小説 「直人伝」 ~其の弐~

小説 「直人伝」 其の参 
             作 若月 明峰

第18章    其の参 まえがき

本作は、小説「直人伝」の第3編です。
主人公の「菅原直人」は、思春期前期でどんどん冒険をしたいお年頃。
「直人伝」・「其の弐」をお読みになってから、
本編をお楽しみいただく事をお薦め致します。

 

第19章 2・26宇部の大豪雪

昭和33年2月、直人は小学校5年生の3学期を迎え、
あと1ヵ月半で進級だった。
普段は冬でも比較的温暖な瀬戸内海に面した宇部の町を、
猛烈な寒波が襲った。
朝から父の寿雄がそわそわして、「NHK山口ラジオ放送」
に耳を傾ける。
「天気予報では大雪と言っとる。みんなきゅーつけろ。」
大雪の予報で、自転車通勤を諦め、徒歩で出勤する寿雄。
続いて、同じく自転車通学を諦め、徒歩で学校に向かう真子。
普段、縁側か屋根の上にいるキョロも、今日は
朝から刺すような寒さのせいか、炬燵の上で丸くなっている。
「学校、行ってきまーす。」「雪が降るから気をつけるのよ。」
「ニャオン」
直人が翔子とキョロに見送られて家の玄関を出ると、
丁度、一面の鉛色の空から、雪が落ちてきた。
直人が落ちてくる雪を両手を合わせてすくい上げる。
繊細な六角形をした雪の結晶が、寒さで赤くなった手の中でじわりと溶けて
水になる。「雪ってよくみると綺麗な結晶なんだなあ。」
道を歩きながら雪の観察をする直人。
同級生で釣り仲間の茂も、同じように立ち止まって、空から降ってくる雪を
口をぽかんと開けて眺めていた。
学校に着いて算数の授業が始まっても、
先生、級友達、皆が教室の窓から見える
降りしきる雪が気になっていた。大粒のぼたん雪が途切れることなく舞い、
雪はいっこうに止む気配はなかった。 
神原小学校は木造校舎で、気密性は無いに等しく、
教室の中は容赦なく隙間風が吹き込んでくる。休み時間は皆が教室の
ダルマストーブの周りに寄り添って暖を取っていた。
ダルマストーブの長所は、何といっても火力である。
前面に1箇所、耐熱ガラスで
覆われた覗き窓があり、中で黄色くぼうぼうと燃えさかる炎が確認できる。
この炎を見るだけでも温まった気分になる。 
逆に、難点は排煙するためのパイプと煙突が必要であり、
ストーブと排煙パイプの周りが高温になることだ。間違って触ると火傷して
「あちちちち」となる。小学生だから、衣服がストーブなどに擦れて、
焦げることは日常茶飯事だった。
「直人君、寒いね」同級生の如月あかりが話しかけてきた。
当時、女子の名前は○子や○美などが大多数で「あかり」などといった名前は
特殊で前例がないと言っても過言ではなかった。
ややもすると、照明のほうの
あかりと混同してしまうので、通称、姓の方の「如月」で通っていた。
更に、あかりはやたら成長が良く、直人よりも背が高く、
同い年なのに2年ぐらい年上に見える。
しかも直人の苦手とする算数や理科の成績が良い。
級友とはいえ、直人にとっては身近にいる、最も不思議な人間の1人だった。
「うん。寒いけど、雪も自然の恵みだから、これを使って、
みんなで面白い遊びが出来ないか、考えてるんだ。」
と言いつつも「へっくしょん。」
とクシャミをする直人。
「やせ我慢は良くないよ。」ポケットからちり紙を出して直人に渡すあかり。
「如月、ありがとう。」といって、チーンと鼻をかむ直人。
あかりも、国語や社会の勉強が抜群に出来て、
いつも首からゴム紐で括り付けた真鍮のブレスレットを
下げている直人が気になっていた。
「こういう時は、ウチからスルメを貰ってきて、
ストーブで焼いて食って寒さを吹き飛ばす。」
「勝手に家に帰っちゃダメじゃないの?」
「まあ、如月の言う通りかなあ、それじゃあ運動して、寒さを吹っ飛ばす。」
雪が積もって真っ白に雪化粧した校庭に飛び出そうとする直人。
しかし、その前に学校中のスピーカーから、
カンコロリンと非常放送のメロディが流れた。
「ゴホン、ズズ・・・児童はすぐに教室に戻ってください。繰り返します、
児童はすぐに教室に戻ってください」コロリン放送終了のメロディが流れ、
最後にスピーカーのブチッと電源が切れる音が聞こえた。
肩透かしを食らって教室に戻ってきた直人。くすくすと女子の笑い声が聞こえる。
「今日は大雪の為、これにて放課にします。天気予報によると、
これからどんどん雪が降り続くそうです。くれぐれも屋根の下や川など危険な
場所には近づかないようにしましょう。」
担任教師の明石が、教壇上からクラス全員に向けて伝えた。
「はーい。」と言って、そそくさと校門を出て家に帰る直人。
真昼でも氷点下を記録し、絶え間なく雪の降り続く宇部の町の空気は、
直人にとっても寒冷の極みだったが、既に直人はこの雪を利用した、
面白い遊びを考え付いていた。
「ただいま。」といって、学用品を詰めた布製のリュックをドスンと居間において、
「いってきます。」とんぼ帰りで外に飛び出していく直人。
炬燵で暖を取っている翔子の「大雪なんだから気をつけるのよ。」
という声が後ろから追いかけてくる。次に、炬燵に潜り込んでいたキョロが、
直人の声と気配に反応して、炬燵布団の間から飛び出して直人についてくる。
社宅の敷地の前には、耕作を終え水を抜いた田圃が広がる。
だだっ広くまっ平らな田圃は雪の豊富な原っぱになっていた。
すぐに雪だるまを作り始める直人。
握り拳ほどの雪の玉を転がしていくと、あっという間に直径1メートルの真っ白な
「大玉」が出来上がる。
キョロは雪の上で丸くなり、じっと直人の方を見ている。
そのうちに、直人が雪だるまを作っているのを見て、社宅の子供達や級友達もわいわい、
がやがやと田圃に集まって、思い思いに雪だるまを作り始めた。
「これは、きっと天の恵みなんだよ。」そう思いながら、
2つの大玉を縦に重ねて、柿の小枝で手と口を作り、南天の赤い実で目、
蜜柑の皮で鼻を作り、雪だるまを完成させる直人。
その間にも雪はだんどんと降り積もっていた。
集まってきた仲間達も、次々に雪だるまを完成させていった。
「さすが茂、でかいなあ、これ。」
直人が感心するくらい、体格が良く、体力自慢の同級生、
茂の作った雪だるまは大きかった。
一方、芸的とも言える作品は、社宅の隣の家に住む佳ちゃんの
「まねき猫」だった。
きちんと、耳や鼻を雪で整形して、右手で「招く」ポーズまで出来上がっている。
「直人君、これ、キョロちゃんに似せて作ったんだけど。」
佳ちゃんが話しかけてきた。
「じゃあ、となりにキョロを置いてみよう。」雪のまねき猫の隣に
キョロを抱きかかえて持ってくる直人。キョロにもまねき猫のポーズをとらせるが、
寒いのですぐに4つの足を閉じて丸くなるキョロ。
佳ちゃんが「キョロちゃんは猫だから寒さに弱いんだよねっ。」
といって、キョロを
抱きかかえて、白・黒・茶の体毛に積もった雪を払い落とす。
キョロは佳ちゃんのお腹の辺りで暖を取り、喉をゴロゴロ鳴らしている。
普段、虎のようにのしのしと歩き、直人の前では弱いところを見せない
キョロも寒さの中での佳ちゃんの温もりには、すぐに懐柔された。
そうこうしているうちに、夕刻近く、辺りは薄暗くなり、
雪は強さを増して降り続き、止む気配がない。
「みんな、そろそろ帰ろうよ。」「そうね。」「帰ろ、帰ろ」
直人の一言で仲間達は、各々の家に向かって歩き始めた。
降り続く雪の中、社宅の前の田圃には皆が作った雪だるまが、
ずらりと並んでいた。
その日の晩も雪は降り続いていたが、直人もキョロも雪遊びで動き回った身体を
充分に休めるが如く熟睡していた。
翌朝、直人が窓を開けて外を見ると、どんよりとした鉛色の空と、冷たい風は昨日と
変わりなかった。しかし、昨日皆で拵えた雪だるまのある田圃を見ると、
雪だるまが半分になっているように見えた。 
「何だろう。」ゴム長靴を履き、
ガラガラと玄関の引き戸を開けて雪だるま達に近寄る直人。
すぐに判った。それは半分になったのではなく、
雪が積もって下半分が隠れていたのだ。
「埋まっちゃったのか・・・。」そう呟いている間にも
降ってきた雪がどんどん積み重なっていく。
直人が天を仰いでいると、家の中からジリリリリンと黒電話のなる音が耳に入り、
その後、姉の真子も玄関から出てきた。
「直人、いいお知らせよ。」
「姉ちゃん、なに?」
「今日、今、電話で大雪で学校閉鎖って連絡きたわよ。」
「バンザーイ。今日は休みだ!」
朝食を済ませると、炬燵の上で丸まっているキョロの頭を撫でて、
早速田圃に雪遊びに出掛ける直人。
皆、自分の作った雪だるまが気になるらしく、社宅の子供達や級友達も田圃に集まり始めた。
「雪がいっぱい増えたから、みんなで力を合わせて、もっと大きいのを作ろう。」
直人の呼びかけに皆が頷く。直人は帳面に鉛筆でスケッチを始め、
数分でサラサラと書き上げた。
皆が、直人のスケッチを覗き込む。
「なっ、カッコいいだろ。」
「うん。作る、作る。」
「でも、こんなの、できるのかなあ・・・」
「大丈夫、みんなでやれば何とかなる。」
直人達は手分けをして、大きな雪球を何個も転がして作り、雪をかき集めてスコップで整形した。
数時間後それは完成し、戦艦、戦闘機、戦車 3つの雪像が田圃に並んだ。
ちゃんと日の丸を入れて、絵の具で赤く塗るこだわりもあり、
小学生の子供の作品としては秀逸だった。
特に、戦闘機は直人が精を出して、零戦風に仕上げ、魚雷も胴体下に再現した会心の作だった。
君が代も合唱し、田圃は、子供達のミニ軍事パレードの会場と化していた。
ここで、如月あかりが何やら、大人びた事を言い出した。
「直人君、こんなお古の戦闘機もうないよ。」
「世界最強の零戦だぞ」
「今はジェット機の時代なの。」
そう言って、あかりは鉛筆を取って、直人の零戦スケッチの横に、米軍のF4戦闘機を描いた。
先端が尖り、シャープでスマートな機体にミサイルを装備した最新戦闘機と
20年前の零戦を比較すると、その差は歴然だった。
「如月って物知りだなあ。」茂がスケッチを覗き込んで言った。

 


第20章 雪球戦闘

「如月の描いたこれ、みんなで、作ってみようよ。」
直人はあかりのスケッチしたF4戦闘機を両手で掲げて言った。
「その代わり・・・」「わかってる。翼には日の丸でしょ。」
直人とあかりが視線を合わせてニコリと微笑んだ。
茂、佳ちゃん皆がスコップや手で雪をかき集め始めた。
その時だった。何やらドロドロという音がこちらに近づいてくる。
雪景色に馴染まない黒い塊に白で書いた星印、おなじみの進駐軍のジープだった。
皆、何事もなくジープが通り過ぎる事を願った。
しかし、ジープの米兵達は、直人達が作った戦艦、戦闘機、戦車 3つの雪像に気づき、
興味を示した。ドロドロという音がピタリと止まり、
米兵3人がジープから降りて直人達のほうにやってきた。
「Hey!Jap!」(おい、日本人)
「Oh! It's an interesting snow sculpture.」(面白い雪像だな。)
クチャクチャとガムを噛みながら腕組みをして直人達ににじり寄ってくる米兵。
小学5年生の直人には、間近で見る米兵達が、そびえ立つ巨人のように見えた。
「困ったなあ、米兵の使う英語とかいう言葉は、わからな・・・」直人のつぶやきを
遮るようにあかりが突出して言った。
「Battleships, fighterplanes, tanks, to difense the GreatEmpireOfJapan.」
(戦艦、戦闘機、戦車、大日本帝國を守る為のものよ。)
「えっ、如月、英語とかいう言葉を話せるのか?」
あかりは、横目で直人を見て頷いた。
「The English-speaking lass.
 Apparently, as soon as you release the first Japanese Seems to be revived militarism.
 Moreover, from among the children, and this play is That must have been born with the DNA of militarism.」
(英語を話すお嬢ちゃんか。
どうやら、日本人は目を放すとすぐに軍国主義が復活するようだな。
しかも、子供のうちから、こんな遊びをするとは、軍国主義のDNAを生まれつき持っているに違いない。)
「何て言っているの?」
「私達を子供の軍国主義者だって。」
「Crash the statue now. Otherwise arrest.」
米兵の一人がしゃがみ込んで、ニヤリと笑いながら言った。
「みんな、聞いて。私達の作った雪像を今すぐ壊さないと逮捕だって。」
あかりが振り向いて伝えた。
「嫌よ。そんなの。みんなでせっかく作ったんじゃない。」
佳ちゃんが泣きそうな顔で言った。
「No!」あかりに続いて、直人をはじめ、皆が口々に叫んだ。
「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」「ノー!」
直人達のノーの大合唱に米兵達の表情が変わった。
「Do not cross the child arrested. And return it to break.」
(子供を逮捕しても仕方ない。それを壊して帰るとするか。)
米兵の1人が戦艦の像にパンチを食らわせ、艦橋が粉々に砕け散った。
「俺達が作ったのを壊すつもりだぞ、直人。」茂が直人の方をじっと見る。
「みんな、戦闘準備!目標米兵!」直人が雪を固く握って雪球を拵えると、
皆も同じように雪球を拵えた。
「撃てえっ!!!」直人の声が白銀の田圃にこだました。
一斉に子供達の雪球が3人の米兵めがけて
びゅんびゅんと飛んでいく。
直人の腕力はさほど強くないが、やたら体格の良い茂とあかりの雪玉は、
大人でもまともに食らうと後退せざるを得ないほどのスピードと威力だった。
佳ちゃんが次々に雪球を作り、茂とあかりの強肩が米兵の顔面めがけて雪球を撃ち込む。
すぐに米兵達は顔を真っ赤にして怒り始めた。
「Damn, evilkids be arrest!!」(悪ガキ共め!逮捕する!)
米兵の1人が腰のフォルダから拳銃を引き抜こうとしたその時だった。
「Stop It! Turn Back!」(やめるんだ!後ろに下がれ!)
後ろから発せられた1人の男の声で、米兵達3人の表情が一瞬で服従に変わり、後退する。
直人達の雪球攻撃も停戦となった。
男の前で3人は敬礼する。
「Handgun or against children? The first attack would you guys yet. The Army's shame!」
(子供相手に拳銃か? しかも先に攻撃したのは君たちだろう。 軍の恥だ!)
「I'm sorry. My subordinates had terrible rude.・・・・Naoto Sugawara?」
(ごめん。私の部下が酷い無礼をしたようだ。・・・・菅原直人君じゃないか。)
「あれっ、ジョージさん。」
ジョージとの初対面から2年近く経っていた。ジョージは米国軍の制服姿で、胸に光る
階級章の星が米兵3人よりずっと立派なものだった。 直人も子供ながらに、その意味が
理解できた。
直人の首から下がっているゴム紐で括られた真鍮のブレスレットが雪の合間の日差しを
受けてキラキラ輝く。
「ざっ、ふぉーす おぶ ゆわーず じゃすてぃす あんど おーだー、ねばーぎぶあっぷ!」
(The Force Of Yours, Justice and Order. Never Give Up!!)
直人が日本語なまりの発音で、父から教えてもらって、
やっと覚えたブレスレットに刻まれた言葉を唱えた。
「O.K. Good!」(その通りだ。やるじゃないか。)
すぐにジョージの青い瞳は直人の隣でファイティング・ポーズをとっている
あかりに視線を移した。
「Marvel, your friends?」(マーベル、君の仲間達なのか?)
「I'm not Marvel. My name is Kisaragi-Akari.」(マーベルと呼ばないで、私は如月あかりなの。)
「Sent home from today, please return.」(送っていくから、今日はもう、家に帰ろう。)
諦め顔でうつむき、黙ってジョージの車に乗り込む。
直人も佳ちゃんも、茂も、皆きょとんとして、あかりを乗せたジョージの2枚ドアの
黒っぽいかぶと虫のような乗用車が、バタバタバタッという独特のエンジン音を奏でて
走り去るのを見送った。
この頃、乗用車といえば米軍か金持ちしか乗ることのできない、高嶺の花だった。
直人は、あかりとジョージの顔立ちが少し似ている事に気づき、あかりという名前があるのに
マーベルと呼ばれているのは、なぜなんだろうと、疑問に思った。
足元に寄って来て寒さで丸くなっているキョロを抱きしめながら、どうやら大人の事情らしいから
今まで通り、あかりに接しようと考える直人であった。

 

第21章 22年前の2・26

「ただいまあ。」直人が社宅に帰ってくると、玄関の見慣れない大きな靴に気づいた。
「お客さん?」「うん。父さんの友達の、山田さんが来てるの。」直人の問いに真子が応えた。
「おう、直人、雪遊びから帰ってきたんじゃろ、山田が来ておるから、
ちーと顔を見せろ。」
直人は奥の居間で、座布団に座り番茶を啜りながら談義に興じている寿雄と山田の所に
顔を出した。「こんにちは。」「おお、直人君、大きくなったなあ。」
山田の大きなごつい手が
直人の頭を撫でる。 「田圃の軍艦、戦闘機、戦車なかなかいい出来じゃないか。それに、
さっきの雪合戦も、そこの窓から見物させてもらった。勇敢じゃないか。
もっとも、子供の雪遊びにいちゃもん付けて隊長に咎められる米兵ってのは、
所詮その程度のものでしかないがな。」
「えへへ。」直人が寿雄と山田の間に座ると、「はいどうぞ。」と
翔子が直人の分の番茶を、湯飲み茶碗に入れて持ってきた。
直人は熱い番茶を啜り一息ついた。
「今日は2月26日か。あのときも帝都は雪だった事を思い出すな。」
窓にちらつく雪をじっと見ながら山田がポツリと言った。
「二・二六事件ね。」居間から出ようとした翔子が振り返って言った。
「あの時、俺は22歳。丁度22年前か。」
「なに?二・二六事件って。」「これから学校の社会科で習うんだろうが、
な。 まあ、俺の中では昭和維新というところかな。」

二・二六事件は、1936年(昭和11年)2月26日から2月29日にかけて、
日本の陸軍皇道派の影響を受けた青年将校らが1483名の兵を率い、
「昭和維新断行・尊皇討奸」を掲げて起こしたクーデター事件である。
大日本帝国陸軍内の派閥の一つである皇道派の影響を受けた一部青年将校ら
(20歳代の隊付の大尉から少尉が中心)は、かねてから「昭和維新・尊皇討奸」
をスローガンに、武力を以て元老重臣を殺害すれば、天皇親政が実現し、
彼らが政治腐敗と考える政財界の様々な現象や、
農村の困窮が収束すると考えていた。彼らは、この考えの下、
2月26日未明に決起し、近衛歩兵第3連隊、歩兵第1連隊、歩兵第3連隊、野戦重砲兵第7連隊らの
部隊を指揮して内閣総理大臣や政府重臣の殺害を図った。

「山田のおじさんは、それに加わったの?」
「ああ。そうだ。」山田がにこやかに直人の顔を見ながら言った。
しかし、翔子は渋い表情を見せた山田の顔を見逃さなかった。
「あの時は、本当に貧しい人が多かったんだ。生まれたばかりの赤ん坊を
食糧がないから育てられないといって、殺す。せっかく育てた年頃の女の子を
女郎屋に売る。 ひどいもんだ。 でも、やりたくてやった訳じゃない。
生きていくには仕方なかった。みんな泣く泣くそうしなきゃならなかった。
俺が直人君の年の頃に、俺の姉さんは女郎屋に行った。」
「女郎屋って何?どんな所?」「いいから直人は黙って聞いていなさい。」
11歳の直人が女郎屋が何たるかを知る由も無い。
「俺は山形の出身だが、親が体格よく生んで育ててくれたことや、
隣の家の末太郎君が、先に帝國陸軍で出世していた縁もあって、職業軍人として
帝國陸軍の近衛歩兵第三聯隊に所属していた。 末太郎君が、
帰ってくる度にそそのかすんだよ。俺は末っ子で田圃や屋敷も劣ってたが、
職業軍人としての給金が良いお陰で、親孝行や子にたらふく飯を食わせる生活ができる
ってな。近衛師団ってのは天皇と皇居を守る部隊だから徴兵じゃなく志願と選抜で
入隊が決まる。一生懸命勉強したのと、末太郎君が軍部に働きかけてくれたお陰で
何とか入隊を果たして、贅沢をせずに金を貯めて、
姉さんを女郎屋から身受けしようとしたんだ。」
「身受けって何?」「難しいこときくなあ。」山田が困っていると翔子が答えた。
「お給金を先に貰って、年季奉公という形で山田さんのお姉さんは、住み込みで雇われたの。
だから、まだ働いていない分の、お給金を返せば、雇い主の所で働かなくて済むの。
これが身受けっていうの。わかる?」
「うん。で、お姉さんは身受けできたの?」
「それがな、働いている時に梅毒という伝染病に感染していて、
身受けして直ぐに治療で入院させたんだ。」
「梅毒ってなに?梅干しの毒が伝染するの?」
「梅干しや梅の木とは関係ない病気だ、6年生になったら習うから楽しみにとっとけ。」
今度は寿雄が回答した。
「で、お姉さんは良くなったの。」「ああだいぶ長く入院したがな。」
そう言って、山田は番茶をズズッと飲み干した。良くなったというのは大嘘だった。
山田の脳裏に浮かんだのは、あの時の光景だった。
山田の名は忠、姉の名は舞子だった。
山田は近衛師団の軍服に身を包み、郵便貯金の払込証を持ち、姉が身売りされたという、
日本橋人形町の堀江屋という女郎屋を訪ねた。通用口からチリンと呼び鈴を鳴らし、
中から番頭らしき男が出てくる。
「山田と申します。姉の舞子の身受けに参りました。」軍帽を脱いで丁寧に挨拶する山田。
「約束の通り、4千円は指定の郵便貯金に払い込んであります。」払込証を番頭が確認する。
「確かに。では残金4千円は身受け後に頂きます。」
当時、山田の月給金は200円あまり、合計8千円は約3年分の収入に匹敵する。
番頭はポンポンと手を叩き、店の奥に向って、「舞子太夫のお身受けですぞーーい。」と叫ぶ。
「はーい暫く。」中年の女の声で返事があり、襖を開け、畳の上を人が歩く物音がする。
1分、2分、山田にとっては物凄く長く感じた。泣きじゃくって引き取られていく姉の舞子、
何も出来ない弟の忠。あれから10年の歳月が流れ、いまこうして弟は姉を救い出しにやってきた。
奥からゆっくりと、中年の女に肩を担がれるように付き添われて、赤襦袢を羽織った若い女が
現れた。髪は乱れ、自力で歩けないようだったが、すぐに姉の舞子だと判った。
「舞子姉さん、弟の忠だよ。身受けしたからもう自由だ。」舞子も通用口で待っていた
軍服姿の大男が弟であることに気づいた。抱擁する姉と弟。
しかし、舞子は既に梅毒に冒され、体中に赤黒いゴムのような腫瘍ができていた。
感染から10年近く、ろくに治療も受けずに客を取り働かされ続けた証、梅毒の末期だった。
山田の形相が鬼のように変わった。「おのれ貴様あ、姉をこんな酷い目に合わせて!」
腰のサーベルに手をかけ、番頭の腕を掴んで捻り上げる山田。 
陸軍で猛訓練を積んだ山田にとって、一般人を捻り上げて一刀両断にすることなど、
赤子の手をひねるようなものだった。
「ひええぇぇ、お許しを。」番頭は恐怖のあまり失禁していた。
サーベルで一気に首をはねてやりたい衝動に駆られていた山田を、
正気に戻したのは、姉の言葉だった。
「忠、・・・・もう、いいの。その人のせいじゃない。こうやって・・・会えて・・
自由の身になれただけで、それで充分よ。」

この日本橋人形町界隈の女郎屋では、主に東北地方から身売りされた少女達が働いていた。、
彼女達は年季奉公という形で働かされていたが、
一定の年限を働いても郷里に帰ることはほとんど無く、
年季を明ける率は極度に低いものであった。
まして、彼女達は貧農出身者が多かったがために
彼女達を購った金額を実家が返却できる事は非常に稀であった。
更にほぼ全員が梅毒に感染し、殆ど治療は受けられなかった。
結果、大半は生涯を女郎屋で終えることとなった。
この背景には、特に東北地方の農民層の貧困が存在していた。

「番頭。五体満足なら残金4千円もやぶさかではないが。」
山田の言葉に失禁の後始末をしながら
番頭が応えた。「ざ、残金は要りません。」
震える手で残金の領収の判をついた証書を山田に渡すと、
そそくさと店の奥に逃げていった。
山田は姉を背負って、堀江屋の通用口を出た。
「何が政界・財界の社交場だ。こんなくだらないクズ同然のもののせいで、
どれだけの人間が苦しんだことか。」
そう言うと、振り向きざまに腰のサーベルを片手で抜いて、門に張り付いている
「堀江屋通用口」表札を真っ二つに斬った。
縁石に落下する表札のカラン・カランと乾いた音が舞子の耳に残った。
その足で、山田は舞子を病院に入院させた。完全に手遅れの状態で、手の施しようもなく、
梅毒が身体のあちこちを破壊する激痛を、麻薬のモルヒネで緩和するだけだった。 
その数ヶ月後の2月26日、あの事件は起こった。


山田は胡坐の上に丸くなって寝ているキョロの額を撫でながら語った。
「あの昭和維新の時は、上官の命令で赤坂の私邸に居る大蔵大臣を襲撃した。
上官の命令には絶対服従だから、そうするしかなかったんだが。
もっとも、お命を頂戴するのには成功したんだがな、
その後の駆け引きや成り行きがまずくて、
軍や政府は、俺達昭和維新の決起軍を叛乱軍として武力で鎮圧することにした。
多勢に無勢、包囲して投降を呼びかけられた。
このままじゃ、みんな武力行使で死刑になっちまう。
本音は皆、政治を腐敗させ、地方の農家は皆悲惨で、食うものにも困って
赤ん坊は殺す、娘は売る、餓死するはの三拍子で瀕死の状態なのに
中央の役人や商人や士族華族は、既得権益でのうのうと
焼け太りの贅沢三昧。
そんな悲惨な世の中にして、責任を何も取らずに贅沢な暮らしを続ける大臣達には
相応の責任を取って貰うのが、大勢の国民の為であり、国民の意思でもある。
もう、責任を取ることは、お命を絶つこと以外、選択の余地がない。
実際に命を頂戴された方々は皆老人で、もう充分に生きた。それなのに
まだ、自分達の既得権益を最優先で温存して、
これから国の発展に尽くそうと、芽吹いている若い命から、可能性を奪い
稔りある未来を全部刈り取ってしまう。
こんな既得権益の権化達は百害あって一利なし、
早々に墓場で土に還って貰うのが世の定めというものだな。
しかし、叛乱軍の判を押された全員がそれを主張したら、全員死刑になってしまう。
皆揃って犬死にでは何の為の昭和維新か判らん。苦肉の策で、
職位の上の将校達は、自分達が騙して命令した事にして、
俺達下士官・兵を原隊に復帰させ、生き延びさせることで
帝國の未来を託したんだ。
その後、俺も近衛師団の同期達も、いろいろとあったが、
大東亜戦争の戦火を潜り抜けて
生き残ったのは、108人のうち俺含めて15人くらいかな。
託された帝國の未来が、この敗戦で米軍がのこのこ来てやりたい放題では、
維新を信じて処刑されていった上官達に何と言っていいのか。」
「そんな事があったの。」 「直人君にはこんな経験させたくないがな。」

山田は小学生の直人が聞いているから、控えめな言葉で話したが、
脳裏に浮かんだ真相は、記憶から消そうとしても決して消えることの無い
深い闇だった。
帝國の維新の為、時の大蔵大臣、高橋是千代を殺害せよと、
近衛歩兵第三聨隊の先陣として、赤坂の大臣私邸に踏み込んだ山田。
そこで見たものは、
贅を尽くした絢爛豪華な邸宅の内外装と家具宝物の数々だった。
これらで、東北や各地の困窮した農民が何千人も救える。
護衛や使用人達を自動小銃とサーベルで脅して黙らせ、
標的の高橋是千代を探す。
そして、邸宅の奥の襖をバタンと蹴飛ばして開けると、絢爛な居室に
愛人らしき若い女数人と戯れる大蔵大臣・高橋是千代がいた。
「関わりの無いものは退出しろ。」山田が拳銃を抜いて女たちに視線をやると
「キャーッ」と黄色い悲鳴を上げて室外へ走り去った。
「何だ、君達は。私を大蔵大臣と知っての狼藉か。」
「問答無用。貴様のようなお爺ちゃんが既得権益を振りかざし、
ごく一部のクソの役にも立たない馬鹿共を肥えさせてるお陰で帝國の大勢の民が
大困窮だ。命を貰おうか。」先陣を切った山田の台詞だった。
山田をはじめ、十数人の歩兵が是千代を取り囲み、小銃を向ける。
「金ならやるぞ、ほらこの通りだ。君達が一生働いても手に出来ない金だ。」
重厚に光り輝く桐箪笥の引き出しを開け、聖徳太子の肖像と菊の紋章の印刷された
百円紙幣の札束をばら撒く是千代。
「そんな紙、ここではケツを拭く役にも立たねえのですが。」
後続で入ってきた将校が言った。
「おい、山田。 君は山形の農家出身だったな。」
「はい。自分は山形の農家出身であります。」
「君からこの前、大切なお姉さんを亡くしたと聞いているが。」
「自分の姉は、15歳の時に、家が困窮し食べるものが無い為に、
泣く泣く女郎屋に奉公に出されました。
そして、11年後に自分が働いた金で身受けしましたが、梅毒を患っていて、
病状は手遅れで廃人同様になっていました。 そして数ヵ月後、亡くなりました。」
山田の目の前には、姉の舞子の最期が浮かんだ。
梅毒が体中を蝕み、多臓器不全を起こし、
モルヒネで意識もうろうとさせなければ、激痛にのた打ち回る状態だった。
忠、忠・・・と弟の名を呼び、息を引き取る姉。普通に生きていれば結婚をして
家庭を築く筈だった。
人生のもっとも輝かしい時期を人間の尊厳を破壊するような環境で奉公し、
病気になってボロ布のように捨てられる。そんな悲劇が日本全国あちこちで
繰り返される。
そして山田と並んで、東北出身で同じような境遇を持つ者何人かは、
小銃を構えながら涙で頬を濡らしていた。
そして、将校は腰の拳銃を抜いて、是千代に向けて引き金を引いた。
「パン」と乾いた音が絢爛な居室に響いた。 
銃弾は是千代の白髪をかすめて、壁に突き刺さっていた。
「この私の銃弾で、高橋是千代を殺害したことにしよう。」
恐怖におののいた是千代の顔が緩んだがそれも一瞬だった。
「死体は、山田をはじめ、東北地方の農家出身の下士官や兵が丁重に葬ることにしよう。
当然。死んでいるのだから、斬ろうが焼こうが好きなようにすることができる。」
将校はニヤリと笑い、山田に視線を寄越した。
山田は腰のサーベルを抜いて、一太刀で是千代の頭を真っ二つに切り裂いた。
姉の仇・・・その想いだけだった。
脳漿と鮮血が飛び散り頭脳を失った胴体が痙攣を起こす。他の兵達の着剣した小銃が一斉に
是千代の頭や胴体に突き刺さり、肉や骨を抉る。
皆、それぞれ、困窮し悲惨な末路を辿った家族を想っていた。
弟になる赤ん坊が生まれてすぐに絞め殺され、姉や妹が売られ、泣きながら女郎屋に引き取られていく、
祖父や祖母が口減らしの為に山奥に入って自ら命を絶つ、ガリガリにやせこけた父や母
・・・お前の私利私欲の為に大勢の人が苦しみ、取り返しのつかない事になっている。
何度でも死んで地獄で詫びて罪を購え、と。
後の報道では、高橋是千代は、急所の心臓を、将校の拳銃が放った1発の銃弾で貫かれて、
死亡し、下士官や兵は殺害に加わらなかった事になった。
そして、昭和維新軍の次の粛清標的は、日本橋人形町界隈をはじめ、帝都各所の
遊郭であり、娘達を救出・開放した後は、営業主や支配人など人道に反する下劣な業で
利益を貪っていた輩を根こそぎ投獄しようと画策していた。
要求が受け入れられない場合は、武力行使も辞さぬ意向だった。
当時は政界・財界の社交場という詭弁極まりない大義名分がまかり通っていたが、
庶民の認識は悲劇の総合発生場でしかなく、帝國を滅ぼす元凶に他ならなかった。

結局、昭和維新は鎮圧され、参加した将校達は死刑や自決して若い命を散らして、
下士官や兵は、大義名分上はお咎め無しとなったが、実際には大東亜戦争で
ほぼ全員が最前線めぐりをさせられ、最も危険な偵察や斥候といった任務に就いた。
山田の同期も次々に最前線で戦死した。
山田は最も過酷な冷遇を受けた。休職処分、延々と生き恥をさらすことだった。
戦地にも行けず、職業軍人の身でありながら、
事実上職務を剥奪されて民間人もどきとして生きる。
悶々鬱々として、何の目標も希望も無いまま過ごす日々。
鍛え抜かれた大柄の体躯は、人々の後ろ指の格好の餌食となった。
故郷の山形には居られなくなり、友人知人のいない宇部の町に移り住んだ山田。
戦況が悪化し、米軍の爆撃機や艦載機が飛来して、武器もなく抵抗もできない民間人に
向けて空爆や機銃掃射のやりたい放題。
それを唇を噛んでじっと耐えることしかできなかった。
潔く最前線で戦って散ったほうがずっとずっと苦しみは少なかった。
そして大東亜戦争の終戦を迎えた。 
結局、昭和維新はクーデター未遂事件として片付けられ、
粛清をうまく逃れたクソの役にも立たない既得権益の権化達のせいで、帝國の主要都市は
空爆で破壊し尽くされ、壊滅状態になってから戦争を止めて無条件降伏という最悪の結末を迎えた。

山田の脳裏に浮かんだ闇が一時的に収束すると同時に、直人の声が耳に入ってきた。
「でも軍隊の暴力でしか解決する事ができなかったの?」
「そういう時代だったんだ。 敗戦で皆揃って既得権が消滅して、
裸一貫から焼野原からの復興だから、2、30年くらいは、不適格な人達が
既得権益を振りかざして政治を腐敗させる事などはないかもしれない。
しかし、その後、既得権益の権化達は、きっと復活するだろう。世界恐慌もやってくるだろう。
その時は、直人君がそういう奴がのさばって、日本全国の皆を不幸に導くことを阻止しなければ
ならない。 将来は内閣総理大臣になるんだろう?」
そう言って、山田は直人の額を撫でた。
「僕、内閣総理大臣になります。」
「偉いぞ。」
山田と直人、互いの右腕の拳がパチンと音を立てて突き合わされた。

山田は、己の実現できなかった昭和維新の希望を直人に託した。
直感的に、まだ小さい力だが、この男ならそれが出来る、
そう確信させる文書や言葉に現せない何かが、直人にはあった。

 

第22章 其の参 あとがき

ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
「其の参」本編はここで終了ですが、
この小説「直人伝」は、モデルにした
「直人氏」のプロフィールに沿った形で、
フィクションのイベントを組んで、「其の四」以降も、
順次ストーリーを進めていく予定です。
大前提として、主人公「菅原直人」は苦難の道に打ち克って、
活路を開く、不屈の闘志を持った
ヒーローとして描きます。
お読み読いただいた感想や、本作のアイディア等
アップしていただけると幸いです。 

若月明峰
作家:若月 明峰
小説 「直人伝」 ~其の弐~
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