
 振り返った芳姫は、扉を背に薄暗い闇を見据えた。
「……」
 意識を集中させ耳を研ぎ澄ませる。その姿は勇敢にも扉を守る小さな番人に見えた。
  ――追っ手が来たの? 
 そう思ったのは、扉の前まで森の影は伸びないからだ。
 ――また連れ戻される。
 芳姫の胸中を支配しているのは恐怖ではなく悲哀だった。 
 薄いベールを剥ぎ取るように仄かに照らす月明かりの下、現れたのは巨大な黒豹だった。
 闇を裂くように現れた黄金色の双眸が少女を捕らえる。芳姫の黒い瞳から大粒の涙がポタポタと零れ落ちた。
「……ザイド…」 
 芳姫の十倍以上はある漆黒の豹は、巨体をしなやかにくねらせ歩み寄り芳姫の眼前でちょこんと座った。金色の目が物悲しく少女を見下ろしていた。
 少女の頬を伝う涙をぺろりと舐めて、黒豹は顔を擦り付ける。その仕草はまるで猫と同じだ。
「帰ろう、芳姫」
 頭の中に響く声音は優しいものだった。芳姫は首を横に振るとザイドに懇願した。
「お願い、扉を開けて。何でも言うこときくから…」
 ザイドなら開けることができると知っていての事だったが、
「だめだ。まだ早いんだ。今のお前じゃ扉の向こうへ辿り着く前に消滅してしまうよ」
 ―――また、同じ答えだ。
「……いつになったら行ける?」
 同じ問いを何度繰り返しただろうか。芳姫はザイドの返事を待った。
「分かってくれ、芳姫。お前のためなんだ。だから城に戻ろう。皆が気づかないうちに」
 落胆した芳姫はその場に座り込む。するとザイドが人型へと姿を変えた。
 浅黒い肌に黒髪の青年の姿だ。短い髪を隠すように被っていた薄絹で芳凛を包み込むと、片腕で抱きあげた。周囲の気配を探りながら踵を返す。芳姫は黙ってザイドに身を任せた。
 彼女は分かっていた。どこにいても、自分を見付けるのはいつも彼だと。
  
  
  
 

守護神ザイド

 守りの森に佇む芳凛は、黒い髪を靡かせ漆黒の瞳で森の奥を見据えていた。

 藍色のジーンズに真っ赤なシャツを羽織っただけのラフな 姿であるが、すらりと伸びた手足に引けを取らない腰まである黒い髪。白く陶器のように滑らかな肌に黒い瞳。うっすらと紅をさしたような唇に細い首。骨格ま でも美しいとは彼女のことだろう。肌蹴たシャツから鎖骨が覗いていた。

 風が彼女に触れると、芳凛は幼少期を思い出していた。

 

 どれだけ早く駆けても追いかけてくる音と気配。

 自分を呼ぶ声。

 足に纏わりつく土と木の根。

 光のない森林の中。

 ザイドがいたからここまで辿り着けた。

 何度止められても振り払った、あの手は必死で自分を守ろうとしていたのだと今なら思える。

 

 地面に映る芳凛の影がゆっくりと揺れた。

<……どうした芳姫。具合でも悪いのか?>
 影の中から話し掛けてくるのは守護する者だ。深みのある低い声音は芳凛にしか聞こえない。ザイドは異形のようで全く異なる存在であった。
「芳姫じゃない。芳凛だ。いい加減覚えろ」
  彼は彼女が乳飲み子の頃から常に傍にいたためか、いつまでも親が子供を守るような感覚で接してくる。少女から女性へと成長した現在も彼の時間ではわずかな 成長なのだ。いつも影の中に潜んでいるわけではないが、芳凛の影と彼の空間は繋がっていた。少しでも危険が迫れば知らせてくる。それは便利な時もあれば正 直、同じくらい不便利な時もあった。守護する者は過保護なのだ。
<……あの少年は?> 
 彼が訊いているのは華艶かえんという少年のことだった。

 芳凛が嘆息した。
「ザイド……大人げないぞ。わずか十歳の子供相手に一体なんだ?」 
 気に入らない様子でザイドが低く唸った。
<なぜそばに置く必要がある? まして大樹だいきが連れてきた奴じゃないか…>
 大樹とは、芳凛が以前所属していた部署のトップである戦闘課総監の事だった。

 その戦闘課総監が先日連れてきた少年が華艶なのだが、その時、芳凛は遠目から眺めただけで直接声を交わしたわけではなかった。
 芳凛がうつろな視線を守りの森から地面へと落とし、風に消えそうな声で呟く。
「あの子は――……私のために作られた子供ではないだろうか」
 ザイドは口を噤んだ。
 芳凛が気づかないわけがない。華艶の放つ気。あれは数多くの骨肉で形成された物の独特の気質だ。しかも、その中にはおそらく『奴』の一部も混じっていることだろう。

 と、ザイドは胸の内で毒づいた。
(死してもまだ、芳姫を求めるのか…)
 長城の世界では、年齢、男女といった差別は一切認めない。それは強さに比例しないからだが、それと同様に認められていないことが『門番同士の婚姻もしくは性的な繋がり』だった。
 門番の血を濃く引き継いで生まれた子供の大半は、異形に近い醜悪な容姿で生まれた。そして、彼らは奇怪すぎた。自らの存在をより強く認めさせるかのように、残虐な殺戮を好んで行う。

 矛先は異形に限らずだ。だから処分されてきたのだが、現在より数百年前、当時の科学課が行ったある実験が悲劇を引き起こしたのだ。
 

 強靭な肉体を持ちより優れた能力を携えた門番を人工的に創り上げようとしたのだ。
 

 赤子が乳を欲するように選ばれし者の血を求める子供。

 目を背けたくなるような奇妙な姿。異常な生命力と獣の本能。悲劇は悲劇を呼んだ。
 行き場のない憎しみは殺戮を求める。

 暴虐の限りを尽くし荒れ狂う創られた選ばれし者たち。彼らを鎮圧するために組織は総勢力をあげ処分することを余儀なくされた。
 人命を護る者が命を狩る。人のようで人でないものたち。この時、同属殺しの罪を門番たちは背負うこととなったのだ。

 当然、元凶を作ったとされる科学課管理官は処罰された。

 数多くの門番の命と引き換えに終止符を遂げた惨劇が、過去の遺物として消えることなく語り継がれているのは二度と同じ過ちを犯さないためだった。
 だが現在の科学課もまた継続して験を行っていると、ザイドは確信していた。 
 科学課施設館内は至るところに彷徨う霊魂が浮遊しているからだ。

 それも浄化する云々のレベルじゃない。刻まれた肉片の数だけ分裂した魂の残骸。空気が澱み、重さを感じるほどだった。
(――実験は成功したというのか……?) 
 いつだって夢は望むものを見せてはくれない。

 過去の残像がいつまでも苦渋を与え、記憶は時として夢という形で責め続けるのだ。
「ザイド?」
 闇に溶け込むようにザイドの気配がぷつりと消えた。
「……」
 芳凛はおもむろに手の平を見つめた。
 血溜まりの中、濡れた両手は惨憺なほど赤く染まり震える声で何度も繰り返し願ったはずだった。


『神様、お願い…神様、どうか…』

 

 記憶から消えてくれない過去の出来事。

 あの日あの時――真実は闇の中。知る者はガラスの鍵を持っている者だけだった。
 

 現在、過去、未来。知りたい事は何か。知り得ることは何か。救いを求める自分の手は弱さに見えた。
 弱さは与えられるのを待っているだけの自分そのもの。

 何もせずとも時間は進み、何か起こしても時は刻むのを止めてはくれない。

 時間が止まればいいのに、時が戻ればいいのに。痛みと引き換えに強さを得たのなら、そんな強さ要らなかった。

 強さが彼を傷つけ苦しめたのなら、自分に何かできることはなかっただろうか。
 心にわだかまりを抱きながら、芳凛は生きていた。

咲矢

 長城に籍を置く選ばれし者のほとんどが保護された者だった。

 自らの意思で来る者は皆無に等しく、保護されれば最後逃れることは不可能だ。

 家族や恋人そして友人とも否応なしに引き離される。例え産まれて間もない赤子だろうとも、それが定例だ。どんなに身内が匿おうと周囲が放っておかない。隣人、知人、見知らぬ人。
 まるで罪人のような扱いだが、蔓延る異形のものは選ばれし者の血を襲う。一度狙いを定めたら獲るまで諦めない。それに、覚醒したての選ばれし者の精神は必要以上に敏感で不安定だ。ほんのはずみで軽く暴走する。だから人は恐怖するのだ。

 執拗に迫る姿泣きものたちを倒すことも、選ばれし者の暴走を止めることも、出来るのは門番だけだという事実に。
 

 長城全部署を繋ぐ通路は別次元を多数組み合わせは、長年勤務している門番たちですら迷うほど入り組んだ構造になっていた。
 人事異動で真っ先に困る事は同僚に慣れ親しむことよりも、この迷路のような回廊に慣れることだと言われている。

 別部署館内へ赴くのは会議や緊急時ぐらいなものだ。滅多に行かない館内では当たり前のように迷う者が続出する。その結果、回路の曲がり角付近には緊急用のボタンが設置されるようになった。

 変哲もない赤いボタンをぽちっと押せば直接事務局へ繋がるようになっているのだ。
 咲矢が葎と共に会議室への通路を歩いていると、突然葎の電話が鳴った。
「――」
 咲矢は何も聞かず、少し先を行く。

 葎は戸惑いながら、咲矢に背を向け電話に出た。

 灰色の壁面に囲まれた通路で葎の声が響いていた。

 咲矢は壁に寄り掛かり、葎の受け答えを聞きながら待っている。

 立ち居振る舞いに表情、話し方ひとつを上げても、数分前の葎とは別人のようだと思った。
 気骨稜稜たる教育課管理官へと見事に早変わりしている。

 一体どこで捻くれたのか。咲矢が苦笑した。

 昔はもう少し素直だった気がする。

 咲矢の記憶には当時十五歳になったばかりの葎がまだ存在していた。
 寄り添う仲間と共に、大人になりきれない子供の顔で世界を見ていたあの頃の三人。今の葎にも世界は同じように映っているのだろうか。
「……わかりました」と、事務的な対応を終えた葎が、いつもの顔で咲矢を顧みた。
「悪いが先に行って話を進めておいてくれ。私は総監を迎えに行かなくてはならなくなったから」
 咲矢は唇を横一文字に結び黙り込む。

 まいったな、と葎が前髪を掻きあげた。
「また迷子になっているそうなんだ」
 彼女はきっと自分を止めるだろう。代わりに行くと言うだろう。葎の目に映る咲矢は自分をさらけ出す鏡のように見えた。

 彼女が過去の過ちを引け目に感じていることは分かっていた。咲矢にとって自分は『特別』かもしれない。それは葎が芳凛に抱く気持ちと少し似ていた。 
「……………………事務局に行かせなさいよ。それでもどうしてもというなら私が行くわ」 
 葎が予測したとおりの返事が返ってきた。
 何の報せもなしに総監たる者が別部署館内へ来ることなどありえない。何か目的があるはずだ。葎はそんな咲矢の憤りを感じて、あえて笑顔を崩さなかった。
「総監は新入りを連れてのお越しだよ」
 咲矢は露骨に嫌な顔をした。
「新入りって華艶って子供のことでしょ? こないだ紹介に来てたじゃないの」
「あぁ……あの時はちょっとしたお披露目気分だったみたいでね。その、上の者に許可を得てたわけじゃないんだよ。わかるだろ?」

 事実、教育課の管理官である葎の手元には正規の申請書なるものは未だに届いていない。更に付け加えれば、管理官である葎がまだ華艶と顔も合わせていないというのだから驚きである。
 戦闘課総監のむちゃぶりは今に始まったことではないのだが、咲矢の顔つきが変わったので葎はあえて説明を省くことにした。
「貴方、あの子が何なのか気付いてないわけじゃないでしょ?」
 咲矢の双眸に影が差し、話す声には憤りが込められている。
「うん。わかってるよ」
 飄々とした葎の受け答えに咲矢は叱責する勢いで口を開くが…。
「分かってるなら――…」
 先の通路から慌ただしく駆ける足音が聞こえた。葎はほっと息をつく。彼にとっては救世主のように思えたのだ。
「あぁ! 葎――…と、咲矢もちょうど良かったわ」
  現れた第三者は鈴音だった。外見十七、八歳に見える少女である。小柄な体躯に巻き毛の金髪が幼く見せているのかもしれないが、走る振動で毛先が揺れてい た。だが、同色の瞳が実年齢に応じているのか大人びて見える。丸い輪郭に大きな瞳。負けん気が強く気性が荒いと評判の門番であるが、服装はいつもなぜかロ リータ系である。
「戦闘課総監が新人を連れて来るらしいわよ。わざわざ来る事もないのにいちいち迷惑な人よね。ああ、それと急で悪いけど会議場所が第五室に変更になったの」
 葎が相槌をうつ。新入りの件は今しがた連絡を受けたと伝えると、咲矢が聞き入れなかったことを鈴音に頼むことにした。
「それじゃあ、悪いけど鈴音。咲矢と一緒に会議の準備を頼んでいいかな。私は総監を出迎えに行くから」
 鈴音は愛らしい目をぱちくりさせ、葎を見た。
「なんで葎が迎えに行かなきゃならないの?」
 首を傾げる鈴音に、葎は口許を緩めた。
「はっはーん……ご指名ってことね」
 鈴音は多くを語らずとも悟る子だった。

 そして、呆れたように視線を宙へと逸らせ肩を落とすと、大げさにため息をついた。もちろん当て付けだ。
「ふんっ どうせ迷子にでもなったんでしょ。ほんっとうに世話のかかる人ね」
 迷子になるということは補佐官を同行させていないのだろう。戦闘課総監の現補佐官は生真面目で口うるさいと評判だ。その補佐官をお供につけずに来たということは、個人的に何か裏があると鈴音は推察した。
  
    
  
 

銀色の少年

 歩きなれた通路に響く靴音が異様に耳についた。

 歩み続けてきたこの足は痛くて重かったが、自分がこの世界にいる意味を忘れたわけじゃない。

 そうだ、彼女は『あの日』から自問自答し続けてきた。
  運命によって縛られた未来という名の答えがすでに決まっていたとしても、決断し立ち向かわなくてはいけないのだ。なのに、あの時彼女は逃げてしまった。こ れは『裏切り』ではないだろうか。この手でこの力で彼を拒んだ。あの差し出された手はただ純粋に彼女だけを求めていたかもしれないのに…。
<――――――芳姫…> 
 会議室前の曲がり角で、芳凛は声に逆らわず足を止めた。

 いや。止められたと言った方が正しいかもしれない。

 床に映る芳凛の影が揺れる。
<――がいる……戻ろう芳姫>
 その声は芳凛にしか聞こえないものだ。深みのある低い声音でザイドは続けた。
<……この先はダメだ>
 影の中の者は芳凛へ警告をしていた。警鐘が耳の奥で激しく鳴り響く。守護者が彼女を呼んでいた。
<――お前が傷つくだけだ>
  芳凛はその声を黙殺し振り返った。
<――芳姫!> 
 眼前に立つ男を見て芳凛の心臓が高く跳ね上がり凍りついた。
「よぅ!」
  そこには満面の笑みを浮かべ寄る男がいた。四十代半ばだろうか。だぼっとしたジーンズに目の冴える青いパーカーを着ている。足元はなぜかビーチサンダル だ。短く刈り上げた黒髪は整髪料で整えられていて逆立っている。こんがりと日焼けした肌に少し垂れ目の黒い瞳。四角い輪郭をカバーするためなのか単なる無 精ひげなのか。悠々と立つ大柄な男であるが、滑稽なことに脇に不釣り合いな小さな子供を連れていた。
「久しぶりだな、芳凛。元気にしてたか?」
 数年前に沈めきれていない憎悪が湧き上がってくるのを芳凛は隠そうとしなかった。
 久々に感じる殺意に胸の奥は熱い。苛烈にきらめく芳凛の瞳は、隙あらば喉元に喰らいつく猛獣の如く殺戮を望んでいるようにさえ見えた。
 男は芳凛の殺気を諸共せず、へつら笑いを続け飄々と話しかける。
「まいったよ。久しぶりに来たら道に迷ってな。葎に迎えを頼んだんだが、まさかお前が来てくれるとはね。嬉しいじゃないか」
 一歩、また一歩と、男は芳凛との距離を縮める。

 足裏に根が生えたようにぴくりとも動かない芳凛。

 男との距離が縮まるにつれ芳凛の気は荒く険しくなった。
 芳凛から滲み出る気が風を生む。

 風は容赦なく男に吹きつけられた。芳凛の髪が煽られ舞い上がる。
「おっと………そんなに歓迎してくれなくてもいいぞ?」 
 拒絶されても男の薄ら笑いは消えない。それどころか嘲笑うかのように口許を吊り上げた。
「そう怖い顔しなさんな。せっかくの別嬪が台無しだぜ。ほれっ 俺は新入りを連れて来ただけだ」
 茶化すように話す男の背後から一人の少年がおずおずと姿を現した。髪も瞳も銀色の儚げな十歳前後の少年だった。
 無駄のない男の筋肉質な体躯。ちりちりと針で刺すような刺激を肌で感じながら、男は高姿勢で構え続けている。戦闘課総監という威厳を感じるには、充分な覇気を男は備えていた。
「華艶、挨拶しろ。こないだ遠目から見かけただろ? こいつが芳凛だ」
 男に背中をぽんっと押し出され、華艶がおぼつかない足元で芳凛に近づいた。
 芳凛は華艶へと目を落とす。体に合う服が用意できなかったのだろうか。少年は大人用の水色のパーカーを着せられていた。硝子細工を思わせる瞳が、何の感情も持たない人形の目を彷彿させる。

 芳凛が少年の目を覗こうと首を傾げた瞬間だ。

 芳凛と華艶の前に漆黒の闇が影の如く躍り出た。

「おいおいッ! こりゃあ、また大層な奴がお出ましだな!」

 男が驚いたように大袈裟に声を上げた。
 立ちはだかるその影は、芳凛を守護する者だ。

 黒布が呼吸するように揺らぐと、まるで彼女を隠すように広範囲に伸びた。これは結界だ。芳凛は黒い箱に閉じ込められる形になった。
 すると、男が冷やかすようにひゅっと口笛を吹いた。

 黒い布を裂く切れ長の金色の双眸が刻まれる。

 鋭い眼光が華艶を敵視するその様は猛虎さながらだ。黒い影の威迫に圧され、思わず華艶が後退した。
「――久しぶりじゃないか……ザイド」
 どうやら知り合いのようだ。少年は不思議そうにザイドをしげしげと見ていた。
「………黙れ、大樹。貴様に呼ばせる名などない」
 怒りを含ませた語気だった。
 邪険な双眸で華艶を見下ろしている。放たれる気はどす黒く澱んだものだ。そしてぞっとするような声音で警告した。
「下がれ小僧……」
 ザイドは気を高め華艶に威嚇していた。その様をさも面白げに大樹がくつくつと喉を鳴らして笑う。
「お前は相変わらずの親ばかだな。いいかげん子離れしろよ。なぁ芳凛?」
 返事はない。ザイドの結界に包まれて姿は見えずとも声は届いているはずだが。
「こんなガキ一人に警戒態勢をとる必要はないだろうよ。それとも、パパの背中に隠れるほど俺が怖いのか、ん?」
 大樹の挑発的な態度はいつものことだ。人を小ばかにするところも、横行な振る舞いも、出会った頃から何一つ変わっていない。
「芳凛。聞こえてんだろ? 返事をしろよ」 
<――構うな、芳姫>
 だが、芳凛は思いがけない命令をした。
「……お前はやっぱり利口な奴だよ」
 黒い影が薄霧のように霞んで消えていく。顕現した凄艶な芳凛の姿に大樹が嬉々として目を細め、一瞬で芳凛の至近距離に足を踏み入れる。決して低くはない芳凛の身丈を、頭一つ分は軽く上回る長身の大樹は身を屈めた。
「――…」
 彼女の耳元で何か囁こうとした時だった。

「こんな所で何をしているんです?」
 突然掛けられた声に大樹が振り返った。
「――――は……ッ! とんだお邪魔虫の登場だ……」
 皮肉めいた微笑を口許に葎がさらりと言いのける。 
「人を呼びつけておいてよく言いますね―――私に背後を取られるとは、とうとう耄碌もうろくしましたか? 戦闘課総監の名が泣きますよ、大樹総監」
「ッうるせーなぁ。わざわざお前を指名してやったんだ、有難く思えよ」
 横暴な物言いに葎があからさまに顔をしかめた。
「頼んだ覚えはないですよ。それに補佐官も同行させず何ですか。だから迷子になるんですよ。私は貴方と違って暇人じゃないんですよ?」 
 葎の話し方は上官に敬意を払っているとは思えないものだ。大樹はばつが悪い顔をするものの不快ではないようだ。
 葎が芳凛を一瞥する。表情からは読み取れない感情を葎は見抜いた。そして、
(ザイドが抑えているのか…)
  空気の乱れで一悶着あった事を察した。
「芳凛。会議場所が第五に変更だ。先に行け。私は総監と少し話がある」
 物分りよくこくりと頷く芳凛を見て、大樹が微苦笑を浮かべた。
「相変わらずお前の言う事は素直に聞くんだな」 
「当然でしょう。私は彼女の上官ですから」
「……俺も立派に上官なんだけどな」
 と大樹はぼやいた。
 芳凛が立ち去り気配が遠退いたのを確認すると、葎は話を切り出す。
「この子ですか?」
 おもむろに華艶へ目を落とす。

「そうだ」

 第一印象はそのままに幼すぎると思った。年齢の差別がない門番の世界とはいえ、この年で教員とは考え難い。
「名は?」
「…華艶…」
 はっきりとした口調で返す少年だったが、葎は思慮深い面持ちだった。
「言っとくが生徒じゃねーぞ」
 間に割って入った大樹の言葉が、葎により深く疑念を抱かせる。
「経験は?」
「ない」
「……」
 葎は無言にならざる得なかった。実務経験なしの教員は、過去一人としていないのだ。
 生徒より年若い教員は居るが、未経験者となると話は別だ。生徒たちに善からぬ誤解を植え付け兼ねない。ここはやはり、と覚悟を決めた葎の口を塞ぐように大樹が言った。
「もう遅い」
 誇らしげな態度に、葎は嘆息した。
「……登録済みって事ですか?」
「俺様に抜かりはない」
 鼻持ちならない奴だ。通常というより筋道を考えれば、受け入れ先の教育課の承認がいるはずだが、この男は自分の権力を最大限悪用して特例を発行したのだ。まったく厭きれてものが言えない。
「……わかりました」
 葎はあっさりと受理した。言い争っても勝ち目はないと判断したのだ。
  葎は華艶と同じ目線に腰を落とすと、精一杯優しい口調で話掛けた。
「私は葎だ。これから君は私が預かるよ、いいかい華艶。今、この瞬間から君に命令を下すのは私だ」
 返事に当惑した様子の華艶だったが、小さな声で「はい」と答えた。葎がにっこり笑いかけ頭を撫でる。
「よし! いい子だ。――ということで、よろしくお願いします」
 これで大樹の命令は聞く必要はないと根回しできた。どこまで通用するかは不確かではあるが、今出来ることはこれくらいしかない。大樹は悠然とした態度で不貞腐れていた。
「そんなに俺は信用ないかね」 
「ご自分の胸に手を当てて、思い出されたらわかりますよ」
 そう言われ、わざと胸に手を当て考え込む振りをする大樹。

 そして「身に覚えがない」と首を傾げた。
 
 
 華艶を隣に葎が通路をゆく。
 迷う事無く突き進む足取りを見て、やはり慣れか? と大樹は不思議そうに思い葎の後ろを歩いた。

 これじゃあ、どっちが上官だかわからない。ちょっと不様だ。こんな所補佐官に見つかったらただでは済まないだろう。大樹は不明な悪寒を背筋に感じ、ぶるっと身震いした。
「しかしまぁ……お偉いさん方が煙たがるはずだな。ちったぁ可愛いところも見せろよ」
 戦闘課での元上官でもある複雑な立場から、愛弟子に忠告とも取れる言葉を投げ掛けた。だが大樹の忠言は、葎の背中まで届かず足元を転がるだけだった。
「大きなお世話ですよ。あいにく、何もせず踏ん反り返っている輩にする胡麻は持ち合わせていませんので」 
 あなたを含めて、と付け加えた。本当に可愛げがない。
「……お前、早死にするタイプだな」
「そのままお返ししますよ。私は貴方と違って覚えのない恨みを買ったことは一度もありませんし」
 昔はもう少し可愛かったのに、と大樹が鼻にしわを寄せた。

 口論して勝てる相手ではない。大樹は胸を張った。
「ばぁーか! 俺を超えようなんざ百年早ぇーよっ」
 開き直りは大樹の得意技だ。それは実力を認められているからこそ許される権威ではあるが。

 しかし、葎はさらに上乗せして返してくるから始末が悪かった。
「誰も褒めてませんよ。あっ! そうそう」
 気が付けば第五会議室前に辿り着いていた。葎は扉に手を掛けると大樹を顧みた。
「補佐官殿をお呼びしましたので、帰り道の心配は要りませんよ」
 葎は滅多に見せない、とびっきりの笑顔を大樹に見せた。見る見るうちに大樹の顔が青ざめていく。
「ちょ、っちょちょちょっと待てっ!!」
 大樹が悲痛な声をあげたがもう時はすでに遅しだ。
「ははは。礼なら無用です。どうぞお気遣いなく」 
 したり顔を完璧に隠し、爽やかな好青年の笑顔は絶妙だった。
 しどろもどろになる大樹を無視して扉は勢いよく開かれる。
 その先には戦闘課総監補佐官が仁王立ちをして待ち構えていた。 
  
 

糸倉万葉(いとくらかずは)
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