たまたまの話

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(6)
 だいたいにおいて私は歳こそくっているが、たまたまからっぽな空疎な人間である。この中にはこの世がまるごと受け入れられている。そんなにも無批判な、そう言う意味でアナーキーな、どっちかというとメスの名残のある生物。

 みずきさんは、色白で柔らかく、胴がくびれている。顔の形と、おうとつが美しい。いつも黒い瞳をぱっちりと見開いていて、その光から眼が離せなくなる程だ。そして脚がすばらしく美しい形をしている。
 息子のミツルも色白で、どちらかというと優男風。ちょっと古めかしい言い方で。
 子どものときの柔らかい眉だったのが、今は男らしく太く濃くなって、やや上に向かうなだらかな一文字に近い形をくっきりと描いている。そこから広がるひたいの様子は、本当に気高く、文句のつけようもない。知性と繊細さと優しさがそこにあらわれている。母親がこんなこと言うなんて、親ばかもいい加減にしろ、と思われることだろうが、これは厳然たる事実なので、ひいきで言っている訳ではない。まあ、事実でもわざわざ言うのは少し親ばかではあろう。

 こんな親の長所を足して二で割って、またそれをそっくり二倍にしたのがハルオとルリオ。私はこの四つの存在を眺めるたびに、涙目になる。信じてもいない神様か仏様に拝んでしまう。かなしい白光に充たされしまう。
 つまり、(何故いきなり「つまり」、なのか自分でも不明だが)みずきさんはもちろん忙しいさかりだ。しかし私も忙しい、この年齢とこの不明な立場の割には。人の眼にはどう映っているか知らない、自分としては忙しがっている。

 何はともあれ、私のようないい加減で、高尚さや知性の少ない人間に取って、トンビが鷹を産む、そのもののごときこの事態、私の性ホルモンが私を引きずってこんな、感涙に値するような人々との出会いを可能にしてくれたこの事態,それに我ながら唖然として来た三十数年ではあった。
 その夢は今日もまだ続いている。

(7)
 私たちの住む一階部分のテラスはほとんど森、あるいは林のようなものである。風よけ、日除けを兼ねて樹木の生垣がゆるやかな半円に並んでいる。好きな木を小ぶりに仕立て、季節ごとに並べて大きな鉢に植えてある。
 春は山椿、乙女椿、その手前には沈丁花と馬酔木という立ち木と灌木のセットにして。
 初夏は空木とトベラ、いずれも香しい。その手前にはこでまり、勿論数首の薔薇とそして藤、黄のカロライナジャスミンと白のマダガスカルジャスミン、淡紫のライラックその手前には野草の楽園がある。春早くから咲く仏の座、姫踊り子草、十二単、トキワハゼ、キラン草などどこからかやってきたものばかりを手塩にかけ、話しかけて暮らす。   
 夏を意識したヤマボウシ、合歓の木、ハンケチの木、さるすべりたち。その手前の灌木はドウダンツツジ、花も紅葉も随一だ。
 ちなみに、もう言いたくてたまらないので二階のテラスについて。
 そこは実のものが主眼である。と言っても人間用は、イチジクとびわ、ざくろだけ(最近キーウイも仲間に入った)。つまり、ミツルとみづきさんが食いしん坊だというわけではなく、花は一階に任せようというだけのことらしい。赤い実をならす木はほとんど揃えてあるので、小鳥がやってくる。
 ここは市の高台に位置しているので春一番に、庭には来ないが鶯や同じく美声のクロツグミがさえずりつつ飛翔していく。それらを見たり聞いたりして同じく澄んだ叫びの二重唱を聞かせるのが子ども達だ。子どものための苺ももちろんそこにある。木イチゴ、ブルーベリー、トマト、幾種類かのハーブと葱、しだいに家庭菜園のようでもある。

 町の街路樹や通りの緩衝地帯に植えてあるような、楓、いちょう、楠、つつじなどは、好きな木であってもテラスに持って来たりはしないのだが、くちなしだけは私のお気に入りなので植えてある。山茶花も白地に薄紅の好みの木は仲間に入って晩秋を飾る。いよいよ冬の気配になるとヒイラギクチナシだ。白い小さな花が冷気の中で強く香る。その足元には鈴蘭の繁みがあり、秋には真っ赤な実をつける。

 そうそう、紅葉の木は、どこからか竹とんぼのような種が飛来して着床、すばやく成長してしまった。春の新芽も、そこにつく露の雫も捨て難く、徐々に育てている。
 紅葉の下にあるのは青い実をつける龍のヒゲ、紫式部。
 ガラス戸の近くで、ぬくぬくとしているのはブーゲンブリアとノウゼンカズラと定家葛。


(8)
 こんなにのうのうと、花の香りなどを嗅いで自然の美に感銘をうけたりできるのは、ひとつにはこのマンションが払い済みであるせいであり、それもこれも私と彼の親のおかげであった。二十世紀後半の日本における、今から思えば稀なる経済躍進の波に乗って、かれらは小金を貯めた。それを使う間もなくそれぞれに、たまたま平均寿命をかなり前にして亡くなり、遺産が残った。
 バブルが起こり、私たちは数年待ってマンションの価格が落ち着くとここを購入したのであった。そういう理由で、近代的なマンションにも関わらず仏間という和室がある。
 そこで瞑想を行うのが夫のカズロの日課である。そこから出て来たときの彼の表情が優しくて私は好きである。社会の慣習からはずされ、人間の理想の根源に触れてきたひとの顔である。

 私はひとりの人間として扱ってもらうのが好きなのだ。「家事をする役割の妻」として扱われるのがもっとも苦手である。突然こんな宣言をするのは、生きている間中これと戦ってきたからなのだ。勿論結婚しなければ良かったわけだけれども、あるいはちゃんとした相手を選べば良かったわけだけれども。

 で、この選択についに成功した相手がカズロである。私のこんな天井生活の重要な部分であり愛する価値ある男。私たちは時に別居となっても信頼し合っていたので、それぞれの専門の仕事を果たすことを優先した。それは自分のためでもあったが社会のための生活でもあった。ただ、ミツルが育つ間は同居するようにした。家事も育児も仕事も話し合って、分担を決めた。夫だから妻だからは全く条件とはならない。私が女の役割に従ったのは、妊娠出産のみであった。

 こんなあっさりと簡単な合意による人間扱いで、私はとてつもなく満足した人生をカズロと歩んできた。妻の役割に譲歩したかのように見えるときもあったが、そうではなかった。妻だから、ではなくその時の懸案の得手不得手、効率などによる合意だった。完全に納得できた。

 私とカズロはお互いの瞳に見入りながら、すっと体を寄せ合い、隙間無くくっつきあう。腕も指先までお互いを感じるのが心地よかった。大切な存在、愛と尊敬と信頼を与え合うパートナーとして、永遠の仕合せの微笑を交わし続けた。

(9)
 ここで、「天井生活」 了、とエスは力強く書いた。
 幸福の物語を一度は書きたかったのが、やっと成就した。出来はいつもながら重要ではない,自分の書くべきもの、書きうるもののコレクションの最終章が出来上がった。大きく息を吸い、肺が気持良く膨らむのを感じた。その息で「カズロ」と言った。隣りの部屋へ声をかける。
 「ミツル、みずきさん」 みんな出払っているらしい。念のため「ルリ、ハル」と声を高くしてみる。白い部屋の壁があるようだ。
 
 エスにはかれらがどこかに居ることは確かである。探せば見つかり、会えることを信じている。そう、目の前にもう顔が並んでいる。みんなの輝く瞳がエスには見える。たとえ霞んでいくともそこにあることをエスは知っている。知っている、エスは残りの息で呟く。                了

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東天
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