長生きしてね

 綾乃は、幸太郎お気に入りの深川製磁のお茶碗でお茶を運んでくると、笑顔でそっと立ち去った。「幸太郎さん、やっぱり、気持ちは変わりませんか?」国男は、リノと同じく、一時金受給に反対していた。確かに経営不振でお金が必要であることは知っていたが、まだ杉山や磁器を売却すればまとまったお金は手に入るはずだと考えていた。幸太郎は、やはり、一時金受給のことでやって来たと思ったが、いやな顔をせず、笑顔で答えた。「もう、決めたことです。自分の始末は、自分に決めさせてくさい」幸太郎は、盤上の駒を玉からゆっくりと並べ始めた。

 

 駒を並べ、幸太郎が2六歩と指したが、国男は、話を続けた。「リノちゃんも帰ってきたことだし、孫と老後を過ごすのもいいじゃないですか。リノちゃんは、きっと、いい女将さんになりますよ。リノちゃんが、一人前になるまで、見守ってあげてはどうですか?世間のことはきにの突然の涙に、きっとせず、図々しく生きてはどうですか?」国男は、非国民と言われるのを幸太郎は恐れていると直感した。幸太郎は、黙ったまま、返事しなかった。いつものように8四歩と指すと国男は話を続けた。

 

「そう、先月の伊都コンペで伊都観光の武田さんと話していたんですが、糸島観光のPVを作ってはどうかと言う話になりましてね、市長と私で九州TVに掛け合ってみることにしましたよ。何と言っても、観光といえば温泉ですから、さしはら温泉を大いに宣伝しますよ」幸太郎は、静かに2五歩と指した。「国男さん、お気持ちはありがたくちょうだいします。私は、非国民にはなりたくないのです。これから日本を背負ってたつ若者のために、身を引きたいのです。分かってください」幸太郎は、目をつぶり、じっと耐えているようであった。

 「幸太郎さん、そこまで自分を犠牲にすることはありませんよ。金持ちは、年金を受給して、大きな顔をしているじゃないですか。貧乏人が自殺するのを、心では笑って喜んでいるのです。悔しくないんですか。幸太郎さんも、かつては、大金持ちだったじゃないですか。今でも、そこらの人よりは、お金も権力もありますよ。自殺するなんて、もったいないです。長生きしてください、幸太郎さん」国男は、8五歩と指し、幸太郎の返事を待った。

 

 幸太郎は、7八金と指すと静かに話し始めた。「国男さん、人生の価値は、お金や権力で決まるものではないと思っています。これからの若者は、戦争で犬死するかもしれません。私は、十分好きなことをやって長生きしました。もう十分です。権力者のように長生きしなくとも、納得のいく人生を送ればそれでいいんじゃないでしょうか。できれば、家族のために何か一つ、役に立つことをして死にたいのです。こんな生き方もあって、いいんじゃないですか」幸太郎は、いったん決めた気持ちを変えようとはしなかった。

 

 国男は、頑固な幸太郎の気持ちを変えるのは、もはや無理ではないかと思えた。これ以上どのように説得してよいか分からなくなった国男の顔は真っ青になり、「リノちゃんは、きっと、悲しみますよ。いつものヒネリ飛車ですな。この続きは、必ず指します。いいですね」とつぶやき、席を立った。幸太郎は、国男の優しい気持ちに応えたかったが、心を鬼にして黙って玄関まで見送った。「ありがとう」と幸太郎が、気の毒そうな顔をしてお辞儀すると、国男は、小さく会釈して、苦笑いをして背を向けた。国男の後姿を見た瞬間、幸太郎の目から涙がこぼれ落ちたが、これは、固い決意の表れだった。

 横山の名案を信じたリノは、憲法記念日を祝した夕食時に、幸太郎を励ますことにした。リノは、幸太郎の好物、糸島牛のしゃぶしゃぶを振舞うことにした。しっかり者のリノは、家出はしたが、高校課程の通信教育を受けながらアルバイトでお金をためていた。「おじいちゃん、最高級の糸島牛をトラヤミートで買って来たの。死ぬほど、食べて」幸太郎は、死ぬほど、と聞いて吹き出しそうになったが、能天気な孫の気持ちを察し素直に受け入れることにした。

 

 弟の明は、幸太郎より先に、自分のお皿の上に花びらのように並べられたピンク色の肉を掴み取ると、どさっと湯に放り込み、待つまもなく、ゴマダレにつけたかと思うとがっついた。「バカ、おじいちゃんが、先でしょ。ほんと、バカなんだから」リノは、いつものように愚痴をこぼした。「そう、怒りなさんな。アキラ、おじいちゃんのも食べるがいい。おじいちゃんは、もう年だ。そんなに食えん。さあ、リノもしっかり食べなさい。清子も、さあ、さあ」幸太郎は、元気よくぱくついている明を笑顔で見つめていた。

 

 幸太郎も刺しが入ったピンク色の肉を一切れ掴み、さっとお湯に通し、ポン酢のタレにつけると、口に放り込んだ。「うまい」幸太郎は、家族みんなで食事ができることを幸せに思った。「清子、リノは、いい女将さんになるぞ。よかったな。アキラは、世界一のギタリストになればいい」明は、チャーにあこがれていて、毎日のようにギターの練習をやっていた。幸太郎は、一時金の話題にならなければいいと内心思っていたところ、リノに声をかけられ、一瞬ドキッとした。

 「おじいちゃん、ところで、明後日は、どこかに出かける用事でもあるの?」一時金の質問でなくてほっとした幸太郎は、笑顔で答えた。「明後日は、そうだな~、コンペは、断ったし、国男さんが突然、やってくるかもしれないが、今のところ出かける予定はないな」幸太郎は、予定を思い浮かべ返事した。リノは、ホッとした表情で話を続けた。「あさって、友達二人がやってくるのよ。その友達が、おじいちゃんに旅館が有名になる名案を話してくれるのよ。聞いてみてくれる?」幸太郎は、リノの友達がやってくと言うので、嬉しくなった。

 

 「いいとも、旅館が有名になる名案か。こりゃー、楽しみだ。清子も一緒に聞くがいい」清子も頷き、笑顔を作った。「ほんと、楽しみ。この旅館が有名になれば、おじいちゃんも安心じゃない。一時金なんか、クソ食らえ、って感じじゃない」清子は、リノが考えていることを即座に感じ取った。「ママもそう思う!旅館さえ有名になれば、リノが若女将になって、ガンガンもうけてやるわ」清子も笑顔で頷き、拳を突き上げた。「ワクワクするわね。早く明後日にならないかしら。そう、お友達、何時ごろお見えになるの?」JRでやってくると思ったリノは、深江駅の到着時間を思い浮かべ答えた。

 

 「二時過ぎかも。友達が駅についおたら、おじいちゃん、迎えに行ってくれる?」幸太郎は、ポンと手を叩き、返事した。「合点承知のすけ。カスタムウイングヴェルファイアで迎えに行ってやるさ」リノは、幸太郎の元気な笑顔を見て、もしかして、長生きする気持ちに変わったのではないかと思った。幸太郎は、ビールを一口すすり、神妙な顔で話し始めた。「ところで、みんなに、何かしてあげたいんだが、何がいいかな?」幸太郎は、記念になるようなことを残して死にたかった。

春日信彦
作家:春日信彦
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