小説 「直人伝」 ~其の弐~

小説 「直人伝」 其の弐 
             作 若月 明峰

第10章 其の弐 まえがき

本作は、前作の 小説「直人伝」の続編です。
主人公の「菅原直人」が思春期を迎え、心身の成長と共に、
既得権益の権化達との序盤期の攻防戦が始まります。
前作をお読みになってから、本編をお楽しみいただく事をお薦め致します。

 

第11章 表彰状と左遷

「ひみつきち」での土佐犬退治から3日が過ぎていた。
土佐犬は隣町の某屋敷の飼い犬で、飼い主が散歩を怠っていたのが原因で
檻から逃げ出したらしい。
「いいものが届いているわよ。」
直人が学校から帰ってくると、待っていたかのように、
母親の翔子が四角く平べったい風呂敷包みを直人に手渡した。
「わあ、何だろう。」早速風呂敷を広げる直人。
キョロは「ニャオン」と一声発してから、直人の横に歩み寄って、
足を畳んで伏せた上体で様子を見ている。
風呂敷包みから姿を現したしたものは、
茶色の本木目の立派な額縁に入った表彰状だった。
表 彰 状    菅原 直人 殿
あなたは
昭和32年11月24日
狂犬による殺傷未遂事件に際し、冷静沈着かつ勇敢な対応により
狂犬確保に積極的に協力されました。
これは他の模範でありますので、
ここに記念品を贈りこれを表彰いたします。
昭和32年11月26日 宇部警察署長

「やったあ。嬉しいな。でも、これは、キョロや大人を呼びにいった
友達みんなで協力した結果だから、僕だけじゃなく皆で分かち合わなきゃ。」
表彰状を額縁から取り出し、宛名の「菅原直人殿」の下に
キョロと仲間5人と佳ちゃんの名前を、鉛筆で書き連ねた。
「ところでここに記念品と書いてあるけど、何か貰えるの。
ベッコアメやチョコレートだと嬉しいな。」
「記念品っていうのはね、この額縁なの。」
翔子が洗濯物を干しながら応えた。
「今回はキョロの大手柄だったからな。」
キョロを太陽に掲げるように抱き上げる直人。
表彰状は、仲間5人と佳ちゃんの家を回覧した後、
菅原家の居間に飾られることになった。
この時、既に「事」は起こっていた。 
この栄誉が悲惨な異変を引き起こすとは、
直人達は夢にも思っていなかった。

数日後、直人が異変に気づいた。父親の寿雄の様子がおかしい。
顔から覇気が消えて、食欲が無くなっていた。
仕事から帰ってきた時も、
朝御飯を食べている時も、
「いつもの父親」らしくない。
ぼうっとして、ご飯をあまり食べない父。
「父ちゃん、からだの具合が悪いの?」と訊いても
「大丈夫、しんぺーするな。」と返す父。
母親の翔子は何か事情を知っているようだが、
ばれないように隠している。
そのうちに、
居間に飾ってある表彰状を隠すように風呂敷がかけられた。
理由は、「太陽の西日反射してまぶしいから」というが、
特にそんなことは無かった。
直人は想い余って、姉の真子に相談した。
「おかしいよ、父ちゃんも母ちゃんも。」
「直人、姉ちゃんも、おかしいと思っていたのよ。
そして、これは、この菅原家だけじゃない。
この社宅に住む、お父さん達みんなの様子がおかしいのよ。」
「どういう事?」
「みんな、会社に働きに行っていないみたい。
今までなら、朝、宇部苛曹工業目指して、
自転車で走っていったのに、散り散りに別の所を目指しているように、
別の道を走っていくの。
それに、すごく嫌そうな顔をして。」
直人はその夜、布団に入ってから、どうしたら良いのかと、
想いを巡らせていた。
翌朝、「早めに学校にいくから」といって、
早々に支度をして飛び出す直人。それを真子が追うように出ていく。
直人が社宅から続く一本道を通って、お寺のある十字路で辺りを見回す。
後ろから真子とキョロが走ってくる。
「直人、やっぱりそうね。」
「父ちゃん、どこにいくのか気になるんだ。」
キョロはニャオンと鳴き、尻尾を立てて直人の方を見ている。
2人は顔を見合わせて頷いた。
丁度、お寺の敷地の墓地から父親の寿雄が自転車に乗って出勤していく
十字路が見える。
墓地はちょっとした藪になっていて、
十字路からは直人達が見えない。
墓と塔婆と藪に紛れて、十字路を見張る2人。
父にバレないように後を付けて行く思惑だった。
キョロが墓石の天辺に上り、何やら上のほうをしきりに見ている。
すると、墓地に生えている大きなクヌギの木から
目をクリクリさせた茶色のリスのような動物が四肢を広げて滑空していく。
モモンガだった。
今まで小さな点だったキョロの瞳が真っ黒に塗り変わっていく。
狩の始まりだ。墓石の天辺から大きく跳び上がって、
モモンガの着地点を見定めて一気に走り出すキョロ。
藪を書き分けて獲物をめがけて突っ走る三毛猫の姿は、
ジャングルの虎を髣髴とさせる。
モモンガを追って、更に墓地の奥の藪に消えていくキョロ。
そうこうしている間に雨が降り始めた。
雨の中、ゆっくりと十字路を寿雄の自転車が走り抜けていく。
十字路に飛び出し、父が後ろを振り返らないことを祈って、
走って付けて行く直人と真子。
自転車を追う、直人と真子に雨が降り注ぐ。
それでも見失わないように、とにかく一定の距離を保って走り追いかける。
案の定、父の自転車は、宇部苛曹工業とは逆方向に向かっている。
隣町の琴芝町に入り、「畠山製作所」と書かれた
民家と同じくらいの大きさの古びた小さな工場の前で自転車は停まった。
「ふーっ」と大きなため息を吐き、
工場の入り口の扉をギーッと開けて入っていく父。
それを不安げに、ずぶ濡れになりながら物陰から見守る直人と真子。
工場は鉄筋平屋建てで、あちこちにおおきなヒビがいくつも入っている。
工場の中からはカーン、カン、カーン、と金属を叩く音が
合唱のように響いてくる。
そして工場の隣には大きな肥溜めがあり、
糞尿の発酵した強烈なアンモニア臭が漂っている。
直人と真子は鼻をつまみながら、恐る恐る工場の窓から中を覗く。
そしてその中の父の姿に驚いた。
「おい、新入り、地金をちゃんと叩け。
ナマクラじゃ商品にならないんだよ。コラア!」と怒声が飛ぶ。
怒声の主は、寿雄より20歳前後も若い男で、
怒声を浴びせられているのは、寿雄だった。
父は従業員8人の小さい工場で新入りとして働いているらしい。 
父は宇部苛曹工業で部下40人を率いる技術部長のはず。
なぜこんな惨めなことになったのだろうか。
直人は、「これが悪い夢であって欲しい」としきりに考えたが、
降りしきる冷たい雨の触覚、強烈な肥溜めの臭いを感じる嗅覚から、
夢ではなく現実であることを受け入れた。
真子も同じだった。
今にも泣き出しそうな顔をして真子が小声で言った。
「これを見たことは直人と姉ちゃんだけの秘密ね。」
「うん。でも・・・」声を詰まらせる直人。
「きっと大人の事情なのよ。しばらくすれば元に戻ると信じて、
今は誰にも内緒にしとこうね。」
直人と真子はそっと「畠山製作所」の窓から離れると、
それぞれ、神原小学校、東新中学校目指して
登校の途に着いた。1限目の授業には完全に遅刻だった。
ずぶ濡れの姿ですっかり意気消沈して登校する2人。
ザーザーと容赦なく雨は降り注いでいた。
キョロはあともう一歩というところで、モモンガに逃げられ、
泥だらけになって社宅に帰ってきた。
「まあまあ、キョロちゃん、これじゃあ二毛猫じゃないの。」
泥で三毛の白の部分が全部茶に染まり、
黒と茶のキョロを翔子が雑巾で拭いている。
その日の夕方、直人も真子もしょんぼりして学校から帰ってきた。
その夜、直人は父が心配で眠れなかった。
「なぜ、そうなるんだろう、なぜ、なぜ・・・」
雨粒がトタンを叩く音だけが右の耳から入り、思考の中に入り込んでから、
すっと左の耳に抜けていくような感覚だった。
直人の中では、この「雨の日の出来事」がトラウマになり、
ずっと忘れることができなかった。


第12章 情報屋すみこねえ

あの「雨の日」から3日後、
日曜日の朝、直人が目を覚ますと、ガサガサ、ゴロゴロという音が
菅原家の中に響いている。
例の「ひみつきち」から冷暗所保管していた漬物樽を社宅の各々の家の中に
移動させているようだった。
直人が玄関口まで出て行くと、玄関には翔子が漬けた漬物樽が並べられていた。
「母ちゃん、何で樽を運び出してるの?」
「防空壕はもう、戦争が終わったから使わないし、そのままにしておくと危険だから
埋めちゃうのよ。秘密基地や漬物の保存には重宝してたんだけどね。」
直人達が話しているところに、
社宅に向かって何やらゴーゴ-という音がゆっくり近づいてくる。
トラックだった。
荷台には2メートル程度に成長した松の木が括り付けられている。
寿雄と社宅仲間の男達4人がスコップで防空壕の竪穴を崩す。
今まで直人達が遊んだ「ひみつきち」
はぺしゃんこになって、地面の凹みになり、
2度とチャンバラやままごとで遊ぶことはできない。
直人の仲間達も社宅の窓から顔を出して見ている。
「ああーーっオレ達のひみつきちがあっ。」
社宅の菅原家の隣にある吉岡家の窓から、
留吉という直人より1年下の遊び仲間が愕然とした声を放った。
やがて、「せーの、ヨイショ!」の掛け声と共に、
トラックから松の木が降ろされて、
防空壕の後の凹みにドスンと鎮座した。
根っこの部分に周りの土を敷き詰めて移植は完了した。
寿雄と男達は一息ついて、翔子の入れたお茶を飲みながら、額の汗を拭っていた。
「ひみつきち」と書かれたベニヤ板は、物寂しそうに松の木に立てかけられている。
「キョロ、散歩に行くぞ。」
直人は空しさが込み上げて、居ても立っても居られなくなり、
家を飛び出した。 何気なく歩いていると、鶯神社の鳥居が目に止まった。
「うぐいす神社の神様が何とかしてくれるかも。」
境内を通って神殿の前に進む直人。
紅白に縒り合わされた紐を引っ張り、赤茶けた鈴を鳴らすと、
カラーンカラーンカラーンと
澄んだ音色が境内に響き渡る。
「神様、僕お金ないけど、と、父ちゃんが・・・頼みます。」
両手を合わせてお祈りする直人。
キョロは賽銭箱の上に載って、直人を見ている。
お参りを終えて、神殿の石垣作りの基礎の上に座って、
ぼうっと空を眺めていると、
突然視界に女性の顔が割って入った。
助産婦の白石澄子だった。
「あら、直人君、何か悩み事? お参りなんかしちゃって。」
「産婆・・・じゃなかった、すみこねえさん、見ていたの?」
「まあね。大人の事情なら、相談に乗るわよ。」
白石はセミロングの髪を手櫛で整えながら応えた。
「実は・・・」直人は土佐犬撃退と表彰状、父の職場変更、防空壕の埋め立ての
一連のイベントを順を追って説明した。
「確かに何かがありそうね。力になれるかもしれないわ。
私は助産婦をしているから、
大勢の人からいろいろと情報は入ってくるわよ。」
白石がニコリと笑みを浮かべ、直人の隣に座ると、
キョロが近寄ってきて、白石の膝の上で丸くなり、
「ニャオン」と鳴いて直人の方を見ている。
「あらあら、キョロちゃんはやっぱり雄猫なのね。
綺麗なお姉さんのところもいいみたい。」
キョロの額と顎をゆっくりと撫でる白石。
「すみこねえさん、お願い。何とかしてよ。」
「わかった。直人君、でもね、タダというわけにはいかないかな。
報酬が必要なの。」
「ぼくは、お金なんか持っていない。
何か出せるものといったら・・・・」
一瞬、直人の視線が、ゴム紐で首から下げている
真鍮のブレスレットに定まった。
直人の身体と共鳴しあうように、鈍く光り輝くブレスレット。
「それは、直人君の身体の一部のようなものだから、
受け取れないわ。
それより、私は木イチゴが好物なの。
菖蒲川の土手沿いに木イチゴがいっぱいあるんだけど、
摘んできてくれたら、それを報酬にしようかな。」
「うんうん。早速摘みに行ってくるよ。」
「そこにはハチがうようよ飛び回っているから気をつけてね。」
白石はハチが大の苦手で、
大好物の木イチゴを摘みにいけないジレンマがあった。
「キョロ、菖蒲川にいくぞ。」
直人は、立ち上がると、境内を駆けていく。
キョロは白石の膝から立ち上がり、ガーッと大あくびと伸びを一緒にしてから、
遅れて直人の後をついて行く。
直人は家から木イチゴを運ぶ竹ザルを調達して菖蒲川に向かった。
田圃の真ん中の一本道を
小さな土手に向かって走っていく。
土手はやがて大きくなり、直人の背丈の4倍くらいになった。
土手をよじ登ると、2つ土手の間に大きな水の流れがある。
菖蒲川だ。
早速土手の木イチゴを探す。
土手は茅と胡桃の低木などが鬱蒼と生い茂り、ジャングルのようだった。
足元にはチクチクしたつる状の雑草がびっしりと生えていて、
ゆく手を阻んだ。
下草や茅を掻き分け、ジャングルの中で木イチゴを探す直人とキョロ。
見つけた。橙色に熟した木イチゴだった。
甘い香りが周囲に漂ってた。木イチゴの白い花にはミツバチや
ハナバチなどが花粉を目当てに寄ってきていたが、
おとなしいハチなので危険は無い。
果実の部分だけを丁寧に摘み取る直人。
キョロは肉食なので木イチゴには興味がなく、
藪の中に獲物がいないか探している。
摘み取った橙色の木イチゴが竹ザル半分くらいになったところで、
直人は顔を上げる。
土手の数十メートル先に大きな四角い木組みがある。
「あれは何だろう。」
直人は、四角い木組みまで歩み寄った。
木組みは10メートル四方で風化は進んでいるものの
しっかりとした作りで立っていた。
木組みの地面から更に濃厚な甘い香りが漂ってくる。
赤ん坊の握り拳ほどもある大きく濃い紫色に熟した木イチゴだった。
1粒摘んで口に頬張ると、あの時食べたベッコアメより
強烈な甘さと木イチゴ独特の芳醇なコクと酸味が
口いっぱいに広がった。
「こ、これは、こんなものがあるなんて。」
濃い紫色の木イチゴを丁寧に摘んでいく直人。
少し経つと「ブオォーーンブオォーン」
という大きく鈍い羽音とオレンジ色と黒の縞模様のある5センチくらいの物体が
周囲を飛び交っていることに気づいた。
スズメバチだった。
先ほどの温和なミツバチとは違い、攻撃的なのはすぐに気づいた。
カチカチと顎を鳴らす音が聞こえる。
どうやらスズメバチの縄張りに入ってしまったようだ。
4、5匹のハチが直人とキョロを警戒するようにブンブン飛び交っている。
「キョロ、このハチは危険だから下がろう。」
ゆっくりとハチを刺激しないように立ち去ろうとする直人。
しかしキョロは本能的にハチを獲物と認識して、
タイミングを合わせて跳び上がり、ネコパンチでハチを叩き落した。
「しまった。」そう思った時には、もう遅かった。
木組みの穴から「ブオオオオ」とスズメバチの大群が飛び出してくる。
直人もキョロも仰天する。
「キョロ、逃げろ。」直人は身を低くして竹ザルを抱え、
全力で土手を走って逃げる。キョロも後を追って走ってくる。
四角い木組が遠くに見えるところまで来て、後ろを振り向く直人。
ハチは追ってこない。
何とか刺されずに振り切ったようだ。キョロも無事についてくる。
戦利品の木イチゴを竹ザルごと井戸水で洗う。
木イチゴに付いた水滴が日差しでキラキラ光り、
橙と深紫の宝石箱のようだった。 早速、白石の家に持っていく直人。
「すみこねえさん。約束どおり菖蒲川の土手から木イチゴを摘んできたよ。」
「ありがとう。素早い行動、さすがは直人君ね。私はこれが大好物なのよ。」
ニッコリ微笑む白石。
「ところでこの紫色の立派な木イチゴはどこで見つけたの?
普通はこんなに大きく成長しないんだけど。」
「土手の大きな木組みの下に生えていたんだ。」
「やっぱりそうね。」「やっぱりって?」
「あそこはね。農村部の人たちの火葬場だったの。
四角い木組みは火葬場の目印なの。」
「火葬場って?」
「人や家畜の牛馬が亡くなった時に、燃やして骨にするところよ。
火葬場の土には燃やした人や家畜の栄養分がギュッと詰まっているから、
そこで育った作物はすごく出来栄えがいいんだって。」
「ふーん。美味しいからスズメバチもあそこに巣くっているのかなあ。
実は、キョロがハチを怒らせて、逃げ帰ってきたんだ。」
「もう、11月も終わりだから、スズメバチの活動期は終わっているのに、変ねえ。
でもね。直人君、そんな危ない事しないでね。」
白石は直人の頭を軽く撫でると、
直人が持ってきた竹ザルいっぱいの木イチゴを半分ほど、木皿に移した。
「ありがとう。でも全部はいただけないわ。私の報酬はこれだけ。
あとは持って帰って社宅のみんなで分けなよ。」
竹ザル半分の木イチゴを受け取る直人。
「さっきの相談は、10日くらいで策を見つけるから、
期待しててね。
社宅のお父さん達が揃ってが意気消沈じゃたまらないものね。」
白石がウインクする。
「すみこねえさん、お願い。お願い。」
そう挨拶して直人は白石の家を後にした。
その夜、直人が持ち帰った木イチゴは翔子が
社宅の家々におすそ分けをして
皆が舌鼓を打った。
甘酸っぱい木イチゴを噛み締め、明日に希望をつなぐ
直人であった。


第13章 ハケンって何だ

白石と木イチゴの一件から、9日が過ぎた。
朝、相変わらず渋い面で出勤する父を、
気づかぬ振りをして、身支度を整えて
明るく登校する直人。
師走の冷たい風が頬に染みる。
学校の6限目の授業が終わり、神原小学校の校門を出て
トコトコ歩いていく。「おーい、直人、釣り行こうぜ、釣り。」
同級生の茂と昭仁が誘ってきた。
「ごめーん。今日は、姉ちゃんと約束があるんだ。」
白石から連絡は無かったが、待ちきれずに白石の家を訪ねる直人。
「すみこねえさん。 情報はどう?」
「あら、直人君、いらっしゃい。 丁度よかったわ。
例の件、いろいろ調べてみて解ったわよ。」
白石は直人を玄関から居間に案内すると、ちゃぶ台に2人分のお茶を入れ、
年季の入った帳面と鉛筆を取り出した。
開かれた帳面には鉛筆でびっしりと走り書きがしてある。
まず、直人君がやっつけた土佐犬、
あれは、隣の東新川町の襟裳という金持ちの家で飼われている
犬なの。
で、どうやら闘犬用に育てていた大型犬の何頭かのうちの一頭が
逃げ出しらしいの。
逃げる理由というのは、飼い主が散歩しなかったり手入を怠っているといった
ストレスが、相場ね。
そしてそういう犬は弱い者を襲おうとするからね。」
「だから女の子の佳ちゃんを狙ったんだ。」
白石が続けた。
「警察から犬を引き渡された襟裳は、
管理が悪くて犬が危険な事をしたのを詫びるどころか、
闘犬用に出荷する犬が鼻と延髄をやられて売りモンにならなくなった、
どうしてくれるかと
逆ギレしたらしいの。 酷い奴ね。
で、悪いことに、襟裳は宇部苛曹の大株主、
つまり直人君のお父さんの会社のいろいろな事を
決める大きな権力があるの。 
そして襟裳は、警察から犬を売りモンにならなくなった捕り物の現場が
直人君達の住む社宅だったことや、直人君が表彰されたことを突き止めて、
おそらく
腹いせに、直人君のお父さんや、社宅の皆のお父さん達を
別の会社に派遣するように
自分勝手に決めちゃったの。
これが真相よ。
あの土佐犬は売りに出すと200万円くらいするらしいね。
お金だけに固執して犬を粗雑に扱うから凶暴になったりするのよ。
そして犬は売れなくなっからすぐ殺処分したらしいよ。」
「すごい、すみこねえさんって、何でも調べられるんだ。」
「まあね。 助産婦をしていると、
助産婦同士の繋がりや出産した家でいろいろ情報が貰えるからね。」
「で、ハケンってどういう事なの?」
「そうね。会社間の人の貸し借りだと思えばいいかな。
直人君のお父さん達は宇部苛曹からお給料は
でているけど、
宇部苛曹は畠山製作所などにお金を払って貸している。
当然借りたほうは貸し賃を払っているから、都合よく使う。
部長や課長という役職も宇部苛曹の中
でしか使えないから、貸し出し先の会社では一番下っ端になるの。」
「そんなの、父ちゃんだって、
社宅の仲間の父ちゃん達だって、嫌に決まってる。
それに、僕達は表彰されるくらい、よい事をしたんだ。
佳ちゃんが咬まれて怪我しないように守った。
悪いのは、エリモとかいう人と、クソ犬なんだよっ。」
ちゃぶ台に拳を叩きつける直人。
湯飲みのお茶が共振して中心から淵に向かって波紋が広がっていく。
「で、元に戻す方法はないの?」
「そうねえ。・・・」
その時、チリーンと玄関の呼び鈴が鳴った。
来客のようだった。
玄関には作業服を着てゲートルを巻いた鋭い目つきの若い男が立っていた。
「ご無沙汰しておりました。
白石秀男の部下だった守山修一です。お線香を上げに参りました。」
「あーら、守山さん、いらっしゃい。
主人も喜んでくれると思うわ。」
白石が居間の奥のふすまを開けると、小ぢんまりした仏壇が現れ、
中央にある額縁には飛行服姿の凛々しい若者が敬礼している写真が入り、
白石秀男と氏名が綴られている。
血はつながっていないが、ほんの少し目の辺りが直人に似ている。
守山がポケットから数珠を取り出し、線香に火をつける。
お香の重厚な香りと共に
チーンと澄んだ御鈴の音が居間に響き渡る。
両手を合わせて仏壇にお参りする守山。
お参りが終わると、直人の隣に座り、
白石が淹れたお茶をゴクリと飲み干す守山。
守山は直人の顔をじっと見て言った。「奥さん、まさか、この男の子・・・」
「私の子? えへへ。ちょと残念ね。菅原直人君といって、
私が助産で取り上げた男の子。それだけ。」
「主人の秀男とは目の辺りがちょっと似てるけどね。」
「あの時を思い出します。」守山はそう言って、
鞄から片手に載る程の小型のアルバムを取り出し、
パラパラとめくって1枚の写真が貼ってあるページを広げた。
日の丸のついた三座式の攻撃機の搭乗席から、
3人の男が身を乗り出して互いの右腕の拳をつき合わせて、
こちらを向いている写真だった。
白石の夫、秀男といわれている男が先頭の操縦席で、
守山は後席の機銃射手席から身を乗り出している。
額に赤い鉢巻を締め、両肩に日の丸の刺繍を背負い、
緊張した3人の面持ちには、僅かだが笑みがうかんでいる。
直人はあの七夕の時の
「日本に住むみんなを護る為に、飛行機に乗って戦いに行って、もう帰ってこない」
白石の話と、髭を生やした大男、
山田の所で解体された零戦を思い出した。
「これって、山田のおじちゃんの所にあった零っていう
飛行機に似てるけど。」直人が
写真の攻撃機を指して言うと、すぐに守山が反応した。
「これは、雷撃機といって、同じ日本を護る為の飛行機でも
役割が違うんだ。
ここに魚雷という水中爆弾を積んで、空から狙いを付けて発射して、
敵の船に命中させて沈めるのが役割なんだ。」
山田が得意げに雷撃機の胴体の下に付いている魚雷を指して言った。
「敵って誰?」
「鬼畜米英」守山と白石がハモるように揃って言った。
「それで敵から日本を護り切れたの?」
守山と白石の心にグサリと突き刺さるような酷な質問だった。
この時、直人は未だ学校の歴史の授業で大東亜戦争を習っていなかった。
「負けたんだよ。護れなかった。
俺や秀男さんも雷撃隊のみんなも海軍も陸軍も必死で戦った。
ここで護らなければ、米英に占領され日本に住むみんながどうなるか、
男の人は奴隷にされたり殺されたり、
女の人はいやらしい事をされたりして酷い目に遭う、
そんなことは絶対にさせないと誓いを立ててな。」
「あちこちに米軍がいるけど、本当にそんな酷いことになったの?
いやらしい事というのは、
日の丸を燃やされたりすること?」
「いやらしい事というのはその・・・その・・・
その通り、国旗を燃やされたりする事なの。
いいから、子供は黙ってなさい。」
頬を赤らめる白石。
「僕、ちょっとお手洗い。」
立ち上がり、首から下げた真鍮のブレスレットを揺らしながら用を足しに行く直人。
直人が席を外したのを見計らうと、
「助産のとき、母親から取り上げた瞬間に判ったの。
直人君、普通の男の赤ん坊じゃない。
特別な力を持って生まれた人だって。」
と白石は守山に小声でそっと伝えた。
「で、直人君が、今なぜ私の家に寄っているのかというと・・・」
直人の相談事のいきさつを伝え終わると、
丁度、直人がお手洗いから戻ってきた。
「直人君、お父さん達を元の会社の役職に戻す事、まだ話の途中だったね。
私は知恵を絞る、ここに来た守山さんも知恵を出してくれると言っているし、
当然、直人君も知恵を出すのよ。」
「わかった。3人で作戦を立てるのかな。」
白石と守山は顔を見合わせ、笑みを浮かべてゆっくりと頷く。
「誓いの挨拶は俺達、雷撃隊のコレにしよう。」
守山は右手に握り拳を作り、ゆっくりと肩の高さまで上げて
前後に拳を揺らす。
「敬礼じゃ味気ないし、連帯感が見えないから、
これにしようといって、
肩の高さで、お互いに拳を突き合わせて
健闘を讃えたり挨拶代わりに使ったんだ。」
白石も直人も守山の真似をして、右手に握り拳を作り、
ゆっくりと肩の高さまで上げて、前後に拳を揺らす。
3人の拳がちゃぶ台の真上で正三角形を作り、
パチッと拳同士を突き合わせた音が居間に響いた。
「この場はこれで、解散ね。
作戦は順次、発表していくから、よろしくねっ。」
「すみこねえさん、お邪魔しました。」
先に直人が玄関から家に向かって飛び出していった。


第14章 直人に言えない凄惨

直人を玄関口で見送った白石が居間に戻ってくると、
真顔でじっと見つめる守山がそこに居た。
白石は、守山が単に夫の霊前にお参りに来ただけでなく、
何か決意を固めている事に
概ね察しはついていた。
「白石さん、今日来たのは、秀男さんの真実を打ち明ける為です。
雷撃機で出撃したまま帰還しなかったというのは本当です。 
でも、・・・でも、実は自分はその機に同乗していたんです。」
「いいよ、続けて。」
守山は白石秀男が帰還しなかった
12年前の5月8日、あの珊瑚海海戦を回想していた。
どこまでも広がる蒼い水平線、空母<翔鶴>の飛行甲板から、
800キロの大きな魚雷を抱いた97式艦上攻撃機
4機が出撃する。目的は米軍機動部隊の殲滅だった。
その中の1機には、操縦士白石、後部機銃射手に守山の2名が搭乗していた。
4機は編隊を組んで米軍機動部隊の航行する海域を目指す。
巨大な鉛色の積乱雲を抜けると、
多数の駆逐艦・巡洋艦に守られた空母2隻が見えた。
先頭の隊長機から無線が入る。
「前方の敵機動部隊を攻撃せよ」
「いくぞ。」
守山が操縦桿を前に倒して降下し低空から敵艦隊に接近する。
艦隊の砲座が一斉に閃光を放ったのが見えた。
すぐに、
砂利をスコップでバラ蒔いた様に、
雨あられの砲弾が雷撃隊に浴びせられる。
弾幕が強力でなかなか艦隊に接近できない中、
前方の雷撃機がうまく砲弾を避けて好位置にいる。
うまくやれば、駆逐艦をかわして本命の空母に魚雷を叩き込めそうだ。
「前方の機を援護して雷撃を成功させる。
あの駆逐艦の対空機銃を制圧する。
機銃、よろしく」
白石の作戦に「了解。」と応える守山。
前機に「援護スル」の合図を送ると高度を上げて、
囮となって、駆逐艦からの火線を集めていく。
白石の操縦は絶妙で、火線が後手後手に回る中、
守山が後部機銃で駆逐艦の対空機銃を次々に破壊していく。
攻撃が大幅に減った前機は駆逐艦をすりぬけて、
敵空母が魚雷の照準に入り、魚雷を投下する。
ドボンと着水する魚雷。すぐに離脱しようとする前機だが、
空母の対空弾に主翼を貫かれて海上に落下していく。
しかし、魚雷は確実に空母の脇腹に突き刺さった。
ドゴーンと金属同士が激しく衝突した大音響と共に
30メートルもの水柱が上がる。
内部で火災が起こっているのか空母が黒煙を吹き始めた。
「魚雷命中だ。」しかし、喜びもつかの間だった。
「機銃、弾切れ。」守山が残念そうに言った。
魚雷命中で別の駆逐艦2隻も白石・守山の雷撃機を執拗に攻撃する。
「だめだ、かわせない。」白石が言ったと同時に
機にガツンガツンと大きな衝撃が走る。
エンジン、尾翼、そして搭乗席に食らった。
被弾の衝撃で風防がが吹き飛んでいく。
守山は大した怪我はなかった。
しかし、白石は胸を貫かれていたようだ。
風圧に乗った血飛沫が守山に容赦なく張り付く。
エンジンも火を噴き始めている。
「守山、心臓は大丈夫だが、肺をやられた。 俺もこの機も、もう帰還はできない。
しかし、お前はまだ戦える。脱出しろ。」
白石は既に声がかすれていた。
「何を言っているんだ。俺も一緒についていく。」
「いいか、お前は生き残って戦え。
帝國の為に、
お前や俺の家族の為に。
俺はこの機と共に最後の攻撃を試みる。」
「しかし・・・・」
守山は血と涙で白石の後ろ姿が滲んで見えた。 
「これは機長としての最後の命令だ。脱出して味方に拾って貰い再起を図れ。」
「了解。」
「靖国で会おう。」操縦席の白石が一瞬振り向いて言った。
それが、守山が聞いた白石の最後の言葉であり、突き合わせた最後の顔だった。
窓を開けて雷撃機から飛び降り、落下傘を開いて降下する守山。
白石の操縦する雷撃機は
被弾の損傷で魚雷を海中に投下して命中させる攻撃はもうできない。
砲弾の炸裂する中を敵空母に向けて突撃していく。
弾が胴体を貫き主翼をもぎ取っていく。
しかし、火達磨になった胴体と魚雷は敵空母の艦橋付近に突き刺さり、
800キロの魚雷が炸裂した。
閃光の後、バリーンという空気を裂くような音と共に艦橋は粉々に砕け散り、
飛行甲板の下から猛烈な炎と黒煙を噴き出す敵空母。
味方の雷撃機がとどめを刺すと、ゆっくり海中に沈んでいく。
水面に浮き、敬礼をして見守る守山。
空母と艦艇の半数を失った米軍機動部隊が敗走し戦闘は終わった。
そして守山は
浮いていた所を偶然味方の駆逐艦に発見され、<翔鶴>に戻った。
守山は一部始終を上官に報告し、戦闘中の脱出が不名誉にならないよう、
上官の配慮で機体が被弾した衝撃で
海上に弾き飛ばされたことになった。
守山は回想した事を全て、目の前に居る白石の妻、澄子に話した。
「秀男さんや守山さんたちが海で戦ってた時、
この宇部の内地も酷かったんだ。
米軍は艦載機で容赦なく攻撃をしてくる。
もう護る飛行機も高射砲もないところを
我が物顔で縦横無尽に飛び回って、
女子供を狙って機関銃を撃ってくる。
あれは確か10月だった。
少しでも収穫を増やそうと、学校の田圃で稲刈りをしていた
女子中学生達を米軍機が
狙い撃ち、みんな逃げる暇なんてなかったように、
黄金色の田圃は血で真っ赤に染まって
誰の身体か区別がつかないほどバラバラになった
肉の塊で埋め尽くされてた。
バラバラになった20人くらいの遺体を、
みんなで拾い集めて、繋ぎ合わせて、1人1人の身体に
戻してあげた。頭が真っ二つになっていた子も、
首がちぎれて、頭だけしか見つからない子も居た。
誰の腕なのか、足なのか、胴体なのか、
乳なのか、眼球なのか、心臓なのか、
胃なのか、腸なのか、肝臓なのか
脳みそなのか、正直判らなかった。
私含めて、最初は、みんな、泣いていたけど、
そのうち涙が出尽くして枯れて泣けなくなる。
まだ、10年ちょっとしか生きていないのに、
国の為に懸命に働いて生きているのに、
身体を機関銃でバラバラにされて一生を終えるなんて、
そんな理不尽なことがあっていいのかって思ってた。
そして、その血にまみれた稲穂を脱穀して、
みんなで米を焚いて食べたよ。
本土決戦の時には必ず仇を取るって誓い合った。」
「結局、大日本帝國は自衛の為の戦争で鬼畜米英に負けた。
国を護る為の空母も攻撃機も全部海に沈んで無くなった。」
「そして米国は帝國を占領して、自分達の都合のいいように、
歴史や文化や思想を捻じ曲げたり排除したりしているじゃない。」
「今は戦争に負けて、家族や職場や悔しい不幸のどん底かもしれない。
でも復興を成し遂げて
おそらく平和な時代がやってくる。
これから教育を受ける子供達は、
米英の連合国こそが正義で、日本は軍国主義でアジア各地を侵略して
人々を酷い目に遭わせた悪の枢軸国だったという
米英のご都合主義でうそっぱちの
歴史観を押し付けられて育つだろう。
今、占領している米国の軍事力に護られ続けていれば、
いずれ自分達の国家国民は自分達の手で護ることを
忘れてしまうかもしれない。ロシアや支那や朝鮮はそういう事に付け込む
卑しい国家だから特に護りは重要だと思う。」
「きっと、直人君がこの国の首相になって、
捻じ曲げて押し付けられた歴史観を正して、
自分達の国家国民の誇りと、自分達の国は自分達の手で護ることを
伝播していくと信じようね、今は。」
「ああ、いずれはこの事も直人君に話さなければならない。」
「The Force Of Yours, Justice and Order. Never Give Up・・・か。
敵国語ながら、天晴れだな。」
「ねえ何その言葉?鬼畜米英の呪文?」白石が首をかしげて守山を見る。
「直人君が胸に下げているブレスレットの内側にに刻まれている言葉だよ。
日本語に訳すと、正義と秩序が君の力だ。諦めるな! となる。」
「守山さん、あンた尊敬するよ。凄い動体視力ねえ。」
白石は直人の胸元で揺れるブレスレットの内側に刻んである
小さな文字列を、正確無比に読み取った
守山の能力に感銘していた。
「攻撃機の機銃射手はこのくらいの動体視力がないと務まらない。
もっとも秀男さんは雷撃隊屈指のエースパイロットだから、
自分よりずっと格上でしたね。」
白石と守山は互いにニヤリと笑い、パチッと拳同士を突き合わせた。

 

第15章    役職元通り大作戦

白石から父、寿雄のハケンの話を聞いてから一週間が経った。
師走に入り、冷たい風が頬をすり抜けていく。
今日は日曜日、学校は休みだった。
会って話せばわかってくれるかもしれない。
直人はそう考えて、隣の東新川町の襟裳を訪ねようと
身支度を整える。
「ちょっと茂と昭仁と釣りに行って来る。」
母の翔子にそういって出掛けていく直人。
勿論、嘘である。キョロが社宅の屋根から出掛けていく直人を見つけて、
ニャオンと鳴いて走り寄ってくる。
更に姉の真子が赤い自転車で後ろから追ってくる。
「直人、東新川に行くんでしょ。」
「姉ちゃん、お見通しかよ。」
直人は、真子にだけ、白石から聞いたハケンの話を伝えていた。
真子の自転車の前かごにはキョロ、
後ろには直人が乗って東新川町を目指す。
自転車は田園地帯を抜け、橋を渡り、東新川町に辿り着く。
東新川町の街並みの中に、すぐに四角い大きな黒っぽい家を発見した。
「金持ちっていっていたから、あれかも。」真子が指差す。
道なりに近づいていくと、
直人の背丈の2倍もある灰色のコンクリートの塀に囲まれた、
黒に近い灰色の鉄筋5階建てのビルのような家だった。
表札に「襟裳」と書いてあった。
表札の隣には大きな板チョコレートのような形の
茶色い鉄扉があり、扉は硬く閉ざされている。
「金持ちってことだけど、なんだかすごい家ね。」
真子が表札の真下にある
ト音記号の書いてある四角い呼び鈴を押す。
「プフォーッ、プフォーッ」とブザーのような
趣味の悪い電子音が鳴り響く。
その後に、呼び鈴の下のスピーカーから
ガサゴソと発信音がして、男の音声が流れてきた。
「こちらは襟裳の執事です。」
・・・「エリモのヒツジ?メエメエって鳴く奴?」
「直人は黙ってなさい。」・・・
「ご主人にご用があって参りました。」真子が応える。
「子供2人ですか。主人は用は無いと申しております。」
その時、直人はキョロが自転車の前かごの中から、
首を伸ばし目を丸くして、しきりに上のほうを見ていることに気づいた。
キョロの視線の先には灰色の四角いビルの2階の窓があり、
眼鏡をかけた男がこちらを見ながらマイクで話している。
どうやらその男が執事らしい。
「主人は100万円支払えば10分だけ会うと申していますが、
お子様には無理でしょうから、どうかお引取りください。」
マイクに向かって眼鏡の男が強く叫んだ。
「100万円って大金を出さないと会ってくれないのか。」
直人が呟く。
「やはり、会って話を聞いては貰えなさそうね。」
自転車に乗り、もと来た道を引き返す真子・直人・キョロ。
帰りがけに直人達は白石の家に寄り道する。
「すみこねえさん。こんにちは。」
「あら、直人君、いらっしゃい。
まあ、居間に上がってよ。」直人と真子は襟裳に会いに行って
相手にされなかったことを白石に告げた。
キョロは居間の炬燵の上で丸くなり、気持ち良さそうに寝ている。
「そんな事だろうと思ったわ。
予想通り、襟裳ってのは、まともに話して通じる相手じゃなさそうね。」
「う~ん。困ったな。父ちゃん達このままじゃ・・・」
直人が不安げな視線を白石に寄越した。
「大丈夫よ、ち・ゃ・ん・と作戦は練ってあるの。
情報屋すみこねえにお任せあれ。」
白石が直人の肩をタタタタと叩いてウインクする。
「では、作戦を説明するわね。」
白石はちゃぶ台の下から帳面を取り出して広げた。
帳面には「役職元通り大作戦」とタイトルが付けられて、
手順が整理して箇条書きで書かれていた。
目を輝かせて読み入る直人と真子。
「これで、これで、本当にうまくいくの?」
直人と真子が口々に言う。
「大丈夫、大人の知恵だからねっ。」
「では第一弾にある、<黒の市民運動家> からやるよ。」
直人は作戦書に目を通した。
「社宅の仲間達を集めてくるよ。」
直人が同じ、宇部苛曹の社宅に住んでいる男の子達を
5人ほど呼び集めてきた。
「この中で字がきれいな子は誰かな。」
白石の質問に皆がはーいと手を上げる。
「じゃあ、みんなで書こっか。これから作るのは
東新川町の皆さんに配るビラよ。
ここにお手本があるから、よーく読んで、この通りに書くのよ。」
白石は、手のひらより1回りくらい大きく切った長方形の障子紙に、
筆でさらさらと書いて壁に手本を貼った。
ビラの書面は以下の通りだった。
表だい「おうぼうな、しほん家から、ろうどう者を守るほうりつを作ろう。」
ボクたちのお父さんは、マジメにかいしゃで、はたらいていました。
はたらきぶりが、かいしゃでみとめられて、やくしょくをもらいました。
しかし、この町に住む、かいしゃをけいえいする、金もちのしほん家が、
ある日、かいしゃのしごとと、かんけいないこじんの、八つ当たりから
ハケンというめいれいで、べつのかいしゃに、お父さんたちを
おいやりました。お父さんたちは、おいやられたかいしゃで、
しんじんみたいなあつかいをうけて、大へんこまっています。
こんなことが、ゆるされてよいのでしょうか。
いじょう、くろのしみんうんどうか いちどう。
「みんな、書けるかな。」
またもや、白石の質問に皆がはーいと手を上げる。
「良一、浩太、博、章彦、真人、秘密作戦だ。
僕達の父ちゃんが元の会社に戻って元気になる為に頑張ろう。
今度から仲間のキメは、肩の高さで、
拳を突き合わせるやり方にしよう。こんな風に。」
直人が左右の手に握り拳を作り、胸の前で2,3度拳を突き合わせた。
5人は頷き、直人入れて6人で円陣を組んだ。
「父ちゃん達の為に作戦決行だ!」直人の掛け声を口火に
6人の「おーッ!」という声と一緒に、
各々の拳同士が円陣の中心で突き合わされた。
第一弾の<黒の市民運動家>は、
障子紙を1巻調達して500枚のビラを作成した。
更にバケツ1杯分の木炭をすり鉢で粉末にして、
その半分の量の粘土と混ぜ合わせ、真っ黒な粘り気の多い天然塗料
を作る準備も行った。
この作戦には白石よりも、守山が大きく関与していた。
守山も当然子供達と一緒に準備作業を進めた。
一方、真子も、宇部苛曹の社宅に住んでいる女の子達を呼び集めた。
その中には、社宅の隣に住む佳ちゃんの姿もあった。
真子達女の子は、
第二弾の<どんど焼き>の準備を始めていた。
燃やすと煙の出やすい杉や松の枯葉や稲藁をどんどん集め、
青竹を数本調達できそうなところを探していた。
いよいよ、<黒の市民運動家>決行の日が来た。
直人達は、学校の授業が終わると、白石の家の庭に集まった。
既に守山が到着していて、ビラを整理し、
木炭と粘土の塗料の具合を確かめていた。
「じゃあ、守山のオジちゃんが説明しようかな。 
これから隣の東新川町の商店街でビラ配りをする。
重要なのは、誰が配っているのか、わかりにくいようにする事だ。
そこで、この木炭と粘土を混ぜ合わせた真っ黒な特製塗料を
顔や身体に塗る。更に顔に視線が集まらないように、
その黒ブタ達と一緒に配ろう。」
守山が指差した先には、
庭の柿の木にロープで繋がれている黒ブタ5匹が居た。
黒ブタは守山が家畜として飼っているものだった。
直人達は6人、1匹足りない。
その時、丁度良くキョロが尻尾を振ってのしのし歩いてきた。
「僕はキョロと一緒に配る。黒ネコにすればいいんでしょ。」
キョロがニャオンと鳴く。決まりだった。
早速、直人達は顔や肌が露出している所に
真っ黒な特製塗料を塗り込んだ。
キョロも真っ黒に塗られた。
「さあ、出陣だ。」 
守山含め、男7人と、白石が円陣を組んで拳を突き合わせた。
守山の引率で、直人達6人の黒ん坊と黒ブタ5匹と黒ネコ1匹は
東新川町の商店街を目指して歩いていった。
白石はハンカチを頭の上で「帽振れ」のようにクルクル回して庭先で見送った。
直人達は、東新川町の商店街に到着した。
雁木が連なる通りに沿って商店が並び、かなりの人通りがある。
黒ブタを引き連れた黒ん坊5人と黒ネコを引き連れた黒ん坊1人がビラを配る。
「これ、読んでください。お願いします。」
の声と、黒ブタのブヒ・ブヒ・ブヒと鳴く声が、
商店街中を駆け巡る。 
道行く人々は突然現れた顔も肌も真っ黒の
小学生くらいの黒ん坊の男の子集団が、
真っ黒なブタやネコを連れて、元気にビラを配る姿に凄く驚いた。
皆、貰ったビラを興味深く読んでいた。
引率の守山は、直人達が事故や危険な目に遭わないように、
常に周囲に目を配っていた。
「よし、今日は引き上げだ。」
ピフィーーーッと鳴った守山のホイッスル。
その合図で、直人達6人は集まって、
円陣を組んで健闘を讃え合い、白石の家を目指して引き上げていく。
「ごくろうさま、顔や肌を綺麗に拭いてから帰ろうね。」
白石がバケツに井戸水を汲んで、手拭いを持って出迎える。
庭では、黒ん坊メイクを洗い流した6人と1匹が、
元の直人達6人と三毛猫キョロに戻っていった。
この「黒ん坊隊のビラ配り出動」は、3日間続いた。
4日目に守山が、東新川町に効果を視察に行った。
想定以上の効果だった。
この町に住んでいる金持ちの資本家など襟裳家しかない。
ビラを読んだ町の住人から、総スカンを喰らっているのは明白だった。
自慢の鉄筋5階建てのビルのような家は、
外塀のいたるところに、配ったビラがガムや糊で貼り付けられ、
建物に人糞が投げつけられた痕跡があちこちにあった。
家全体から人糞の臭いが漂ってくる。
極めつけは、塀の扉に「糞を投げつけた奴は警察に突き出す、襟裳」
と赤字で書いた紙が貼られていた事だった。
「みんなそういう横暴ってのは、頭にきて何かアクションを起こすものさ。
しかし、東新川町の住民は過激派が多いんだな。
襟裳という奴も身に覚えがあるから
全てを警察に話す訳にもいかんだろう。」
守山は視察を終えて白石の家に寄り、
<黒の市民運動家>の目的を遂げた事を伝えた。
直人達にもそれは伝わった。
「黒ん坊、もう終わりかよ。 ビラ配って町の人たちの反応も
快かったから、もっとやってもよかったのに。」
各自からそんな感想が洩れてきた。
その翌日の午後に、
今度は第二弾の<どんど焼き>の決行となった。
守山は朝からあちこちに電話をかけまくっていた。 
真子や佳ちゃん含めた女子4人は、
守山から指定された田圃の真ん中に、どんど焼きの設営を始めた。
3年前の七夕祭りの時に、竹を分けて貰った竹林の管理人から、
またもや、細長い青竹10本を分けて貰った。
毎度の如く、「今度は可愛い女の子の竹槍突撃訓練かあ。」
などと冗談を言われながらも、白石と一緒に女子4人組が青竹を、
「わっせ、わっせ」の掛け声と共に竹林から切り出して田圃に運ぶ。
稲刈りの終わった冬の田圃で焚き火をしたくらいでは、
地主も誰も文句は言わない。
「ありがとう、ご苦労さん。女の子だから重かっただろう。」
守山が真子達にねぎらいの言葉をかける。
「父さん達が元気を取り戻してくれたら、
こんなの大したこと、ないよねーっ。」応える眞子達。
佳ちゃんは複雑な想いだった。
あの時、身を張って助けてくれた直人の役に、
どんな形でもいいから立ちたかった。
そして、直人の事が気になっていた。
直人の事を思い出すと、なんだか胸がドキドキする。
守山は竹に錐で小さな穴をあけて、透明な液体を流し込んでいる。
真子がどんな事をしているのか訊くと
「これは内緒。最後のお楽しみだな。」といって教えてくれなかった。
10本の青竹が守山の手で天空を向いて垂直に立てられ、
その周りを真子達が4日間かけて集めた、杉や松の枯葉や稲藁
でつりがね状に覆う。どんど焼きの櫓が完成した。
「白石さん、着火は14時20分、よろしく。」
守山の言葉と共に、今度は女子の円陣が組まれ、中央で拳が突き合わされた。
直人達男子は、<どんど焼き>の後方支援隊として、
守山と一緒に「黒ん坊メイク」せずに普通の格好で
東新川町の襟裳家付近に移動して待機した。
白石の懐中時計が、決行の14時20分を指した。
「いくわよ。」白石が見守る中、マッチを擦って、
どんど焼きの櫓に着火する真子。
小さな火が次第に大きくなっていく。
「折角だから、みんなで歌おうよ。 
もえろよ、もえろ 伴奏は、私すみこねえさんのハーモニカ。」
ポケットからハーモニカを取り出し前奏を始める白石。
皆で歌い始めた。
♪もえろよ もえろよ 炎よ もえろ 
火のこを 巻き上げ 天まで こがせ
照らせよ 照らせよ 真昼の ごとく
炎よ   うずまき やみ夜を 照らせ
もえろよ 照らせよ 明るく あつく
光と   熱との  もとなる 炎♪
どんど焼きの炎は黒煙を噴き上げながらどんどん大きさを増し、
ハーモニカと初々しい女声4人の合唱がだだっ広い田圃に響き渡った。
「よし、炎が上がったぞ。 みんな騒げ!」
守山が双眼鏡で真子達のどんど焼きを確認する。
直人達男子5人が襟裳家に面した道で大騒ぎし始めた。
「おーい、大変だ。火事だあ!火事だあ。」
「港のほうの工場の辺りから火が出ているんじゃないか。」
「大変だ、大変だ・・・工場が燃えている。」
「あれは、きっと宇部苛曹の大きな工場が燃えてるんだよ。」
襟裳家と臨海部の宇部苛曹の工場を結ぶ一直線上に、
どんど焼きを置いて、炎と黒煙を大量に噴き出させて、
襟裳に宇部苛曹工場の大火事と錯覚させるのが守山の企みだった。
案の定、鉄筋5階建ての窓から、腹や顔に贅肉を蓄えた、
襟裳らしき男が顔を出して、宇部苛曹の方角を眺め始めた。
どんど焼きの炎が天空を向いて立っている青竹をどんどん加熱していく。
そして、バリンと弾ける音と共に、青竹の
先端から20メートルを超える巨大なオレンジ色の炎が、
シュボォーーと噴射音を出しながら天空に向かって噴き上がった。
「すごい、これが守山さんの言っていた、最後のお楽しみなのかな。」
真子が考えている間にも次々と青竹が弾け、
何本ものオレンジ色の炎の柱が天空に向かって噴き上がる。
竹の節に注入した灯油・食塩・硫黄・練炭の混合液が周囲の火で沸騰し、
節を突き破って垂直に上がって
断続的に引火して派手な炎が上がるように、守山は仕込んでいた。
それは直人達にもはっきりと見えた。襟裳家から見ると、
どんど焼きの方角と煙、炎の大きさがピタリと合い、
本当に宇部苛曹の工場が巨大な火柱で包まれ、燃えているように見えた。
襟裳が驚愕の表情を見せて、
窓を閉めて引っ込むのを見届けた守山は、ニヤリと嗤った。
「さあ、市民運動にブチ切れ始め、頭に血の上った襟裳が大慌てで
銀行に電話して、東京証券取引所で宇部苛曹の株200単位、
計2億円が売りに出るぞ。
午後3時で宇部苛曹が上場している東京証券取引所は取引が閉まる。
ゆっくり火事見物してたら、
明日の朝に株券は紙屑だ。
早く売りで処分しろよ。 但し、売価は相場の4分の1だ。」
守山は空母の整備班や航空隊の生き残りなど、あらゆる自分の知己達に声を掛け、
この日の午後に宇部苛曹の株、1単位の相場200万円を4分の1の50万円の指値で
「買い」の注文を出すように頼んでいた。 
目論み通り、ブチ切れ状態の襟裳は
宇部苛曹の株200単位を全て売り注文した。
「指値注文が入っていまして、取引成立は1単位50万円です。
今成立させてしまうと、
相場の4分の1で売ってしまうことになります。」
電話口での銀行の回答に、更に驚愕する襟裳。
「宇部苛曹の株は、火災でどうせ紙屑になるんだ。指値で売りだ。
売り、売り。」
14時50分、宇部苛曹の株200単位の売買が成立し、
14時59分、東京証券取引所はその日の取引を全て終了した。
この時、襟裳の宇部苛曹の経営や業務への意思決定権は消滅し、
計4億円相当の宇部苛曹の株式を、相場の4分の1で手放した為、
3億円の損失が確定した。
守山と直人達は、速やかに襟裳家近辺から退散し、
どんど焼きの田圃に向かった。
途中、守山が銀行に寄り、
宇部苛曹株の終値と取引高を確認し、作戦成功を確信した。
燃え尽き始めたどんど焼きの炎は小さくなり、
佳ちゃんが持ってきたスルメを炎で炙って、皆で分けて
食った。パチパチとスルメの焼ける香ばしい臭いに誘われて、
キョロもどんど焼きの田圃にやってきた。
「キョロも手伝ってくれたんだ。」
直人はかじりかけのスルメをキョロの鼻先に差し出す。
スルメにかぶり付くキョロ。
「みんな、作戦は成功だ。お父さん達は、
明日の午後くらいには揃って元通りの職場と役職に戻れる。」
守山の発表に直人は疑問をぶつけた。
「守山のおじ、・・いやお兄さん、
市民運動とかいうビラ配りと、どんど焼きで、
どうしてうまくいったの。」
「いい質問だ。 あの襟裳とかいう横暴なオッサンに
お父さん達の会社を支配する株という権利を、大安売りで手放して
もらった。 奴には市民運動の煽りで頭に血が上った状態で、
どんど焼きの炎と煙を会社の火事に見せて
明日には会社の権利が紙屑になると思わせて、今日売り払ってもらった。 
おそらく3億円くらいの損だろうな。明日になっても株は買い戻せない。
直人君や真子ちゃん達は、まだ小学生、中学生だから、
この説明で正直解らないこともある。 
でも、いずれ解る時がくるよ。」
守山の直人達への特別な肩入れには、2つの理由があった。 
1つは、直人の姿を、戦場で死に別れた雷撃隊のエースパイロット・
白石澄子の夫、白石秀男に重ね合わせていたからだった。
もう1つは、襟裳のように既得権益の力で、
こっそりと徴兵を逃れ志願もせず、
帝國を護ろうともせずに戦時をのうのうと生き延び、
敗戦になった途端に我こそは平和主義者だといって
米軍に尻尾を振って既得権の温存を図り、
帝國を護る為に戦って傷を負って戻ってきた傷痍軍人は
残虐な軍国主義者だといって罵るブタの様な輩を、
日本の未来の為にも、社会から排除したいと思っていたからだった。
「とりあえずは、みんな、おめでとう、
ってことね。万歳三唱でもしよっか。」白石が締める。
「父ちゃん達、万歳! 万歳! 万歳!」
「大日本帝國、万歳! 万歳! 万歳!」
子供達の元気な甲高い万歳三唱が町内中に響き渡った。
その数分後、襟裳は、何事もなく無事に建っている宇部苛曹の工場と、
小さい点のようになったどんど焼きの炎
と細くたなびく煙を見て、嵌められた事に気づいた。
しかし後の祭りだった。
直人達がどんど焼きの後片付けを終えると、西の空に夕焼けが広がっていた。
互いの健闘を讃え、直人・真子達・白石・守山の12人が
円陣を組んで拳を突き合わせる。
「さあ。みんな、帰ろうよ。」
田圃の畦道を通り、家路につく直人達。
「直人君、手をつないでもいい?」
歩いている直人の隣に佳ちゃんが寄ってきた。
「えっ、いっ・いいよ」
直人の左手と佳ちゃんの右手が触れ合う。
「近道していこっかな。」
佳ちゃんが直人の手を引っ張り、皆とは違う道を歩いていく。
佳ちゃんは白石と真子の刺さるような視線を背中に感じていたが
気にしなかった。
「あれ、ひこうき雲よ。」
佳ちゃんが南の空を指差す。
ふわっとした雲の塊の中から突き抜けるように真っ直ぐに
伸びる白い線。
「飛行機、いつか、乗ってみたいな。」
直人が振り向いて、ひこうき雲の先端を見ながら言った。
「翼に大きな日の丸のついた、ひこうきがいいな。
直人君の操縦なら楽しそうね。」
「ぼくが総理大臣になって、日の丸の飛行機を日本の空に復活させるんだ。
そして、日の丸の飛行機や船や戦車で日本をまもるんだ。」
そんな話をしている間に、
社宅と佳ちゃんの家の分かれ道に差し掛かった2人。
互いに拳を突き合わせ、手を振ってそれぞれの家へ急ぐ
直人と佳ちゃんだった。


第16章    みんな笑顔で元通り

その翌日の午前中、寿雄をはじめ、
宇部苛曹の社宅に住む社員の面々は、
それぞれの派遣先から撤収し、すぐに自社勤務に戻り、
元の役職で働くように辞令が出た。
襟裳の経営権限が消滅し、
すぐに社長が不条理な派遣勤務を撤回した結果だった。
突然の自社勤務復帰の辞令に驚き、
そして喜び勇んで宇部苛曹の職場に戻る寿雄達。
寿雄が「技術第一部門」のプレートが貼られた引き扉をガラガラと開ける。
クラッカーのパンパンと弾ける音が室内を駆け巡った。
「菅原技術部長、お帰りなさい。」
40人あまりの部下が 寿雄を囲む。
「私達みんな、部長の復帰をずっと待っていました。」
ワーッと大きな拍手と歓声が上がる。
部長不在で、意気消沈し全ての業務が滞りぎみだった第一技術部が、
息を吹き返す。
他の派遣に出されていた社宅の面々も、
同じように、元の部署と役職に戻り、復帰の歓待を受けていた。
その夜、寿雄は満面の笑みを浮かべて帰宅した。 
「父ちゃん、何かいいことあったの?」
「まあ、な。」
予想通りの結果に、直人は大満足だった。
役職元通り大作戦の成功を噛み締める直人と真子。
この作戦を通じて、直人は市民運動というものが
言論による働きかけによって、大勢の人を動かし、不可能を
可能にする力を引き出せるものだと、
おぼろげながら理解し始めていた。
突然派遣が解除され役職が元に戻った理由、
何も知らぬは翔子と寿雄だった。
夕食のテーブルには久々のご馳走が並んだ。
数ヶ月振りに家族一同の笑顔が戻った。
社宅の皆も大喜びで、各家庭で歓声が上がっていた。
同じ頃、東新川町の襟裳の住む鉄筋ビルの家は、
表札が外され、「売家」と張り紙されていた。
役職元通り大作戦で3億円の損失を食らった襟裳は
借入金の担保割れを起こし、家を銀行に差し押さえられ、
引っ越す羽目になっていた。
東新川町の住民達も、横暴なブタ人間「襟裳」
がいなくなった事を喜んでいた。

 

第17章 其の弐 あとがき

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「其の弐」本編はここで終了ですが、
この小説「直人伝」は、モデルにした
「直人氏」のプロフィールに沿った形で、
フィクションのイベントを組んで、「其の参」以降も、
順次ストーリーを進めていく予定です。
大前提として、主人公「菅原直人」は苦難の道に打ち克って、
活路を開く、不屈の闘志を持った
ヒーローとして描きます。
お読み読いただいた感想や、本作のアイディア等
アップしていただけると幸いです。 

小説 「直人伝」 其の参 
             作 若月 明峰

第18章    其の参 まえがき

本作は、小説「直人伝」の第3編です。
主人公の「菅原直人」は、思春期前期でどんどん冒険をしたいお年頃。
「直人伝」・「其の弐」をお読みになってから、
本編をお楽しみいただく事をお薦め致します。

 

第19章 2・26宇部の大豪雪

昭和33年2月、直人は小学校5年生の3学期を迎え、
あと1ヵ月半で進級だった。
普段は冬でも比較的温暖な瀬戸内海に面した宇部の町を、
猛烈な寒波が襲った。
朝から父の寿雄がそわそわして、「NHK山口ラジオ放送」
に耳を傾ける。
「天気予報では大雪と言っとる。みんなきゅーつけろ。」
大雪の予報で、自転車通勤を諦め、徒歩で出勤する寿雄。
続いて、同じく自転車通学を諦め、徒歩で学校に向かう真子。
普段、縁側か屋根の上にいるキョロも、今日は
朝から刺すような寒さのせいか、炬燵の上で丸くなっている。
「学校、行ってきまーす。」「雪が降るから気をつけるのよ。」
「ニャオン」
直人が翔子とキョロに見送られて家の玄関を出ると、
丁度、一面の鉛色の空から、雪が落ちてきた。
直人が落ちてくる雪を両手を合わせてすくい上げる。
繊細な六角形をした雪の結晶が、寒さで赤くなった手の中でじわりと溶けて
水になる。「雪ってよくみると綺麗な結晶なんだなあ。」
道を歩きながら雪の観察をする直人。
同級生で釣り仲間の茂も、同じように立ち止まって、空から降ってくる雪を
口をぽかんと開けて眺めていた。
学校に着いて算数の授業が始まっても、
先生、級友達、皆が教室の窓から見える
降りしきる雪が気になっていた。大粒のぼたん雪が途切れることなく舞い、
雪はいっこうに止む気配はなかった。 
神原小学校は木造校舎で、気密性は無いに等しく、
教室の中は容赦なく隙間風が吹き込んでくる。休み時間は皆が教室の
ダルマストーブの周りに寄り添って暖を取っていた。
ダルマストーブの長所は、何といっても火力である。
前面に1箇所、耐熱ガラスで
覆われた覗き窓があり、中で黄色くぼうぼうと燃えさかる炎が確認できる。
この炎を見るだけでも温まった気分になる。 
逆に、難点は排煙するためのパイプと煙突が必要であり、
ストーブと排煙パイプの周りが高温になることだ。間違って触ると火傷して
「あちちちち」となる。小学生だから、衣服がストーブなどに擦れて、
焦げることは日常茶飯事だった。
「直人君、寒いね」同級生の如月あかりが話しかけてきた。
当時、女子の名前は○子や○美などが大多数で「あかり」などといった名前は
特殊で前例がないと言っても過言ではなかった。
ややもすると、照明のほうの
あかりと混同してしまうので、通称、姓の方の「如月」で通っていた。
更に、あかりはやたら成長が良く、直人よりも背が高く、
同い年なのに2年ぐらい年上に見える。
しかも直人の苦手とする算数や理科の成績が良い。
級友とはいえ、直人にとっては身近にいる、最も不思議な人間の1人だった。
「うん。寒いけど、雪も自然の恵みだから、これを使って、
みんなで面白い遊びが出来ないか、考えてるんだ。」
と言いつつも「へっくしょん。」
とクシャミをする直人。
「やせ我慢は良くないよ。」ポケットからちり紙を出して直人に渡すあかり。
「如月、ありがとう。」といって、チーンと鼻をかむ直人。
あかりも、国語や社会の勉強が抜群に出来て、
いつも首からゴム紐で括り付けた真鍮のブレスレットを
下げている直人が気になっていた。
「こういう時は、ウチからスルメを貰ってきて、
ストーブで焼いて食って寒さを吹き飛ばす。」
「勝手に家に帰っちゃダメじゃないの?」
「まあ、如月の言う通りかなあ、それじゃあ運動して、寒さを吹っ飛ばす。」
雪が積もって真っ白に雪化粧した校庭に飛び出そうとする直人。
しかし、その前に学校中のスピーカーから、
カンコロリンと非常放送のメロディが流れた。
「ゴホン、ズズ・・・児童はすぐに教室に戻ってください。繰り返します、
児童はすぐに教室に戻ってください」コロリン放送終了のメロディが流れ、
最後にスピーカーのブチッと電源が切れる音が聞こえた。
肩透かしを食らって教室に戻ってきた直人。くすくすと女子の笑い声が聞こえる。
「今日は大雪の為、これにて放課にします。天気予報によると、
これからどんどん雪が降り続くそうです。くれぐれも屋根の下や川など危険な
場所には近づかないようにしましょう。」
担任教師の明石が、教壇上からクラス全員に向けて伝えた。
「はーい。」と言って、そそくさと校門を出て家に帰る直人。
真昼でも氷点下を記録し、絶え間なく雪の降り続く宇部の町の空気は、
直人にとっても寒冷の極みだったが、既に直人はこの雪を利用した、
面白い遊びを考え付いていた。
「ただいま。」といって、学用品を詰めた布製のリュックをドスンと居間において、
「いってきます。」とんぼ帰りで外に飛び出していく直人。
炬燵で暖を取っている翔子の「大雪なんだから気をつけるのよ。」
という声が後ろから追いかけてくる。次に、炬燵に潜り込んでいたキョロが、
直人の声と気配に反応して、炬燵布団の間から飛び出して直人についてくる。
社宅の敷地の前には、耕作を終え水を抜いた田圃が広がる。
だだっ広くまっ平らな田圃は雪の豊富な原っぱになっていた。
すぐに雪だるまを作り始める直人。
握り拳ほどの雪の玉を転がしていくと、あっという間に直径1メートルの真っ白な
「大玉」が出来上がる。
キョロは雪の上で丸くなり、じっと直人の方を見ている。
そのうちに、直人が雪だるまを作っているのを見て、社宅の子供達や級友達もわいわい、
がやがやと田圃に集まって、思い思いに雪だるまを作り始めた。
「これは、きっと天の恵みなんだよ。」そう思いながら、
2つの大玉を縦に重ねて、柿の小枝で手と口を作り、南天の赤い実で目、
蜜柑の皮で鼻を作り、雪だるまを完成させる直人。
その間にも雪はだんどんと降り積もっていた。
集まってきた仲間達も、次々に雪だるまを完成させていった。
「さすが茂、でかいなあ、これ。」
直人が感心するくらい、体格が良く、体力自慢の同級生、
茂の作った雪だるまは大きかった。
一方、芸的とも言える作品は、社宅の隣の家に住む佳ちゃんの
「まねき猫」だった。
きちんと、耳や鼻を雪で整形して、右手で「招く」ポーズまで出来上がっている。
「直人君、これ、キョロちゃんに似せて作ったんだけど。」
佳ちゃんが話しかけてきた。
「じゃあ、となりにキョロを置いてみよう。」雪のまねき猫の隣に
キョロを抱きかかえて持ってくる直人。キョロにもまねき猫のポーズをとらせるが、
寒いのですぐに4つの足を閉じて丸くなるキョロ。
佳ちゃんが「キョロちゃんは猫だから寒さに弱いんだよねっ。」
といって、キョロを
抱きかかえて、白・黒・茶の体毛に積もった雪を払い落とす。
キョロは佳ちゃんのお腹の辺りで暖を取り、喉をゴロゴロ鳴らしている。
普段、虎のようにのしのしと歩き、直人の前では弱いところを見せない
キョロも寒さの中での佳ちゃんの温もりには、すぐに懐柔された。
そうこうしているうちに、夕刻近く、辺りは薄暗くなり、
雪は強さを増して降り続き、止む気配がない。
「みんな、そろそろ帰ろうよ。」「そうね。」「帰ろ、帰ろ」
直人の一言で仲間達は、各々の家に向かって歩き始めた。
降り続く雪の中、社宅の前の田圃には皆が作った雪だるまが、
ずらりと並んでいた。
その日の晩も雪は降り続いていたが、直人もキョロも雪遊びで動き回った身体を
充分に休めるが如く熟睡していた。
翌朝、直人が窓を開けて外を見ると、どんよりとした鉛色の空と、冷たい風は昨日と
変わりなかった。しかし、昨日皆で拵えた雪だるまのある田圃を見ると、
雪だるまが半分になっているように見えた。 
「何だろう。」ゴム長靴を履き、
ガラガラと玄関の引き戸を開けて雪だるま達に近寄る直人。
すぐに判った。それは半分になったのではなく、
雪が積もって下半分が隠れていたのだ。
「埋まっちゃったのか・・・。」そう呟いている間にも
降ってきた雪がどんどん積み重なっていく。
直人が天を仰いでいると、家の中からジリリリリンと黒電話のなる音が耳に入り、
その後、姉の真子も玄関から出てきた。
「直人、いいお知らせよ。」
「姉ちゃん、なに?」
「今日、今、電話で大雪で学校閉鎖って連絡きたわよ。」
「バンザーイ。今日は休みだ!」
朝食を済ませると、炬燵の上で丸まっているキョロの頭を撫でて、
早速田圃に雪遊びに出掛ける直人。
皆、自分の作った雪だるまが気になるらしく、社宅の子供達や級友達も田圃に集まり始めた。
「雪がいっぱい増えたから、みんなで力を合わせて、もっと大きいのを作ろう。」
直人の呼びかけに皆が頷く。直人は帳面に鉛筆でスケッチを始め、
数分でサラサラと書き上げた。
皆が、直人のスケッチを覗き込む。
「なっ、カッコいいだろ。」
「うん。作る、作る。」
「でも、こんなの、できるのかなあ・・・」
「大丈夫、みんなでやれば何とかなる。」
直人達は手分けをして、大きな雪球を何個も転がして作り、雪をかき集めてスコップで整形した。
数時間後それは完成し、戦艦、戦闘機、戦車 3つの雪像が田圃に並んだ。
ちゃんと日の丸を入れて、絵の具で赤く塗るこだわりもあり、
小学生の子供の作品としては秀逸だった。
特に、戦闘機は直人が精を出して、零戦風に仕上げ、魚雷も胴体下に再現した会心の作だった。
君が代も合唱し、田圃は、子供達のミニ軍事パレードの会場と化していた。
ここで、如月あかりが何やら、大人びた事を言い出した。
「直人君、こんなお古の戦闘機もうないよ。」
「世界最強の零戦だぞ」
「今はジェット機の時代なの。」
そう言って、あかりは鉛筆を取って、直人の零戦スケッチの横に、米軍のF4戦闘機を描いた。
先端が尖り、シャープでスマートな機体にミサイルを装備した最新戦闘機と
20年前の零戦を比較すると、その差は歴然だった。
「如月って物知りだなあ。」茂がスケッチを覗き込んで言った。

 


第20章 雪球戦闘

「如月の描いたこれ、みんなで、作ってみようよ。」
直人はあかりのスケッチしたF4戦闘機を両手で掲げて言った。
「その代わり・・・」「わかってる。翼には日の丸でしょ。」
直人とあかりが視線を合わせてニコリと微笑んだ。
茂、佳ちゃん皆がスコップや手で雪をかき集め始めた。
その時だった。何やらドロドロという音がこちらに近づいてくる。
雪景色に馴染まない黒い塊に白で書いた星印、おなじみの進駐軍のジープだった。
皆、何事もなくジープが通り過ぎる事を願った。
しかし、ジープの米兵達は、直人達が作った戦艦、戦闘機、戦車 3つの雪像に気づき、
興味を示した。ドロドロという音がピタリと止まり、
米兵3人がジープから降りて直人達のほうにやってきた。
「Hey!Jap!」(おい、日本人)
「Oh! It's an interesting snow sculpture.」(面白い雪像だな。)
クチャクチャとガムを噛みながら腕組みをして直人達ににじり寄ってくる米兵。
小学5年生の直人には、間近で見る米兵達が、そびえ立つ巨人のように見えた。
「困ったなあ、米兵の使う英語とかいう言葉は、わからな・・・」直人のつぶやきを
遮るようにあかりが突出して言った。
「Battleships, fighterplanes, tanks, to difense the GreatEmpireOfJapan.」
(戦艦、戦闘機、戦車、大日本帝國を守る為のものよ。)
「えっ、如月、英語とかいう言葉を話せるのか?」
あかりは、横目で直人を見て頷いた。
「The English-speaking lass.
 Apparently, as soon as you release the first Japanese Seems to be revived militarism.
 Moreover, from among the children, and this play is That must have been born with the DNA of militarism.」
(英語を話すお嬢ちゃんか。
どうやら、日本人は目を放すとすぐに軍国主義が復活するようだな。
しかも、子供のうちから、こんな遊びをするとは、軍国主義のDNAを生まれつき持っているに違いない。)
「何て言っているの?」
「私達を子供の軍国主義者だって。」
「Crash the statue now. Otherwise arrest.」
米兵の一人がしゃがみ込んで、ニヤリと笑いながら言った。
「みんな、聞いて。私達の作った雪像を今すぐ壊さないと逮捕だって。」
あかりが振り向いて伝えた。
「嫌よ。そんなの。みんなでせっかく作ったんじゃない。」
佳ちゃんが泣きそうな顔で言った。
「No!」あかりに続いて、直人をはじめ、皆が口々に叫んだ。
「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」
直人達のノーの大合唱に米兵達の表情が変わった。
「Do not cross the child arrested. And return it to break.」
(子供を逮捕しても仕方ない。それを壊して帰るとするか。)
米兵の1人が戦艦の像にパンチを食らわせ、艦橋が粉々に砕け散った。
「俺達が作ったのを壊すつもりだぞ、直人。」茂が直人の方をじっと見る。
「みんな、戦闘準備!目標米兵!」直人が雪を固く握って雪球を拵えると、
皆も同じように雪球を拵えた。
「撃てえっ!!!」直人の声が白銀の田圃にこだました。
一斉に子供達の雪球が3人の米兵めがけて
びゅんびゅんと飛んでいく。
直人の腕力はさほど強くないが、やたら体格の良い茂とあかりの雪玉は、
大人でもまともに食らうと後退せざるを得ないほどのスピードと威力だった。
佳ちゃんが次々に雪球を作り、茂とあかりの強肩が米兵の顔面めがけて雪球を撃ち込む。
すぐに米兵達は顔を真っ赤にして怒り始めた。
「Damn, evilkids be arrest!!」(悪ガキ共め!逮捕する!)
米兵の1人が腰のフォルダから拳銃を引き抜こうとしたその時だった。
「Stop It! Turn Back!」(やめるんだ!後ろに下がれ!)
後ろから発せられた1人の男の声で、米兵達3人の表情が一瞬で服従に変わり、後退する。
直人達の雪球攻撃も停戦となった。
男の前で3人は敬礼する。
「Handgun or against children? The first attack would you guys yet. The Army's shame!」
(子供相手に拳銃か? しかも先に攻撃したのは君たちだろう。 軍の恥だ!)
「I'm sorry. My subordinates had terrible rude.・・・・Naoto Sugawara?」
(ごめん。私の部下が酷い無礼をしたようだ。・・・・菅原直人君じゃないか。)
「あれっ、ジョージさん。」
ジョージとの初対面から2年近く経っていた。ジョージは米国軍の制服姿で、胸に光る
階級章の星が米兵3人よりずっと立派なものだった。 直人も子供ながらに、その意味が
理解できた。
直人の首から下がっているゴム紐で括られた真鍮のブレスレットが雪の合間の日差しを
受けてキラキラ輝く。
「ざっ、ふぉーす おぶ ゆわーず じゃすてぃす あんど おーだー、ねばーぎぶあっぷ!」
(The Force Of Yours, Justice and Order. Never Give Up!!)
直人が日本語なまりの発音で、父から教えてもらって、
やっと覚えたブレスレットに刻まれた言葉を唱えた。
「O.K. Good!」(その通りだ。やるじゃないか。)
すぐにジョージの青い瞳は直人の隣でファイティング・ポーズをとっている
あかりに視線を移した。
「Marvel, your friends?」(マーベル、君の仲間達なのか?)
「I'm not Marvel. My name is Kisaragi-Akari.」(マーベルと呼ばないで、私は如月あかりなの。)
「Sent home from today, please return.」(送っていくから、今日はもう、家に帰ろう。)
諦め顔でうつむき、黙ってジョージの車に乗り込む。
直人も佳ちゃんも、茂も、皆きょとんとして、あかりを乗せたジョージの2枚ドアの
黒っぽいかぶと虫のような乗用車が、バタバタバタッという独特のエンジン音を奏でて
走り去るのを見送った。
この頃、乗用車といえば米軍か金持ちしか乗ることのできない、高嶺の花だった。
直人は、あかりとジョージの顔立ちが少し似ている事に気づき、あかりという名前があるのに
マーベルと呼ばれているのは、なぜなんだろうと、疑問に思った。
足元に寄って来て寒さで丸くなっているキョロを抱きしめながら、どうやら大人の事情らしいから
今まで通り、あかりに接しようと考える直人であった。

 

第21章 22年前の2・26

「ただいまあ。」直人が社宅に帰ってくると、玄関の見慣れない大きな靴に気づいた。
「お客さん?」「うん。父さんの友達の、山田さんが来てるの。」直人の問いに真子が応えた。
「おう、直人、雪遊びから帰ってきたんじゃろ、山田が来ておるから、
ちーと顔を見せろ。」
直人は奥の居間で、座布団に座り番茶を啜りながら談義に興じている寿雄と山田の所に
顔を出した。「こんにちは。」「おお、直人君、大きくなったなあ。」
山田の大きなごつい手が
直人の頭を撫でる。 「田圃の軍艦、戦闘機、戦車なかなかいい出来じゃないか。それに、
さっきの雪合戦も、そこの窓から見物させてもらった。勇敢じゃないか。
もっとも、子供の雪遊びにいちゃもん付けて隊長に咎められる米兵ってのは、
所詮その程度のものでしかないがな。」
「えへへ。」直人が寿雄と山田の間に座ると、「はいどうぞ。」と
翔子が直人の分の番茶を、湯飲み茶碗に入れて持ってきた。
直人は熱い番茶を啜り一息ついた。
「今日は2月26日か。あのときも帝都は雪だった事を思い出すな。」
窓にちらつく雪をじっと見ながら山田がポツリと言った。
「二・二六事件ね。」居間から出ようとした翔子が振り返って言った。
「あの時、俺は22歳。丁度22年前か。」
「なに?二・二六事件って。」「これから学校の社会科で習うんだろうが、
な。 まあ、俺の中では昭和維新というところかな。」

二・二六事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、
日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、
「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター事件である。
大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら
(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」
をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、
彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、
農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下、
2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの
部隊を指揮して内閣総理大臣や政府重臣の殺害を図った。

「山田のおじさんは、それに加わったの?」
「ああ。そうだ。」山田がにこやかに直人の顔を見ながら言った。
しかし、翔子は渋い表情を見せた山田の顔を見逃さなかった。
「あの時は、本当に貧しい人が多かったんだ。生まれたばかりの赤ん坊を
食糧がないから育てられないといって、殺す。せっかく育てた年頃の女の子を
女郎屋に売る。 ひどいもんだ。 でも、やりたくてやった訳じゃない。
生きていくには仕方なかった。みんな泣く泣くそうしなきゃならなかった。
俺が直人君の年の頃に、俺の姉さんは女郎屋に行った。」
「女郎屋って何?どんな所?」「いいから直人は黙って聞いていなさい。」
11歳の直人が女郎屋が何たるかを知る由も無い。
「俺は山形の出身だが、親が体格よく生んで育ててくれたことや、
隣の家の末太郎君が、先に帝國陸軍で出世していた縁もあって、職業軍人として
帝國陸軍の近衛歩兵第三聯隊に所属していた。 末太郎君が、
帰ってくる度にそそのかすんだよ。俺は末っ子で田圃や屋敷も劣ってたが、
職業軍人としての給金が良いお陰で、親孝行や子にたらふく飯を食わせる生活ができる
ってな。近衛師団ってのは天皇と皇居を守る部隊だから徴兵じゃなく志願と選抜で
入隊が決まる。一生懸命勉強したのと、末太郎君が軍部に働きかけてくれたお陰で
何とか入隊を果たして、贅沢をせずに金を貯めて、
姉さんを女郎屋から身受けしようとしたんだ。」
「身受けって何?」「難しいこときくなあ。」山田が困っていると翔子が答えた。
「お給金を先に貰って、年季奉公という形で山田さんのお姉さんは、住み込みで雇われたの。
だから、まだ働いていない分の、お給金を返せば、雇い主の所で働かなくて済むの。
これが身受けっていうの。わかる?」
「うん。で、お姉さんは身受けできたの?」
「それがな、働いている時に梅毒という伝染病に感染していて、
身受けして直ぐに治療で入院させたんだ。」
「梅毒ってなに?梅干しの毒が伝染するの?」
「梅干しや梅の木とは関係ない病気だ、6年生になったら習うから楽しみにとっとけ。」
今度は寿雄が回答した。
「で、お姉さんは良くなったの。」「ああだいぶ長く入院したがな。」
そう言って、山田は番茶をズズッと飲み干した。良くなったというのは大嘘だった。
山田の脳裏に浮かんだのは、あの時の光景だった。
山田の名は忠、姉の名は舞子だった。
山田は近衛師団の軍服に身を包み、郵便貯金の払込証を持ち、姉が身売りされたという、
日本橋人形町の堀江屋という女郎屋を訪ねた。通用口からチリンと呼び鈴を鳴らし、
中から番頭らしき男が出てくる。
「山田と申します。姉の舞子の身受けに参りました。」軍帽を脱いで丁寧に挨拶する山田。
「約束の通り、4千円は指定の郵便貯金に払い込んであります。」払込証を番頭が確認する。
「確かに。では残金4千円は身受け後に頂きます。」
当時、山田の月給金は200円あまり、合計8千円は約3年分の収入に匹敵する。
番頭はポンポンと手を叩き、店の奥に向って、「舞子太夫のお身受けですぞーーい。」と叫ぶ。
「はーい暫く。」中年の女の声で返事があり、襖を開け、畳の上を人が歩く物音がする。
1分、2分、山田にとっては物凄く長く感じた。泣きじゃくって引き取られていく姉の舞子、
何も出来ない弟の忠。あれから10年の歳月が流れ、いまこうして弟は姉を救い出しにやってきた。
奥からゆっくりと、中年の女に肩を担がれるように付き添われて、赤襦袢を羽織った若い女が
現れた。髪は乱れ、自力で歩けないようだったが、すぐに姉の舞子だと判った。
「舞子姉さん、弟の忠だよ。身受けしたからもう自由だ。」舞子も通用口で待っていた
軍服姿の大男が弟であることに気づいた。抱擁する姉と弟。
しかし、舞子は既に梅毒に冒され、体中に赤黒いゴムのような腫瘍ができていた。
感染から10年近く、ろくに治療も受けずに客を取り働かされ続けた証、梅毒の末期だった。
山田の形相が鬼のように変わった。「おのれ貴様あ、姉をこんな酷い目に合わせて!」
腰のサーベルに手をかけ、番頭の腕を掴んで捻り上げる山田。 
陸軍で猛訓練を積んだ山田にとって、一般人を捻り上げて一刀両断にすることなど、
赤子の手をひねるようなものだった。
「ひええぇぇ、お許しを。」番頭は恐怖のあまり失禁していた。
サーベルで一気に首をはねてやりたい衝動に駆られていた山田を、
正気に戻したのは、姉の言葉だった。
「忠、・・・・もう、いいの。その人のせいじゃない。こうやって・・・会えて・・
自由の身になれただけで、それで充分よ。」

この日本橋人形町界隈の女郎屋では、主に東北地方から身売りされた少女達が働いていた。、
彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、
一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、
年季を明ける率は極度に低いものであった。
まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために
彼女達を購った金額を実家が返却できる事は非常に稀であった。
更にほぼ全員が梅毒に感染し、殆ど治療は受けられなかった。
結果、大半は生涯を女郎屋で終えることとなった。
この背景には、特に東北地方の農民層の貧困が存在していた。

「番頭。五体満足なら残金4千円もやぶさかではないが。」
山田の言葉に失禁の後始末をしながら
番頭が応えた。「ざ、残金は要りません。」
震える手で残金の領収の判をついた証書を山田に渡すと、
そそくさと店の奥に逃げていった。
山田は姉を背負って、堀江屋の通用口を出た。
「何が政界・財界の社交場だ。こんなくだらないクズ同然のもののせいで、
どれだけの人間が苦しんだことか。」
そう言うと、振り向きざまに腰のサーベルを片手で抜いて、門に張り付いている
「堀江屋通用口」表札を真っ二つに斬った。
縁石に落下する表札のカラン・カランと乾いた音が舞子の耳に残った。
その足で、山田は舞子を病院に入院させた。完全に手遅れの状態で、手の施しようもなく、
梅毒が身体のあちこちを破壊する激痛を、麻薬のモルヒネで緩和するだけだった。 
その数ヶ月後の2月26日、あの事件は起こった。


山田は胡坐の上に丸くなって寝ているキョロの額を撫でながら語った。
「あの昭和維新の時は、上官の命令で赤坂の私邸に居る大蔵大臣を襲撃した。
上官の命令には絶対服従だから、そうするしかなかったんだが。
もっとも、お命を頂戴するのには成功したんだがな、
その後の駆け引きや成り行きがまずくて、
軍や政府は、俺達昭和維新の決起軍を叛乱軍として武力で鎮圧することにした。
多勢に無勢、包囲して投降を呼びかけられた。
このままじゃ、みんな武力行使で死刑になっちまう。
本音は皆、政治を腐敗させ、地方の農家は皆悲惨で、食うものにも困って
赤ん坊は殺す、娘は売る、餓死するはの三拍子で瀕死の状態なのに
中央の役人や商人や士族華族は、既得権益でのうのうと
焼け太りの贅沢三昧。
そんな悲惨な世の中にして、責任を何も取らずに贅沢な暮らしを続ける大臣達には
相応の責任を取って貰うのが、大勢の国民の為であり、国民の意思でもある。
もう、責任を取ることは、お命を絶つこと以外、選択の余地がない。
実際に命を頂戴された方々は皆老人で、もう充分に生きた。それなのに
まだ、自分達の既得権益を最優先で温存して、
これから国の発展に尽くそうと、芽吹いている若い命から、可能性を奪い
稔りある未来を全部刈り取ってしまう。
こんな既得権益の権化達は百害あって一利なし、
早々に墓場で土に還って貰うのが世の定めというものだな。
しかし、叛乱軍の判を押された全員がそれを主張したら、全員死刑になってしまう。
皆揃って犬死にでは何の為の昭和維新か判らん。苦肉の策で、
職位の上の将校達は、自分達が騙して命令した事にして、
俺達下士官・兵を原隊に復帰させ、生き延びさせることで
帝國の未来を託したんだ。
その後、俺も近衛師団の同期達も、いろいろとあったが、
大東亜戦争の戦火を潜り抜けて
生き残ったのは、108人のうち俺含めて15人くらいかな。
託された帝國の未来が、この敗戦で米軍がのこのこ来てやりたい放題では、
維新を信じて処刑されていった上官達に何と言っていいのか。」
「そんな事があったの。」 「直人君にはこんな経験させたくないがな。」

山田は小学生の直人が聞いているから、控えめな言葉で話したが、
脳裏に浮かんだ真相は、記憶から消そうとしても決して消えることの無い
深い闇だった。
帝國の維新の為、時の大蔵大臣、高橋是千代を殺害せよと、
近衛歩兵第三聨隊の先陣として、赤坂の大臣私邸に踏み込んだ山田。
そこで見たものは、
贅を尽くした絢爛豪華な邸宅の内外装と家具宝物の数々だった。
これらで、東北や各地の困窮した農民が何千人も救える。
護衛や使用人達を自動小銃とサーベルで脅して黙らせ、
標的の高橋是千代を探す。
そして、邸宅の奥の襖をバタンと蹴飛ばして開けると、絢爛な居室に
愛人らしき若い女数人と戯れる大蔵大臣・高橋是千代がいた。
「関わりの無いものは退出しろ。」山田が拳銃を抜いて女たちに視線をやると
「キャーッ」と黄色い悲鳴を上げて室外へ走り去った。
「何だ、君達は。私を大蔵大臣と知っての狼藉か。」
「問答無用。貴様のようなお爺ちゃんが既得権益を振りかざし、
ごく一部のクソの役にも立たない馬鹿共を肥えさせてるお陰で帝國の大勢の民が
大困窮だ。命を貰おうか。」先陣を切った山田の台詞だった。
山田をはじめ、十数人の歩兵が是千代を取り囲み、小銃を向ける。
「金ならやるぞ、ほらこの通りだ。君達が一生働いても手に出来ない金だ。」
重厚に光り輝く桐箪笥の引き出しを開け、聖徳太子の肖像と菊の紋章の印刷された
百円紙幣の札束をばら撒く是千代。
「そんな紙、ここではケツを拭く役にも立たねえのですが。」
後続で入ってきた将校が言った。
「おい、山田。 君は山形の農家出身だったな。」
「はい。自分は山形の農家出身であります。」
「君からこの前、大切なお姉さんを亡くしたと聞いているが。」
「自分の姉は、15歳の時に、家が困窮し食べるものが無い為に、
泣く泣く女郎屋に奉公に出されました。
そして、11年後に自分が働いた金で身受けしましたが、梅毒を患っていて、
病状は手遅れで廃人同様になっていました。 そして数ヵ月後、亡くなりました。」
山田の目の前には、姉の舞子の最期が浮かんだ。
梅毒が体中を蝕み、多臓器不全を起こし、
モルヒネで意識もうろうとさせなければ、激痛にのた打ち回る状態だった。
忠、忠・・・と弟の名を呼び、息を引き取る姉。普通に生きていれば結婚をして
家庭を築く筈だった。
人生のもっとも輝かしい時期を人間の尊厳を破壊するような環境で奉公し、
病気になってボロ布のように捨てられる。そんな悲劇が日本全国あちこちで
繰り返される。
そして山田と並んで、東北出身で同じような境遇を持つ者何人かは、
小銃を構えながら涙で頬を濡らしていた。
そして、将校は腰の拳銃を抜いて、是千代に向けて引き金を引いた。
「パン」と乾いた音が絢爛な居室に響いた。 
銃弾は是千代の白髪をかすめて、壁に突き刺さっていた。
「この私の銃弾で、高橋是千代を殺害したことにしよう。」
恐怖におののいた是千代の顔が緩んだがそれも一瞬だった。
「死体は、山田をはじめ、東北地方の農家出身の下士官や兵が丁重に葬ることにしよう。
当然。死んでいるのだから、斬ろうが焼こうが好きなようにすることができる。」
将校はニヤリと笑い、山田に視線を寄越した。
山田は腰のサーベルを抜いて、一太刀で是千代の頭を真っ二つに切り裂いた。
姉の仇・・・その想いだけだった。
脳漿と鮮血が飛び散り頭脳を失った胴体が痙攣を起こす。他の兵達の着剣した小銃が一斉に
是千代の頭や胴体に突き刺さり、肉や骨を抉る。
皆、それぞれ、困窮し悲惨な末路を辿った家族を想っていた。
弟になる赤ん坊が生まれてすぐに絞め殺され、姉や妹が売られ、泣きながら女郎屋に引き取られていく、
祖父や祖母が口減らしの為に山奥に入って自ら命を絶つ、ガリガリにやせこけた父や母
・・・お前の私利私欲の為に大勢の人が苦しみ、取り返しのつかない事になっている。
何度でも死んで地獄で詫びて罪を購え、と。
後の報道では、高橋是千代は、急所の心臓を、将校の拳銃が放った1発の銃弾で貫かれて、
死亡し、下士官や兵は殺害に加わらなかった事になった。
そして、昭和維新軍の次の粛清標的は、日本橋人形町界隈をはじめ、帝都各所の
遊郭であり、娘達を救出・開放した後は、営業主や支配人など人道に反する下劣な業で
利益を貪っていた輩を根こそぎ投獄しようと画策していた。
要求が受け入れられない場合は、武力行使も辞さぬ意向だった。
当時は政界・財界の社交場という詭弁極まりない大義名分がまかり通っていたが、
庶民の認識は悲劇の総合発生場でしかなく、帝國を滅ぼす元凶に他ならなかった。

結局、昭和維新は鎮圧され、参加した将校達は死刑や自決して若い命を散らして、
下士官や兵は、大義名分上はお咎め無しとなったが、実際には大東亜戦争で
ほぼ全員が最前線めぐりをさせられ、最も危険な偵察や斥候といった任務に就いた。
山田の同期も次々に最前線で戦死した。
山田は最も過酷な冷遇を受けた。休職処分、延々と生き恥をさらすことだった。
戦地にも行けず、職業軍人の身でありながら、
事実上職務を剥奪されて民間人もどきとして生きる。
悶々鬱々として、何の目標も希望も無いまま過ごす日々。
鍛え抜かれた大柄の体躯は、人々の後ろ指の格好の餌食となった。
故郷の山形には居られなくなり、友人知人のいない宇部の町に移り住んだ山田。
戦況が悪化し、米軍の爆撃機や艦載機が飛来して、武器もなく抵抗もできない民間人に
向けて空爆や機銃掃射のやりたい放題。
それを唇を噛んでじっと耐えることしかできなかった。
潔く最前線で戦って散ったほうがずっとずっと苦しみは少なかった。
そして大東亜戦争の終戦を迎えた。 
結局、昭和維新はクーデター未遂事件として片付けられ、
粛清をうまく逃れたクソの役にも立たない既得権益の権化達のせいで、帝國の主要都市は
空爆で破壊し尽くされ、壊滅状態になってから戦争を止めて無条件降伏という最悪の結末を迎えた。

山田の脳裏に浮かんだ闇が一時的に収束すると同時に、直人の声が耳に入ってきた。
「でも軍隊の暴力でしか解決する事ができなかったの?」
「そういう時代だったんだ。 敗戦で皆揃って既得権が消滅して、
裸一貫から焼野原からの復興だから、2、30年くらいは、不適格な人達が
既得権益を振りかざして政治を腐敗させる事などはないかもしれない。
しかし、その後、既得権益の権化達は、きっと復活するだろう。世界恐慌もやってくるだろう。
その時は、直人君がそういう奴がのさばって、日本全国の皆を不幸に導くことを阻止しなければ
ならない。 将来は内閣総理大臣になるんだろう?」
そう言って、山田は直人の額を撫でた。
「僕、内閣総理大臣になります。」
「偉いぞ。」
山田と直人、互いの右腕の拳がパチンと音を立てて突き合わされた。

山田は、己の実現できなかった昭和維新の希望を直人に託した。
直感的に、まだ小さい力だが、この男ならそれが出来る、
そう確信させる文書や言葉に現せない何かが、直人にはあった。

 

第22章 其の参 あとがき

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「其の参」本編はここで終了ですが、
この小説「直人伝」は、モデルにした
「直人氏」のプロフィールに沿った形で、
フィクションのイベントを組んで、「其の四」以降も、
順次ストーリーを進めていく予定です。
大前提として、主人公「菅原直人」は苦難の道に打ち克って、
活路を開く、不屈の闘志を持った
ヒーローとして描きます。
お読み読いただいた感想や、本作のアイディア等
アップしていただけると幸いです。 

若月明峰
作家:若月 明峰
小説 「直人伝」 ~其の弐~
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