たまたまの話

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(8)
 こんなにのうのうと、花の香りなどを嗅いで自然の美に感銘をうけたりできるのは、ひとつにはこのマンションが払い済みであるせいであり、それもこれも私と彼の親のおかげであった。二十世紀後半の日本における、今から思えば稀なる経済躍進の波に乗って、かれらは小金を貯めた。それを使う間もなくそれぞれに、たまたま平均寿命をかなり前にして亡くなり、遺産が残った。
 バブルが起こり、私たちは数年待ってマンションの価格が落ち着くとここを購入したのであった。そういう理由で、近代的なマンションにも関わらず仏間という和室がある。
 そこで瞑想を行うのが夫のカズロの日課である。そこから出て来たときの彼の表情が優しくて私は好きである。社会の慣習からはずされ、人間の理想の根源に触れてきたひとの顔である。

 私はひとりの人間として扱ってもらうのが好きなのだ。「家事をする役割の妻」として扱われるのがもっとも苦手である。突然こんな宣言をするのは、生きている間中これと戦ってきたからなのだ。勿論結婚しなければ良かったわけだけれども、あるいはちゃんとした相手を選べば良かったわけだけれども。

 で、この選択についに成功した相手がカズロである。私のこんな天井生活の重要な部分であり愛する価値ある男。私たちは時に別居となっても信頼し合っていたので、それぞれの専門の仕事を果たすことを優先した。それは自分のためでもあったが社会のための生活でもあった。ただ、ミツルが育つ間は同居するようにした。家事も育児も仕事も話し合って、分担を決めた。夫だから妻だからは全く条件とはならない。私が女の役割に従ったのは、妊娠出産のみであった。

 こんなあっさりと簡単な合意による人間扱いで、私はとてつもなく満足した人生をカズロと歩んできた。妻の役割に譲歩したかのように見えるときもあったが、そうではなかった。妻だから、ではなくその時の懸案の得手不得手、効率などによる合意だった。完全に納得できた。

 私とカズロはお互いの瞳に見入りながら、すっと体を寄せ合い、隙間無くくっつきあう。腕も指先までお互いを感じるのが心地よかった。大切な存在、愛と尊敬と信頼を与え合うパートナーとして、永遠の仕合せの微笑を交わし続けた。

(9)
 ここで、「天井生活」 了、とエスは力強く書いた。
 幸福の物語を一度は書きたかったのが、やっと成就した。出来はいつもながら重要ではない,自分の書くべきもの、書きうるもののコレクションの最終章が出来上がった。大きく息を吸い、肺が気持良く膨らむのを感じた。その息で「カズロ」と言った。隣りの部屋へ声をかける。
 「ミツル、みずきさん」 みんな出払っているらしい。念のため「ルリ、ハル」と声を高くしてみる。白い部屋の壁があるようだ。
 
 エスにはかれらがどこかに居ることは確かである。探せば見つかり、会えることを信じている。そう、目の前にもう顔が並んでいる。みんなの輝く瞳がエスには見える。たとえ霞んでいくともそこにあることをエスは知っている。知っている、エスは残りの息で呟く。                了

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東天
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