一巡せしもの―東海道・西国編

甲斐國[浅間神社] ( 13 / 22 )

甲斐國一之宮[浅間神社]13



彼女も子宝に恵まれず、来る日も来る日も周囲から「赤ちゃんまだ?」なんて責められる毎日なのだろうか?

藁にもすがる思いで木花咲耶姫命にすがっていたのではなかったのか?

そこまで神様に頼み込む必要のある厄介事として、不妊は十分な理由になり得る。

そう思うと(いつまで拝んでんだよ!)などと立腹した自分が恥ずかしく思えてくる。

とは言っても「紫の君」が子授けを祈願していたのか否かは定かではないのだが。

“紫の君”の願掛けに必死さを感じたのは、木花咲耶姫命が「子授安産の霊徳神」ゆえに他ならない。

「古事記」によると、木花咲耶姫命は瓊瓊杵命との子を一夜にして孕んだとある。

しかし、瓊瓊杵命に「一夜で孕むなんて…本当に私の子なのか?」と怪しまれてしまった。

これに憤怒した木花咲耶姫命は「天孫の御子ならば炎に焼かれても無事に生まれてくるでしょう!」。

そう言って産屋に入ると内から土で出口を塞ぎ、出産直前に自ら室内に火を放った。

猛火の中で木花咲耶姫命は三柱の御子…火照命(ホデリノミコト)、火須勢理命(ホスセリノミコト)、火遠理命(ホオリノミコト)を産んだ。

火遠理命は別名を日子火火出見命(ヒコホホデミノミコト)という。

上総国一之宮玉前神社にも登場した、日本の昔話「海彦山彦」の弟、山彦のこと。

ここで玉前神社と浅間神社が繋がった。

甲斐國[浅間神社] ( 14 / 22 )

甲斐國一之宮[浅間神社]14



木花咲耶姫命は玉前神社の御祭神、玉依姫命(タマヨリヒメノミコト)が産んだ神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイハレビコノミコト)の祖母に当たるわけだ。

神倭伊波礼毘古命とは初代天皇神武帝のこと。

分かりやすく書くと、こうなるか。

木花咲耶姫命
 →日子火火出見命
  →鵜葺草葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)
   →神倭伊波礼毘古命(=神武天皇)

木花咲耶姫命は炎に包まれる中で無事に御子を産んだことから、「子授安産の霊徳神」と見做されるようになった次第。

参拝を終えて拝殿の横を見やれば、奉献酒の一升瓶がズラリと並んでいる。

しかし、瓶の色やラベルのデザインが、どこか違う。

近寄ってよく見れば、それらは清酒ではなく、ほぼ全てワイン。

いや、ここはワインというより「葡萄酒」と呼んだほうが相応しいかも知れない。

さすが甲斐国。奉献酒も他の国とは一味違う様子。

ただ、御祭神の御神徳とは少しズレている気がしないでもないが。

木花咲耶姫命、実は「酒造の守護神」でもある。

瓊瓊杵命の御子を産んだ折、父の大山祇命が卜占で選んだ稲田から収穫した神聖な米で、酒を醸して祝福した。

瓊瓊杵命の“ニニギ”とは、稲穂が“にぎにぎしく”生育することを意味している。

つまり、瓊瓊杵命とは天から降臨して地に種籾をもたらした“穀霊”なのだ。

甲斐國[浅間神社] ( 15 / 22 )

甲斐國一之宮[浅間神社]15



穀霊の子を産むことイコール「良い米を生産すること」に他ならない。

そこから大山祇命に「酒解神(サケトケノカミ)」、木花咲耶姫命に「酒解子神(サケトケコノカミ)」という別称が付き、父娘で酒造の神として崇められているわけだ。

しかし浅間神社に奉献されている酒の殆どは、米から作った日本酒ではなく葡萄から作ったワイン。

木花咲耶姫命、どのような顔をしてワイングラスを傾けているのだろう?

木花咲耶姫命を祀る浅間系の神社は全国に約1300社ほどあるそうだが、ここ甲斐国一之宮だけはローマ神話の酒神「バッカス」が一緒に祀られているのでは…そんな不思議な雰囲気を感じる。

拝殿の前から離れ、境内を北に向かう。

ちょうど参道の突き当りに位置するのが、貫禄のある神楽殿。

建立は明治36(1903)年というから、既に100年以上経過している。

とはいえ今でも現役で、舞台では年に数回神楽が奉納されるそうだ。

左隣りには神楽庫があり、神楽殿との間には「清め砂」がヒッソリと佇む。

神楽庫を更に奥へ進むと、くぐり抜ければ厄災が祓い落とされるという「祓門」。

その先には干支を象った「十二支石像」が立ち並ぶ。

案内板によれば、自分の干支と今年の干支にお参りした後、一番奥に位置する「成就石」で拝むと、運命は開き願いは叶う…そうだ。

甲斐國[浅間神社] ( 16 / 22 )

甲斐國一之宮[浅間神社]16



さっそく干支の像にお参りした後、成就石の上に立って本殿の方角を向く。

心の中で「祓へ給え、清め給え、守り給え、幸へ給え」と3回唱えながら、二拝二拍手一拝。

これで願いが叶うかどうかは分からないが、なんとなく木花咲耶姫命とお近づきになれたような気はする。

近くには富士山を象った「富士石」が据えられ、木花開耶姫命が富士山の精霊であることを説明している。

その近くに置かれたタコのような形をした石「太陽神」、さらにはキノコの石像など、いまひとつ意味が分からないものも。

天津神の天孫信仰というより、土着の民間信仰に相応しいアイコンではある。

それらを眺めつつ、本殿裏と護国社の間をグルリと回り込むルートを通って再び神楽殿の前へ。

そのまま突っ切ると境内の北側へ抜ける門に出た。

境内と外界の境界には両部鳥居が聳立している。

木製で、一の鳥居や二の鳥居より古そうに見える。

それもそのはず、元は現在の一の鳥居の場所に在ったものを、この場所に移築したものだ。

両部鳥居は神仏習合の名残りと云われているが、浅間神社も平安時代には山岳仏教と習合していた。

修験道の行者から「浅間大菩薩」と呼ばれ、富士登山による修行の道場として信仰を集めていたという。

こうした往時の信仰形態が両部鳥居の形を取り、現世にまで残っているのだろう。
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作家:経堂 薫
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