まえがきのまえがき
電子書籍版を発行するにあたり、沖縄県内だけでなく、日本全国を対象とするこ
とになるわけだから、分り易くするために手を入れることとしました。また、沖縄とい
う地域に残っている祖先祭祀文化の研究を通してえた事柄であるので、全国的に
通用するような表現法といったことにまだわからない面がある。したがって、何か追
加訂正等な発生するとき、購読者として登録させて頂き、その都度御連絡申し上
げる こととしたい。したがって、購読された方はメールアドレスなど、御連絡頂けれ
ば幸いです。宜しくお願い申し上げます。
著者は亥年生まれである。つまり、今年は、アタイドゥシ(ウマリドゥシ、いわゆる厄年のこと)であり、還暦である。この手作り本も、もう長い間にわたって、細々と続いてきて、著者の研究活動を支えてくれた。ここにいたり、普段から疑問ではあったが、そのままにして置いた問題がある。何かというと、忘れていた問題を實川幹朗姫路獨協大学教授に指摘されたのであるが、「祖先崇拝」という用語の問題なのだ。
これは、もう四半世紀を経過しようとしているけれども、かつて、饒平名健爾(よへなけんじ)琉球大学教授(文化人類学)が御存命の頃、「祖先崇拝」という用語はどうもおかしい、われわれは祖先を本当に崇拝しているのだろうか、いや、そうではないだろう、という話になり、たまたま沖縄テレビ(番組名は失念した)に出演することになり、そのことをコメントした経緯がある。實川さんからの指摘で、再度、この問題が浮き上がった。
祖先崇拝文化の中にいるわれわれは、実際には何をやっているかというと、祖先を崇拝して生きているのではなく、祖先の苦揺解き(先祖供養)を主とした祖先祭祀を行っているだけなのである。この意味でも、祖先崇拝という言葉は、その実態を示しておらず、表面的な行動が、あたかも一神教の信徒のように見るならば、崇拝しているかのように見えるので命名されただけのことかもしれない、ということなのである。この手作り本のタイトルも、したがって、家族療法の機能を発揮するのは、祖先崇拝というものではなく、祖先祭祀なのであるということであるから、長い間にわたって続いてきた、家族療法としての祖先崇拝の基本儀礼、というのではなく、家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼と変更することにした。意味としては、これがピタリ!である。なぜ今まで放っておいたのだろう。實川さんに深謝である。
平成十九年六月十八日
モバイル・ラボラトリ(移動研究車)内にて(西原町)
又吉 正治
まえがき
本書は、平成2年に発行された「祖先崇拝の基本儀礼第3版」の復刻・改定版である。この本を書く前に私は、「生活習慣としての祖先崇拝の基本儀礼その心理学・精神医学的意義について」というパンフレットを著したことがある。そのパンフレットは、私の正規の著書である「琉球文化の精神分析』(第1巻マブイとユタの世界、第2巻先祖の崇りと御願)および『「男」と「女」こころの違い』とは異なって、書店に並ぶことなく、希望者に分けてあげていた私的なものであった。しかし、これまでに沖縄において根強い生活習慣となっている祖先祭祀については、正面から論じる人も殆どいなかったこともあって、そのパンフレットは根強い人気を得ることとなった。細々とではあるが、研究生活を支えるほどではないけれども、今なお望まれているものである。
細々とではあるが、普及していくにつれて、そのパンフレットでは扱い切れなかった事柄に対しても読者からの要望が強く出てきて、新たなことを追加する必要性に迫られた。さらに、体系的に研究成果を記述する必要性がでてきた。そんな事情の中で、私が従来から提唱してきた『民俗医学』の研究が、多くの困難の中でも着々と成果を拳げることができ、『民俗医学』は「家族療法の理論」として成長してきた。
私の研究自身も、昭和六三年に創設された『宇流麻学術研究基金』の第一回の助成対象となることができ、社会的な意味でも市民権を得ることができたような状態になってきた。この様な事情の中で、研究もかなりのまとまりが得られて、読者の御要望にもかなり応えることができるようになってきた。以上のような状況となってきたので、研究と講義と雑務の間を見計いながら、コツコツと書き溜めてきたのが本書である。多くの方々のお役に立てれば、著者の最も幸いとするところである。
なお、この本を一般的な形の『書籍』として著そうかとも考えたが、市場の狭い沖縄県では経済的になかなか難しい面があることと、研究の進展にしたがって暫時に追加して体系化をはかっていく必要性もあることから、この様な形のものをもう少し続けていくこととした。御理解と御協力が得られればこれに勝る慶び
はないであろう。御参考までに、この本の前身である『生活習慣としての祖先崇拝の基本儀礼その心理学・精神医学的意義について』の『まえがき』に示しておいたことを次に再述しておこう。著者の提唱している民俗医学』そして『家族療法』の意図がよく理解して戴けると思うからである。興味が無ければ読み飛ばしていただきたい。
第一版まえがき
「民俗医学」、耳慣れない言葉であるが、これは民間の風俗・習慣つまり『民俗』にみる「医学」である。ここでいう医学とは精神医学、精神病理学、心理学、家族療法学といったものが主である。 なぜ『民俗医学』なるものが必要とされるのか? というのは次の様なことのためである。
現代はイジメや非行、ノイローゼや心身症、酒乱、浮気、精神病などといったことが蔓延しており、人間とは一体何なのか?あるいは人間性は荒廃しつつある方向にあるのではないか? という不安に満ちた状態ではないだろうか。この様な時勢にあっては、人間が人間自身の性質をよく知ることが先ず第一に必要とさ
れていると言えよう。それでは人間について勉強してみようかというとき、現実に入手できるものは、難解か、もしくは断片的に過ぎる心理学・精神医学関係の本、さもなくば宗教やオカルトの類いのものではないだろうか。
人間をよく理解しようと思えば、その人間が住んでいる地域の文化に潜んでいる意味を探っていくことが、これはあるいは著者の独断と偏見かもしれないが、最も適した方法ではないだろうかと考えられる。なぜなら『文化』は人間の精神的活動の所産であることは疑うことのできない事実なのであり、しかも古来ヒトが居住してきた地域には、人間が生きるため、そして苦悩や不幸、病気などを避けるための経験的な叡智や知恵が集積されているはずなのである。
その例は、例えば医学がかなり発達している現代においても、子育ては主として昔からの言い伝えに基づいて行なわれているのが普通であるし、幾ら心理学が進歩していようと、人間関係は地域の慣習に基づいて行なわれるのが普通だからである、という点に見ることができる。 しかも、その「心理学」自体も、地域の文化や研究者が属する文化圏の影響を必然的に受けたものである。現代の日本では、西洋から輸入した心理学をそのまま使うことが殆どであるが、これもナンセンスなことであると思われる。このことに気付いていない心理学者が大半ではなかろうか。
しかもこれらの叡智や知恵は、多くの人々によって追試、確認されていく筈なのである。まったくの無意味なものを大切に伝承していくほどに、人間は愚かではないであろう。しかし、万一その様な「愚かなこと」があるとすれば、それはまた、それなりに『人間の性質』を知るための良い研究材料を提供しているのであると考えてよい。以上のような意味において、沖縄に伝わる祖先祭祀の伝統的な生活習慣を、実はこれは何も沖縄特有のことなのではなく日本本土や、ひいてはアジア地域にまで及んでいると考えられるのであるが、心理学、精神医学の観点からの分析を行い、それを普遍的なものにまで高めていくことには、大いなる意義があるものと著者は確信している。何となれば、文化というものには全ての人々が関心を寄せるであろうし、それが学問的に裏打ちされたものであれば、全ての人が『人間の性質』を理解するようになる、ということに他ならないからである。人間が人間のことを理解することの必要性があることは、例えば、フランスはリヨン大学のアレキシス・カレル教授が、彼はノーベル医学・生理学部門の受賞者であるが、口を酸っぱくして説いてきたことでもある。
以上のような試みが成功するものがどうか一抹の不安を感じることもあるが、多くの方々の御意見が拝聴できれば幸いである。また本書は「祖先祭祀の基本儀礼」に必要なことのみを解説したものなので、ここに述べた以外のことは、拙著、琉球文化の精神分析第一巻および第二巻、「男」と「女」こころの違い、などを必要に応じて参照されたい(実際には、これらの書物は、例えば、琉球文化の精神分析は、第一巻および第二巻が第七刷が売り切れた時点でもう発行されていないし、第三巻も第三冊が売り切れた時点で発行が途絶えた。古書店でのみ見つけることができるが、新刊書よりも高価となっている。どうしても手に入らない場合には、現時点では、琉球新報社のカルチャーセンターで行われている「祖先崇拝の心理学と家族療法入門講座」を受講され、副読本を入手されると良いであろう)。
家族療法研究所研究室にて
医学榑士 又吉正治
1988年9月吉日
以上のようなことから始めた「祖先崇拝の基本儀礼」の研究と著述も、当初の民俗医学の研究から、生活習慣の重要さを知り、それはまた種々の不幸や病気の予防法、治療法としての「家族療法」の方法論として発展してきた。最後に、「家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼」の意義について、書きとめておくこととし、諸氏の参考となるようにしたい。家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼の意義祖先祭祀なるものが、何故に家族療法となり得るのか、ということは、多くの人々の疑問を誘うようである。それは、家族療法の基本である、家族成員間の、特に情緒的関係を良好なものとし、IPつまり患者のようなもの(家族療法では
「患者」とは言わずに、Identified Patientと称する)に生じている種々の精神的・肉体的症状に対処しようとするという考え方が、祖先祭祀の基本理念と全く同一のものである、ということが余り知られていないためである。
この辺のことが理解されれば、祖先祭祀の生活習慣は、家族療法の治療法の実践法となっていることがはっきりするのである。しかし、多くの人が家族療法の理論も知らないし、祖先祭祀の論理も知らないというのが現状なので、どうしようもないことが多い。この辺に私が「先駆者」として業績を残し得る余地が存在すると考えられる。家族療法の理論体系の整備の研究と、家族療法の実践法の体系の整備の研究が同時に行ない得るのである。
本書は、このような考え方を基にして著述されるもので、対象は一般家庭の主婦(現在では、「組織」や「団体」も、一種の擬似家族とみなした上で、「やる気」などをマネージメントする方法などとして、管理者なども対象とすることができるようになっている)であり、民俗医学(現在では、日本文化(祖先崇拝)の心理学と家族療法、という)に基づく家族療法の実践主体である。私は家庭における女性(主婦・妻・母親の立場となる)を、KeyPerson(鍵となる人物)と称して、その重要佳を主張している(日本家族研究・家族療法学会家族療法セミナー委員会編、「家」と家族療法、金剛出版刊に所収の私の論文である、ユタと沖縄の「家」、
を参照)。
生活習慣を正しく実践するだけで家族療法の治療効果が発揮される、これは私には「素晴らしい」としか言い様がない。学術的な観点からしても、治療者は、普通は高等教育・専門教育を受けた一部の人がなる訳だけれども、本書に述べる方法によるならば、原理的には全ての人がなれる訳であるし(現在の教育システムのように、心理学の専門家を増やしても、専門家と患者を増やすことにしか貢献しえず、結局は、世の中はいつまでも混沌としたまま、ということでしかない。これは何かおかしいのである)、また宗教的な観点からしても、現世利益の追求と人間性の高揚の、一見しただけでは矛盾のありそうなことが実現可能という、革命的な事柄が含まれているのである。ただし、その実践主体が女性に限られる(現在では、このことは、「他者を甘えさせる立場にある者」と一般化できるようになっている)という制約があるけれども、しかし、実践主体が女性にあるからといって、男性である私が躊躇する必要もないと考えられる。実践主体が効果的に実践できるようにするための技法の研究が不可欠だからである。これは例えば企業において、幾ら優秀な製造工がいようとも、製造のための新しい技術の開発となれば、それはそれで別の専門家、そして製造を行なうための適切な環境などが必要とされるからである。
この意味で、女性が家庭生活における種々の問題に対処する能力を発揮することができるような技法を提供することが本書の第一義的目的であるが、その能力を効果的に発揮するための環境を整備するということでは、女性のためだけではなく、男性のためでもあるように、注意してまとめてあるのが本書である。
いずれにせよ、人間には悩みがつきものではあるけれども、これを自分自身で対処し解決する能力を少しでも修得することは、大変に良いことである。フィンランドのガイ・ベックマン教授が大阪府立大学の黒田研二教授とともに来沖されたことがあるが、そのときのベックマン教授のお話では、社会福祉が高度に進んだかの国では、家庭内の問題(夫婦喧嘩なども)は専門の相談員が応じるようになっているという。しかし、そのような個人的な問題まで社会が面倒をみるようでは、福祉で国家予算はパンクしてしまうであろうということだ。各人が各人なりの問題解決能力を身につける必要が叫ばれるのであるが、沖縄の祖先祭祀の方法は、そのようなものなのである。したがって、今後は世界の注目を集めるようなものなのであると言えよう。
多くの人にお役に立つことができれば、それだけ杜会も良い方向に変化するであろうし、これは私も学者、研究者として、冥利につきるものである。今後とも多くの方々のご意見などを伺わせて頂き、もっともっと今後とも理論体系と実践体系の整備の研究に邁進していきたい所存であるので、各位の御協力が得られることを願っている。またこれまでに種々の面で多くの人々のご協力が頂けたのであるが、それらの方々の御名前を一人一人あげるゆとりはないのが恐縮ではあるが、末筆ながら深謝の意を表しておきたい。
平成2年11月吉日
医学博士 又吉正治
(付記)今年(平成15年)始めに亡くなられたユタの上原実余子さんには、とくにメリーランド大学内での祖先崇拝学の講義に際し、アメリカ人学生達の判示をとって頂くなど、多大な御協力を得た。記して感謝の意を表しておきたい。