長生きしてね

 リノは、このままエスカレートすれば、レイプされるのではないかと不安に思い、家出を決意したのだった。家出してまもなく、ゆう子から居場所を知らされた清子だったが、すぐには引き戻そうとはせず、しばらく家出を許すことにした。家出の原因が、信介にあると察知したからだった。我慢していた清子も信介が仲居頭代理に手をつけたときには、堪忍袋の緒が切れた。現場を取り押さえた清子は、その日に、離縁を突きつけた。信介は、離婚を承諾したが、その代わりとして、融資返済の遅延が半年続いた場合は、現利息2パーセントを利息10パーセントにするという契約書にサインを求めた。

 

 清子は、極悪非道なことをして、さらに、ヤクザまがいのことをする信介を恨んだが、今離婚しなければ、子供たちが不幸になると思い、涙しながらサインをした。そのことは、祖父、幸太郎には報告したが、リノには、心配をかけてはいけないと黙っていた。幸太郎は、リノには黙っているように念を押されていたが、70歳一時金と倉庫の磁器、骨董品、絵画の売却で、返済のめどがつくと思い、その契約のことをリノに話してしまった。リノは、母親のつらい気持ちと一時金の必要性は、十分理解できたが、それでも、幸太郎を長生きさせたかった。

 

 ゆう子と横山は、唖然とした表情で、しばらく黙っていた。一時金制度のことはすでに知ってはいたが、今、リノから話を聞いて自分たちが直面する問題であることに気付いた。ゆう子は、何と返事していいか分からず、右横の横山の顔を覗いた。横山は、一度頷き話し始めた。「一時金制度は、本人が決めることになっているのよ。電気椅子の通電ボタンを押すのは、本人なのね。だから、おじいちゃんが、もし、一時金の選択をしていたとするならば、おそらく、気持ちは変わらないと思う。きっと、ずいぶん悩んだ挙句の選択だと思うの」横山は、リノの期待にこたえられない返事をしたが、この答えが現実だと確信していた。

ゆう子は、何も言えなかった。自分の家族には祖父母はいず、自分が70歳になったときの一時金について考えたこともなかったからだ。「ゆう子は、どう?」リノは、ゆう子の意見を求めた。ゆう子は、俯いてしまった。しばらく、考えて、とにかく自分の考えを言ってみることにした。「70歳一時金って、ピンとこないの。もし、自分が70歳になったら、一時金を選択すると思う。そうでしょ、家族のためだし、非国民になりたくないし。リノも、そうじゃない」ゆう子は、リノの顔を見つめた。

 

 リノは、自分に振られ、言葉につまったが、はっきり気持ちを伝えることにした。「大金持ち以外のほとんどの老人は、70歳になると一時金をもらうじゃない。その理由は、非国民と言われたくないからじゃない。確かに、1000万円は、借金している家族にとって、とても必要よ。だからと言って、自殺を選んでいいの。お金は、家族みんなが頑張れば、どうにかなるじゃない。たとえ、非国民といわれても、長生きするべきよ。私が70歳になったとき、どちらを選ぶかは、今よく分からないけど。とにかく、おじいちゃんには、自殺して欲しくないの」リノは、自分の気持ちを整理できなくなってきた。

 

 横山は、毅然とした態度で話し始めた。「リノが言っていることは、決して間違いじゃないと思う。人は、誰でも、別れを悲しむものよ。でも、自分の死を決めるのは、他人じゃなくて、本人なのよ。おじいちゃんが、本当に一時金受給を決意したのならば、おじいちゃんの気持ちを尊重すべきだと思う。徴兵に行くのも、非国民になりたくないからよ。それと同じじゃない、おじいちゃんも」リノの顔は次第に紅潮し始めていた。

 ゆう子は、リノの気持ちがよく分かった。もし、リノの立場であれば、自分もリノのように、一時金を反対するように思えた。「リノ、おじいちゃんの気持ちは、まったく変わらないの?リノは、長生きするように、お願いしたんでしょ」リノの両手は、震えていた。リノは、自分の気持ちをどのように表していいか分からなくなっていた。顔を真っ赤にしたリノは、ジュースをグイッと飲み干し、一呼吸置いて話し始めた。

 

 「おじちゃんが、一時金を受給したい理由は、分かっているの。他の人には言わないでね。ママは、旅館の改築に5000万円の借金をしたのよ。それを知ったおじいちゃんは、一時金の1000万円を返済に充てようとしてるのよ。借金さえなければ、こんなことには。人の命より、お金のほうが大切なの?政府も大人もみんな、頭がおかしい。こんなのいや」リノは、両手で顔を覆い、しくしく泣き始めた。

 

 ゆう子と横山は、泣き声に驚き、周りの目を気にした。ゆう子は、リノと横山を交互に見つめるだけで、ぽかんと口を開き、横山の左肩をポンと叩いた。いつも冷静な横山もこのときばかりは、冷静さを失った。現実を直視した自分の意見に自信を持っていた横山だったが、リノの涙を見ると、自分の意見に自信がなくなってしまった。親友として言うべきことが他にあったのではないかと少し反省した。親友としてもっとリノの気持ちをやわらげる言葉はないかと考えたが、とっさには思いつかなかった。

 借金返済がおじいちゃんの一時金受給の動機であることを知った横山は、旅館が繁盛すれば、おじいちゃんの気持ちが変わるのではないかと思えた。ゆう子の話では、経営不振が続き倒産の危機に瀕しているらしかった。“さしはら温泉旅館”が有名になる名案があればと思ったが、すぐには思いつかなかった。聞くところによると、おじいちゃんは、人付き合いが上手で、市会議員や商工会議所の役員たちを伊都ゴルフコンペに接待したり、糸島市主催のカラオケ大会に出場したりと精力的な営業活動でお客を集めていたと言う。今、おじいちゃんがいなくなれば、さらに旅館の人気は落ちて、ますます、旅館は寂れてしまうことになる。

 

 おじいちゃんがいなくなることは、旅館にとって、大きな損失と思えた。そのことをおじいちゃんに自覚させることが、一番大切ではないかと思えた。次に、旅館を有名にする施策と考えた。リノの小さくか細い涙声は、周りの視線を浴びながらも続いていた。横山は、とっさに声をかけた。「リノ、もう一度説得するのよ。おじいちゃんが、いなければ、旅館はつぶれるって。おじいちゃんの活躍で、旅館は成り立っているって、おじいちゃんを励ませばいい」横山は、リノの左肩に手を置き、力強い口調で話しかけた。

 

 それでも、泣き声は止まなかった。リノには、何も聞こえていないようだった。横山の口から、思いもがけない言葉が飛び出した。「よし、まかしとき、さしはら温泉を有名にしてやる。商売繁盛間違いなし。リノ、元気出せ」リノは、ひょこりと涙顔を持ち上げた。そしてひとことつぶやいた。「ほんとに、有名にしてくれるのね」リノは、マジな顔になって横山をじっと見つめた。それは、でまかせだったが、後には引けず、横山は頷いた。リノは、確認した。「どうすれば、有名になるの?」横山は、一瞬口ごもってしまった。

春日信彦
作家:春日信彦
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