長生きしてね

憲法記念日の日曜日は、朝食後、幸太郎は、自分の部屋の1.5メートル幅の縁側でロングパットの練習をしていた。部屋は、洋間12畳と和室8畳の二間続きで、広々とした部屋だった。洋間には、1000冊以上に及ぶ書籍、本間のゴルフクラブ、テニスラケット、アスレチック機具、サッカーボール、サーフィンボード、カラオケ機具、パソコンなど、学生から捨てずにいたガラクタのような宝物が置いてあった。それらを時々横目で見ては、学生時代を思い出し、ゆっくりピンパターでタイトリストのバラタボールを転がしていた。そのボールは、伊都ゴルフクラブ13番ショートホールで奇跡的なホールインワンをした記念のボールだった。

 

 器用な幸太郎は、いろんなスポーツ、ゲームをやった。スポーツでは、学生のころからサッカー、野球、テニス、卓球、水泳などを、ゲームでは、囲碁、将棋、ネットゲームなどを、興味を持つと手当たりしだい楽しんでいた。車とバイクも大好きで、全国の仲間とヤマハXJR1300で日本の各地をツーリングした。20代のころは、オートポリスまで出かけ、ホンダS2000でタイムアタックに興じていた。25歳から付き合いでゴルフをやるようになり、運動神経がよかったのか1年もしないうちに90を切れるようになった。特に好きな趣味は、人生の縮図のようなゴルフと将棋だった。

 

 和室の棚には、青を基調とした深川製磁の花瓶、湯のみ、壷など高価な品々が陳列されていた。指原家は、先祖代々、磁器収集をやっていて、数々の磁器の総額は、時価にすると2000万円以上にもなった。高額な磁器は、骨董品や絵画と一緒にセコムによる厳重な機械警備がなされた特別な倉庫に保管されていた。床の間には、赤富士の掛け軸が飾られ、上部右手には、大腸がんで亡くなった妻、富士子の肖像画が掛けられていた。 富士子は、伊都ミスコンテストで優勝した美人だった。

 

 一時金受給を決意した幸太郎は、ボールの転がりを見ながら、電気椅子に腰掛けるまでの残り少ない時間をどのように使えばよいか考え始めていた。できれば、家族に役立つ何かをやりたいと思っていたが、具体的な名案が思いつかなかった。パターの練習に神経がめいってしまった幸太郎は、気分転換と思い、松の盆栽を剪定することにした。錦鯉が戯れる池と椿が彩る小山を配した広い庭園の片隅の棚に、盆栽は陳列されていた。幸太郎が、下駄を履き玄関のドアを開くと、歌舞伎門から将棋相手の市会議員、篠田国男(59歳)が笑顔で挨拶した。

 

 「ご機嫌いかがですか。一局、やりませんか?」国男は、県代表にもなった将棋のアマ5段で、ちょくちょく、幸太郎の相手をしてくれていた。「や~、ちょっと、盆栽いじりでもしようかと思いましてね」幸太郎は、歌舞伎門で突っ立ている国男を手招きすると、将棋盤が置いてある書斎に案内した。幸太郎が、呼び鈴を押すとあわてんぼうの女中、綾乃が跳んでやって来た。「もっと静かに歩けんのか。お茶!」幸太郎は、音を立てて歩く綾乃が気に食わなかったが、可愛い笑顔に見つめられると、つい許してしまうのだった。

 

 綾乃は、かつては仲居をやっていたが、身体を壊してからは、女中をやるようになった。気は利くのだが、おっちょこちょいで、早合点の綾乃は、時々問題を起こしていた。それでも、清子の高校の水泳部の後輩であり、二人の子供を抱えた母子家庭の母親と言うことで、幸太郎は大目に見ていた。綾乃には、一つだけ幸太郎に気に入られる得意なものがあった。それは、将棋がさせると言うことだった。特に強いと言うわけではなかったが、暇なときに相手をしてくれる重宝な女中だった。

 綾乃は、幸太郎お気に入りの深川製磁のお茶碗でお茶を運んでくると、笑顔でそっと立ち去った。「幸太郎さん、やっぱり、気持ちは変わりませんか?」国男は、リノと同じく、一時金受給に反対していた。確かに経営不振でお金が必要であることは知っていたが、まだ杉山や磁器を売却すればまとまったお金は手に入るはずだと考えていた。幸太郎は、やはり、一時金受給のことでやって来たと思ったが、いやな顔をせず、笑顔で答えた。「もう、決めたことです。自分の始末は、自分に決めさせてくさい」幸太郎は、盤上の駒を玉からゆっくりと並べ始めた。

 

 駒を並べ、幸太郎が2六歩と指したが、国男は、話を続けた。「リノちゃんも帰ってきたことだし、孫と老後を過ごすのもいいじゃないですか。リノちゃんは、きっと、いい女将さんになりますよ。リノちゃんが、一人前になるまで、見守ってあげてはどうですか?世間のことはきにの突然の涙に、きっとせず、図々しく生きてはどうですか?」国男は、非国民と言われるのを幸太郎は恐れていると直感した。幸太郎は、黙ったまま、返事しなかった。いつものように8四歩と指すと国男は話を続けた。

 

「そう、先月の伊都コンペで伊都観光の武田さんと話していたんですが、糸島観光のPVを作ってはどうかと言う話になりましてね、市長と私で九州TVに掛け合ってみることにしましたよ。何と言っても、観光といえば温泉ですから、さしはら温泉を大いに宣伝しますよ」幸太郎は、静かに2五歩と指した。「国男さん、お気持ちはありがたくちょうだいします。私は、非国民にはなりたくないのです。これから日本を背負ってたつ若者のために、身を引きたいのです。分かってください」幸太郎は、目をつぶり、じっと耐えているようであった。

 「幸太郎さん、そこまで自分を犠牲にすることはありませんよ。金持ちは、年金を受給して、大きな顔をしているじゃないですか。貧乏人が自殺するのを、心では笑って喜んでいるのです。悔しくないんですか。幸太郎さんも、かつては、大金持ちだったじゃないですか。今でも、そこらの人よりは、お金も権力もありますよ。自殺するなんて、もったいないです。長生きしてください、幸太郎さん」国男は、8五歩と指し、幸太郎の返事を待った。

 

 幸太郎は、7八金と指すと静かに話し始めた。「国男さん、人生の価値は、お金や権力で決まるものではないと思っています。これからの若者は、戦争で犬死するかもしれません。私は、十分好きなことをやって長生きしました。もう十分です。権力者のように長生きしなくとも、納得のいく人生を送ればそれでいいんじゃないでしょうか。できれば、家族のために何か一つ、役に立つことをして死にたいのです。こんな生き方もあって、いいんじゃないですか」幸太郎は、いったん決めた気持ちを変えようとはしなかった。

 

 国男は、頑固な幸太郎の気持ちを変えるのは、もはや無理ではないかと思えた。これ以上どのように説得してよいか分からなくなった国男の顔は真っ青になり、「リノちゃんは、きっと、悲しみますよ。いつものヒネリ飛車ですな。この続きは、必ず指します。いいですね」とつぶやき、席を立った。幸太郎は、国男の優しい気持ちに応えたかったが、心を鬼にして黙って玄関まで見送った。「ありがとう」と幸太郎が、気の毒そうな顔をしてお辞儀すると、国男は、小さく会釈して、苦笑いをして背を向けた。国男の後姿を見た瞬間、幸太郎の目から涙がこぼれ落ちたが、これは、固い決意の表れだった。

春日信彦
作家:春日信彦
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