家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼

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第1章 諸論( 1 / 2 )

 本書は、私達の日常生活に深く根を下ろしているところの、祖先祭祀の慣習を心理学、精神医学的に分析し、毎日の生活に活かそうとするものである。祖先祭祀は、いわゆる伝統的な宗教があまり好まないところの『現世利益』の追求、すなわち、悩み事、不幸、病気といったものの解消を第一義的な目的としているところにその大きな特徴がある。このためもあってか、一般的には、祖先祭祀を行う祖先崇拝は低級宗教、原始宗教などと考えられるのが普通である(例えば広辞苑(岩波書店刊)を参照してみよ)。

 しかし、悩み事や不幸、病気の解消を願うことは、人間にとって最も基本的なものの一つと考えられるのであって、これらを願うこと、すなわち現世利益の追求が程度の低いこととは、実際問題としては大変に考え難いことである。現世利益の追求は、換言すれば、医学的効果の追求であろう。私は医学者の端くれであるわけだが、私が人々に提供する学識や技法が、どう考えても低級とか原始的とは見なし難いのである。悩み事や不幸、病気の発生する原因や家庭内の人間関係の心理については、拙著『琉球文化の精神分析・第一巻および第二巻』、さらに『「男」と「女」こころの違い』などの書物を参考(既述したように、これらの書物は、もうなかなか手に入らない。現時点(平成十五年)では、琉球新報社のカルチャーセンターで行われている「祖先崇拝の心理学と家族療法入門」講座を受講していただき、副読本などを手に入れる方法しかない)にして戴くこととして、本書では、それらの諸理論に基づいて、祖先祭祀の基本儀礼を実践するだけで「家族療法」が効果的に実施されることをねらっている。現在(平成23年、2011年)においては、東洋企画印刷(株)刊の、まぶい分析学講義第1巻・マブイとユタの世界、第2巻・祖先からの知らせと御願、第3巻(上)・皇位/トートーメー継承の理論と実際が書店等で入手可能である。

 したがって、あくまでも現世利益の効果的追求を、家族療法の理論を全く学んだことの無い素人でも、祖先祭祀の基本儀礼を正しく実践することによって、効果的に行なうことを目的としたものが本書である。なぜ私がこのように主張するかというと、私のこれまでの経験では、従来から提唱していた民俗医学および民俗医学に基づいた家族療法の講義(平成15年現在では、「祖先崇拝の心理学と家族療法講座」という。平成21年現在ではまぶい分析学講座という)を行った後には、必ずといってよいほど聴衆・受講生からは、

先生! 火の神には、線香を何本立てて、拝むべきなのでしょうか?

   注 沖縄の家庭は必ず見られるもので「火の神」とされるものである。
             本土では、「竈神」とか「コージンさん」とか呼ばれたりする。台所の
 「火」のそばに置かれる「神」で、「家庭の守護神」とされているものである。
沖縄では線香を灯して立てる香炉があるが、本土では香炉はないのが一般的
なようである。

といった類いの質問が出されてきたことに端を発する。人間の心理や家族関係の講話を終えると、すぐに、このような質問が出るのである。かんじんの心理や家族療法の話の内容は理解して戴けたのかどうか? ということに大きな疑問と不安を感じながらも、いつもこの種の質問に答えることから質疑応答が始まるのが
常であった。

  これは一体どういうことなのであろうか。正直に言って、研究と講義・講習を始めた頃は、果たしてこれでよいのかどうかと、迷ってばかりであった。さらに正直に告白すると、こんなことなら、いわゆる学識者が言う「沖縄の人間は、はなはだ次元が低い!」と言うことも無理のないことかも、と考えあぐねることがしばしばであった。しかし、落ち着いて冷静に考えてみると、これは決して馬鹿げたことではなかったのである。この辺の事情をよく考えてみると、私が本章の冒頭で主張している、次の様なことが浮かび上がってくるのである。

一、 明らかに、心理的あるいは家族関係の問題と火の神ヘの祈りは、沖縄の
         人々の心の中では全く同一のものである。
二、 心の問題から生じる病や不幸などは、祖先への祈りの不足が原因として考
                        えられている。

 私自身、始めは疑間だらけであったことなのだが、実は後になってみると、琉球文化の精神分析という仕事を通して、この様なことには実に奥深い意味があることを逆に教えられてしまう結果ことになってしまったのである。著者が主催していた民俗医学講習会、これは、現在では「家族と人間講座」に発展し、さらに、名護市教育委員会が主宰する名護市民大学では心理学として、タイムスメイト文化教室の活き生き女性学級(当時は、沖縄県内でも、いわゆるフェミニズム、ジェンダーフリー運動が盛んになりつつある頃で、ミスコンテストや那覇市の「じゅりうま祭り」…遊郭の女性たちのお祭り…などが凶弾される中で、祖先祭祀の慣習も凶弾される傾向にあった。沖縄タイムス社は、新聞不買運動を起こす!という女性運動化の圧力に負けて、この教室は閉鎖となった経緯がある)では「民俗医学・家族療法」として発展したが、これらでは、この様なことを講義させて頂いているのである(平成15年6月現在では、日本文化の心理学と家族療法入門講座(沖縄県向けとして「祖先崇拝の心理学と家族療法入門講座」として、琉球新報カルチャーセンターで週2回行われたりしていたが、平成20年現在以降はもう役目を終えた感じである)。

 以上の各講義の中では詳しく話しているのであるが、やはり本書のような内容のものも、本書の前身である「生活習慣としての祖先崇拝の基本儀礼その心理学・精神医学的な意義について」と同様に、ちゃんと文章にまとめて書き著さねばならなくなってきている。それは次のような理由によるのである。

一、 せっかく講習を受けても、要領を忘れてしまう。
二、 自分でも勉強したり、復習ができるようにして欲しい、という要望が多くでるようになった。
三、 家族や知人。友人にうまく説明することができない。

 しかし実際には、まとめるにしても、頭を悩ます問題が発生する。一体、祖先祭祀という伝統的な生活習慣というものは、人間の素朴かつ自然な感情の現れであると考えられるためであろうか、その儀礼自体の細部は各地域によってかなり異なるものであった。したがって、本書にてその全貌を述べることは、到底、不可能である。また私が宗教家の立場をとって、一つの標準的な儀式を構成することも手ではあろうが、それでは各地に伝承されてきている儀式・儀礼を抑圧してしまうことになり兼ねないし、これは自分の研究素材を自分で潰していくことでもあるので到底できないことである。

 このような事情もあって、私は民俗学的な手法(注)に基づく記述はいっさい採用せず、悩み事や不幸、病気からの回復を目指すための「家族療法」の観点からの記述に終始することとした。

(注)一般に民俗学では、種々の儀礼、儀式をなるたけ忠実に記録すると
いうことが大切にされる。

 私がそのような民俗学の手法を踏襲するとすれば、膨大な記録が出来上がり、記録するだけで私の一生は終わってしまうであろう。したがって、種々の儀式・儀礼の根底に流れる思想を読み取って、その思想を具現化するために必要最小限の儀式・儀礼を抽出して記述することとした。したがって、儀式・儀礼の意味するところを汲み取ってさえもらえるならば、細かな点は各地域における特徴を大いに出して良いと思う。このようにすれば、各地のそれぞれに独特な儀礼・儀式も温存することができるので、大変に都合が良いと言えよう。

 このために、特に「家族療法」なるものを必要とするのは特定の一地域の人々だけではないこともあって、本書では、できるだけ多くの人々に共通な「基本儀礼」のみを取り上げている。それらの基本儀礼のエッセンスさえ汲み取れば、どの様な地域においても、それなりに儀礼・儀式を心を込めて実践すれば、「家族療法」としての治療効果が得られるような生活習憤を構成することが可能なはずである。祖先祭祀の墓本儀礼は、我々の親・祖先が「当たり前のこと」として、その意味はたとえ理解せずとも、毎日毎日飽くこと無く、怠ること無く行って代々に渡って受け継いできたものである。特に沖縄の人々にとっては、それは余りにも身近で行われていることもあって、その意義の重大さを見落としがちであると言えよう。

 しかし、一度、その心理学・精神医学・家族療法学的な意味を知ると、我々の祖先が生み出した、日常生活の知恵の偉大さに改めて感心と驚嘆の念を禁じ得ない。このことは、私の理論を学習してくださった人々、講演会を聴いてくださった人々の意見を求めるとき(求めなくとも自発的に感想を述べてくれる人が多かったけれども(笑))、これまでには、延べ2万人余が聴いてくれたことになるが、異口同音に祖先が残した精神的文化遺産の重要さに驚嘆するのを感じ、かつ自分達の祖先と地域に親しみの念と誇りの気持ちが出てくることを報告してくれたのである。

 実際、自分の親・祖先、生まれた土地に愛着の念が生じるというのは、心理療法の効果としても素晴らしいものである。親・祖先、生まれた土地(育った土地ももちろんである)に愛着が持てずに、例えば反感・嫌悪感を感じるような人は、自己受容ができない人である。分析心理学者カール・グスタフ・ユングも、彼の著書のなかで、そのような人が勤勉さと努力で社会的地位を登りつめていく過程で、ある程度登ったときに、原因不明の体のしびれや悪寒を感じて仕事ができなくなってしまった男の例を述べ、そのような症状を山岳病と呼んだのである。これは、現代では「燃え尽き症候群」として理解されるものだ。

 ところで、『港川原人』の発掘などから知れるように、沖縄には太古の時代から人々が住んでいたことが明らかである。この様な地域には、人間が生き抜くため、苦痛を和らげるため、などの生活を豊かにするための叡智が、「祖先からの精神的な文化遺産」として伝承されているはずである。これらは「伝統文化」ないしは「民間伝承」として、我々には馴染みの深いものである。実際、古代から人間が住み着いている地域には、もろもろの文化が生まれて発展・継承されてきているものである(もちろん廃れたものもあるけれども)。精神的な文化遺産は「宗教」が代表的なものと考えてよいと思われるが、キリスト教にしろ仏教にしろ、あるいは道教にしろ、古くから人間が居住した地域に発生している。それらの宗教は、その地域で生活をするのに便利なように造られたものであり、その地域で生き抜いていくための独特の人間観を持っているものである。

 例えばキリスト教などは基本的人間観として性悪説(人間の本来の性質は悪であるという説。中国の荀子〈じゅんし〉が唱えた)を、祖先祭祀などは性善説(人間の本来の性質は善であるという説。中国の孟子〈もうし〉が唱えたをもっている。これは、どちらが正しいかということを考えるよりも、どちらもその地域にとっては正しいものなのである、と考えるほうが善いだろう。沖縄県内においても、一般に、農業に従事する人達(ハルサー)は性善説を、漁業に従事する人達(ウミンチュ)は性悪説をとっている傾向にある。

 しかし人間性に重要な影響を与えるので、私達はその場や環境に応じて適切に取捨選択できる力を持つ必要がある。例えば、性悪説にたって物事を考えるならば、常に欠点・短所がないかどうかを見定めようとするであろうし、性善説に基づくならば、物事の長所・利点を見つけようとすることになる。前者は科学技術や工業などといった分野では大きな力を発揮するであろうし、後者は対人間関係の分野で大きな力を発揮するであろう。実際、歴史的に見ても、性悪説の人間観を持つ国で技術的な問題は近代化を遂げてきたし、遅れてはいるけれども、性善説の人間観を持つ国の人間関係論は前者の国が学び始めているのである。具体的な例としては、工業製品の開発は、我が国が欧米諸国に遅れをとっているけれども、工業製品の生産の面では信頼性(人闇性が大きく関与する)の分野で大きく進歩していることがある。

 話をもとに戻そう。各地域には各地域で快適に生活していくための生活の知恵の伝承が行なわれてきている筈であり、それは地域の特性を十分に反映したものであるから、自分達の身近なものの理解を深めていくことはきわめて重要である。ここに我々は、伝統文化と民間伝承の、取り分け、心理・精神分析的な研究の重要な意義を見出すのである。参考のため、平成十一年に、東京・駒澤大学で行われた、第二回東洋思想と心理療法研究会において、講演した「祖先崇拝と心理療法」の小論を挙げておく。
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又吉正治
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