妻を娶らば

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第三節( 1 / 1 )

それぞれの異変


(1)


どうして知ったのかしら、あたしにヨンヘの妻の節子から手紙が来た。あのころから、浮気した夫と一生懸命寝て、平気で長年その後も暮らしたって言う信じられない人だから、こんなことくらいするのもわかる。しかもその内容ときたら。

「というわけで、病を得てからの夫は事務職なので仕事に差し支えはないのですが、わたくしとの生活にさすがに嫌気が差したようです。といいますのも、更年期にはいり、わたくしはすっかりその気がなくなりまして、はっきり夫婦生活をしない旨申しました。夫はあざみさんもご存知のように、荒れ狂っておりましたが、実際にわたくしが相手として不十分になりましたので、諦めモードに入っております。

でも、男ですからまだそんなことが必要なのです。

わたくしは、離婚するにしろしないにしろ、ヨンヘがあざみさんとまたあの頃のように親しく満足して暮らせるものならと思うようになりました。

とんでもない手紙だとはわかっておりますが、わたくしよりずっと若いあなたとならまだ充実した生活が可能かと思います。そちらのご生活は独身とは知っております。

真面目に申しておりますので、まだそのお気持ちがおありでしたら是非ヨンヘ自身にご連絡くださいませ。嘘ではありません。」

あたしは怒り狂ってたちまちその手紙を破いた。

最後はこちらの負け、という形で終わったのが悔しい。その後の男関係はもろに商売がらみばかりで、あのころのようないわば必死な純情と熱情はもう体験できなかったんだから。


(2)


いつのまにか、最初の一年ほどの、彼があたしに執着していたころ、お店がひけるのを中に入らずに木陰に立って待っている、愛しい姿が思い出されてきた。まずいよね、今更。幸せなときだけをはっきり覚えていて、だからこの二十年も深刻に恨みにも思わず、連絡も取らず生きてきたのじゃない。

よし、何もかもオープンにして、会ってみよう。手紙は破いたが、一目で覚えていたヨンヘの携帯に電話する。彼は驚いていた。節子の携帯番号を聞きだし、電話してみる。彼女は喜んだような声だった。

まあ、会ってみよう、と旧友に会う気分になってきてしまった。

あたしは磨きたててあるし、ヨンヘはいい感じのロマンスグレーだった。ふたりとも一言も言う言葉はなく、にやにやしてじろじろ見詰め合った。別れたときはまったく、警察沙汰だったのだもの、ねえ。

「で、まだ奥さんのこと愛しているわけ?」

「仕方ないから一緒にいるだけさ、一緒にいる意味はもうはっきりないけどね」

「またあたしのこと、干したりして苦しめる?」

「そんなつもりは。ときどきでいいんだよ、もう」

あたしはヨンヘの長い指に少し触れてみた。どうかな、なにか感じるかしら、と思ったんだけど。ふうん、あたしのホルモンレベルはまだ十分みたいだった。彼の年上の奥さんみたく更年期とは程遠いんだもの。

それでその日は夕食を一緒にしたくらいで、都合のよい日を決めた。すると待ち遠しいのなんのって。彼も間で一度電話してくれた。恋人のような気分になってきちゃった。いい歳してだけど。

さあ、ひさしぶりの本番。あたしの寝室で。これはばっちりだったので、あたしはますます彼が大好きになった。乾いていたみたいに。

次のとき、もうこちらに移ってくるらしい話が進んだ。奥さんは箱に詰めたりしているとかだった。変な人だったけど、やっぱり常人離れしてる。


次第に荷物も増えて、あたしも不要なものなど捨てて、いい感じだった。そのうち、懸案の性交渉も五回に二回は彼ができない計算になった。

いいんだ、彼も還暦近いし、万全じゃないだろう。糖尿病をもっているし、心臓も悪いって。元気に見えるけれども。

おかしいよね。性愛がすべての表現だったし、最後の意味だったのに、けっこう許せてしまう。それも含めて愛しいと思う。昔とは違ってね。この気持ちだけが重要なのかなあ。

仏壇も神棚もないけど、謙一のために陰膳を供えるようになってもう長い。どこに姿を消してしまったのか、次男は時には来てくれる。それもまた重要なこと。


(3)


早川徹はもう六十台後半になった。

節子と別れてから、再婚することもなく仕事一筋で生きることにした。息子を二人、勉強させるだけで生活も経済も眼一杯ではあったが、徹自身が積極的でなかったために女性関係は通り一遍のものでいつも終わった。物事を深く考えないように、辛いことは忘れるようにした。

別れることにはなったが、節子に一途に愛されたことだけは事実として、徹の核心となっていた。

「あなたへのこの愛って、わたくしの誇りなのよ、わたくしと人生を支えてくれている大切なものなのよ」

節子が新婚旅行で、指先と指先でかすかに触れ合いながら囁いたことを、自分の誇りのように思い出す。しかし、その愛は節子の愛であって、徹のものではなかった。自分がその中には居ないような、そんな愛され方だった。

誰かのことが思い浮かびそうな気もした。それを封印した。自分と節子がうまくいかないだろうと知っていたかもしれなかった。


長男の充は消息を断った。すでに十年以上過ぎた。両親や祖先の墓参りを欠かさず、どうか充を護っていてくださいと祈った。最近の検査では、自身に前立腺がんの疑いまで生じていた。全ての流れを考えると、自分の運命の悲しさにうちひしがれる。

なにひとつ欠点もない、少しおとなしいだけが損をしている、善人の自分にここまで悲運が落ちてくるのは何故だろう、とつい考え始める。しかし、またそれを敢えてやめる。何故なら、考えてわかるものではないことでも、知ることは出来ないながら必ず理由があるはずだから。そう徹にはわかっていた。

息子達は、母親の節子と連絡しあっているだろう、諦める節子ではない。進学してからは、それはそれで勿論構わない。かれらの権利だ。あたりまえだと思うようになった。

次男はときどき現れた。運良く楽しく生活しているようだった。どこまでが事実で、どこからが冗談か比喩かわからないような、禅問答をしてお互いの心を隠した。そんなところは似ていた。



(4)


女文字の爽やかな封書が届いた。梅雨も明けて蝉のかしましい日である。

はるかな昔に見覚えのある文字である。忘れるようにと霞をかけていた面影が透けて見えそうになった。

学生時代に、飲み会があると徹がよく歌ったひとつ、与謝野鉄幹の有名な「妻を娶らば才長けて見目麗しく情けある」という歌を、当時は節子を思い描いて、理想化してうたったが、節子は実はわがままでいい加減な世間知らずでおごり高ぶった女だった。

山辺奈保子、一度だけ距離が近づき、人間同士の親しい懐かしい香りを感じた。また退部するときに手紙をもらった。自分からは反応を返さなかった。だれに対してもそうであるように。

四十年後のその手紙には、さり気なく自分の近況と、昔日の彼女の思いが今も美しい記憶として残っている、と淡々と書かれてあった。そしてあっさりと、独身のままだと人づてに聞いたので一度お会いできたらと思う、彼女もひとりみのままである、とまで直裁であった。


その後まもなく、徹はがんの手術を受けた。

奈保子はそのことを予想でもしていたかのように、見舞いに現れた。毎日現れて、甲斐甲斐しく気を配ってくれた。つぶらな瞳と白いほお、少し厚い唇、短い髪、若いころそのままで還暦を過ぎた奈保子がいた。

「早川さん、昔のままですね」

その唇に微笑みを浮かべながら奈保子が真面目に言う。

「真っ白だよ、髪が。メガネもかけてるし」

「私ね、早川さんとまた弓道をしたいって思ってるんですよ。あれからなさってないのでしょう。私は今度こそ立派に弓を引きたいと思うんです」

「ああ、弓道」

突然、その感覚がもどってきて、徹はしばらく絶句した。やりたいね、と思わず言った。


退院するころには、手を握るようになり、徹の自宅では初めて唇を合わせた。優しい楽しいキスであった。

女性的でありながら、しっかりした奈保子こそ徹の望んでいた女性であった。体力が回復していない徹が手を貸すまでもなく、奈保子はさっさと引っ越してきた。だれに遠慮もいらない二人だった。


同衾はしたものの、ただそれだけが楽しく思えた。ふたりとも両手で相手を撫ぜさすった。奈保子はため息をもらした。嬉しい、幸せ、と呟いた。まるで何十年もが消えたような感覚でいた。

「私、いくつかの経験はあるんです。でも自分からこんなにささげる気持ちはなくて。相手のなにかがすぐに気に入らなくなって」

「きみはややこしい人なの」

「潔癖ではあるんですけど、そのせいで徹さん以外は受け付けないんじゃないかしら、今思うと」

「でもまだちゃんとしてないし、ぼくが出来るかどうか、わからないよ」

「どうなるかしら、私にもわからない。とりあえずはしっかり養生しましょうね」

「はいはい、先生」

奈保子は大きな笑みをみせて、徹の顔に顔を押し付けた。


ほとんど体調が戻り、リハビリも順調だったので、ふたりで近所の神社に詣でた。それから双方の親の墓に詣でた。徹は次男の洋二に奈保子との結婚を告げた。

「ええっ、俺も結婚するんだよ」

意外にも息子も同じことを考えていたのだった。それからふたつの婚姻届を出した。洋二のために、少し体裁を整えた式を質素にあげさせた。節子は来ないので、奈保子が母親役で参列した。洋二はちらちらと継母をみた。同棲してすでに長い花嫁よりも、奈保子の人物が気になるようだった。


その夜、少し居眠りをしていた徹は奈保子が電話しているのにきづいた。

「というわけで、おかげで思いもかげず洋二さんまで幸せになって、有難いことですわ。背中を押していただいて本当に良かった。ええ、大丈夫です、体調万全ですとも」

「だれと話したの?」

「だれでしょ、キューピットよ」


しっかりと徹の性器は機能するようだった。挿入するのに何の抵抗もなく、奈保子は小さく叫んだ。徹が動こうとすると止められた。

「しないで、これ以上よくしないで。このままでこの幸せで」

動かないのに徹が高まってくる。

「出していいわよ、このままがいいの。これ以上よくしないで」     了


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