家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼

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第0章 まえがき( 1 / 1 )

まえがきのまえがき

 電子書籍版を発行するにあたり、沖縄県内だけでなく、日本全国を対象とするこ
とになるわけだから、分り易くするために手を入れることとしました。また、沖縄とい
う地域に残っている祖先祭祀文化の研究を通してえた事柄であるので、全国的に
通用するような表現法といったことにまだわからない面がある。したがって、何か追
加訂正等な発生するとき、購読者として登録させて頂き、その都度御連絡申し上
げる こととしたい。したがって、購読された方はメールアドレスなど、御連絡頂けれ
ば幸いです。宜しくお願い申し上げます。

 著者は亥年生まれである。つまり、今年は、アタイドゥシ(ウマリドゥシ、いわゆる厄年のこと)であり、還暦である。この手作り本も、もう長い間にわたって、細々と続いてきて、著者の研究活動を支えてくれた。ここにいたり、普段から疑問ではあったが、そのままにして置いた問題がある。何かというと、忘れていた問題を實川幹朗姫路獨協大学教授に指摘されたのであるが、「祖先崇拝」という用語の問題なのだ。

 これは、もう四半世紀を経過しようとしているけれども、かつて、饒平名健爾(よへなけんじ)琉球大学教授(文化人類学)が御存命の頃、「祖先崇拝」という用語はどうもおかしい、われわれは祖先を本当に崇拝しているのだろうか、いや、そうではないだろう、という話になり、たまたま沖縄テレビ(番組名は失念した)に出演することになり、そのことをコメントした経緯がある。實川さんからの指摘で、再度、この問題が浮き上がった。

 祖先崇拝文化の中にいるわれわれは、実際には何をやっているかというと、祖先を崇拝して生きているのではなく、祖先の苦揺解き(先祖供養)を主とした祖先祭祀を行っているだけなのである。この意味でも、祖先崇拝という言葉は、その実態を示しておらず、表面的な行動が、あたかも一神教の信徒のように見るならば、崇拝しているかのように見えるので命名されただけのことかもしれない、ということなのである。この手作り本のタイトルも、したがって、家族療法の機能を発揮するのは、祖先崇拝というものではなく、祖先祭祀なのであるということであるから、長い間にわたって続いてきた、家族療法としての祖先崇拝の基本儀礼、というのではなく、家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼と変更することにした。意味としては、これがピタリ!である。なぜ今まで放っておいたのだろう。實川さんに深謝である。
 
                                                平成十九年六月十八日
                                 モバイル・ラボラトリ(移動研究車)内にて(西原町)
                                                        又吉 正治
まえがき
 本書は、平成2年に発行された「祖先崇拝の基本儀礼第3版」の復刻・改定版である。この本を書く前に私は、「生活習慣としての祖先崇拝の基本儀礼その心理学・精神医学的意義について」というパンフレットを著したことがある。そのパンフレットは、私の正規の著書である「琉球文化の精神分析』(第1巻マブイとユタの世界、第2巻先祖の崇りと御願)および『「男」と「女」こころの違い』とは異なって、書店に並ぶことなく、希望者に分けてあげていた私的なものであった。しかし、これまでに沖縄において根強い生活習慣となっている祖先祭祀については、正面から論じる人も殆どいなかったこともあって、そのパンフレットは根強い人気を得ることとなった。細々とではあるが、研究生活を支えるほどではないけれども、今なお望まれているものである。

 細々とではあるが、普及していくにつれて、そのパンフレットでは扱い切れなかった事柄に対しても読者からの要望が強く出てきて、新たなことを追加する必要性に迫られた。さらに、体系的に研究成果を記述する必要性がでてきた。そんな事情の中で、私が従来から提唱してきた『民俗医学』の研究が、多くの困難の中でも着々と成果を拳げることができ、『民俗医学』は「家族療法の理論」として成長してきた。

 私の研究自身も、昭和六三年に創設された『宇流麻学術研究基金』の第一回の助成対象となることができ、社会的な意味でも市民権を得ることができたような状態になってきた。この様な事情の中で、研究もかなりのまとまりが得られて、読者の御要望にもかなり応えることができるようになってきた。以上のような状況となってきたので、研究と講義と雑務の間を見計いながら、コツコツと書き溜めてきたのが本書である。多くの方々のお役に立てれば、著者の最も幸いとするところである。

 なお、この本を一般的な形の『書籍』として著そうかとも考えたが、市場の狭い沖縄県では経済的になかなか難しい面があることと、研究の進展にしたがって暫時に追加して体系化をはかっていく必要性もあることから、この様な形のものをもう少し続けていくこととした。御理解と御協力が得られればこれに勝る慶び
はないであろう。御参考までに、この本の前身である『生活習慣としての祖先崇拝の基本儀礼その心理学・精神医学的意義について』の『まえがき』に示しておいたことを次に再述しておこう。著者の提唱している民俗医学』そして『家族療法』の意図がよく理解して戴けると思うからである。興味が無ければ読み飛ばしていただきたい。

第一版まえがき
 「民俗医学」、耳慣れない言葉であるが、これは民間の風俗・習慣つまり『民俗』にみる「医学」である。ここでいう医学とは精神医学、精神病理学、心理学、家族療法学といったものが主である。 なぜ『民俗医学』なるものが必要とされるのか? というのは次の様なことのためである。

 現代はイジメや非行、ノイローゼや心身症、酒乱、浮気、精神病などといったことが蔓延しており、人間とは一体何なのか?あるいは人間性は荒廃しつつある方向にあるのではないか? という不安に満ちた状態ではないだろうか。この様な時勢にあっては、人間が人間自身の性質をよく知ることが先ず第一に必要とさ
れていると言えよう。それでは人間について勉強してみようかというとき、現実に入手できるものは、難解か、もしくは断片的に過ぎる心理学・精神医学関係の本、さもなくば宗教やオカルトの類いのものではないだろうか。

 人間をよく理解しようと思えば、その人間が住んでいる地域の文化に潜んでいる意味を探っていくことが、これはあるいは著者の独断と偏見かもしれないが、最も適した方法ではないだろうかと考えられる。なぜなら『文化』は人間の精神的活動の所産であることは疑うことのできない事実なのであり、しかも古来ヒトが居住してきた地域には、人間が生きるため、そして苦悩や不幸、病気などを避けるための経験的な叡智や知恵が集積されているはずなのである。

 その例は、例えば医学がかなり発達している現代においても、子育ては主として昔からの言い伝えに基づいて行なわれているのが普通であるし、幾ら心理学が進歩していようと、人間関係は地域の慣習に基づいて行なわれるのが普通だからである、という点に見ることができる。 しかも、その「心理学」自体も、地域の文化や研究者が属する文化圏の影響を必然的に受けたものである。現代の日本では、西洋から輸入した心理学をそのまま使うことが殆どであるが、これもナンセンスなことであると思われる。このことに気付いていない心理学者が大半ではなかろうか。

 しかもこれらの叡智や知恵は、多くの人々によって追試、確認されていく筈なのである。まったくの無意味なものを大切に伝承していくほどに、人間は愚かではないであろう。しかし、万一その様な「愚かなこと」があるとすれば、それはまた、それなりに『人間の性質』を知るための良い研究材料を提供しているのであると考えてよい。以上のような意味において、沖縄に伝わる祖先祭祀の伝統的な生活習慣を、実はこれは何も沖縄特有のことなのではなく日本本土や、ひいてはアジア地域にまで及んでいると考えられるのであるが、心理学、精神医学の観点からの分析を行い、それを普遍的なものにまで高めていくことには、大いなる意義があるものと著者は確信している。何となれば、文化というものには全ての人々が関心を寄せるであろうし、それが学問的に裏打ちされたものであれば、全ての人が『人間の性質』を理解するようになる、ということに他ならないからである。人間が人間のことを理解することの必要性があることは、例えば、フランスはリヨン大学のアレキシス・カレル教授が、彼はノーベル医学・生理学部門の受賞者であるが、口を酸っぱくして説いてきたことでもある。

 以上のような試みが成功するものがどうか一抹の不安を感じることもあるが、多くの方々の御意見が拝聴できれば幸いである。また本書は「祖先祭祀の基本儀礼」に必要なことのみを解説したものなので、ここに述べた以外のことは、拙著、琉球文化の精神分析第一巻および第二巻、「男」と「女」こころの違い、などを必要に応じて参照されたい(実際には、これらの書物は、例えば、琉球文化の精神分析は、第一巻および第二巻が第七刷が売り切れた時点でもう発行されていないし、第三巻も第三冊が売り切れた時点で発行が途絶えた。古書店でのみ見つけることができるが、新刊書よりも高価となっている。どうしても手に入らない場合には、現時点では、琉球新報社のカルチャーセンターで行われている「祖先崇拝の心理学と家族療法入門講座」を受講され、副読本を入手されると良いであろう)。

                                              家族療法研究所研究室にて
                                                   医学榑士 又吉正治
                                                     1988年9月吉日

 以上のようなことから始めた「祖先崇拝の基本儀礼」の研究と著述も、当初の民俗医学の研究から、生活習慣の重要さを知り、それはまた種々の不幸や病気の予防法、治療法としての「家族療法」の方法論として発展してきた。最後に、「家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼」の意義について、書きとめておくこととし、諸氏の参考となるようにしたい。家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼の意義祖先祭祀なるものが、何故に家族療法となり得るのか、ということは、多くの人々の疑問を誘うようである。それは、家族療法の基本である、家族成員間の、特に情緒的関係を良好なものとし、IPつまり患者のようなもの(家族療法では
「患者」とは言わずに、Identified Patientと称する)に生じている種々の精神的・肉体的症状に対処しようとするという考え方が、祖先祭祀の基本理念と全く同一のものである、ということが余り知られていないためである。

 この辺のことが理解されれば、祖先祭祀の生活習慣は、家族療法の治療法の実践法となっていることがはっきりするのである。しかし、多くの人が家族療法の理論も知らないし、祖先祭祀の論理も知らないというのが現状なので、どうしようもないことが多い。この辺に私が「先駆者」として業績を残し得る余地が存在すると考えられる。家族療法の理論体系の整備の研究と、家族療法の実践法の体系の整備の研究が同時に行ない得るのである。

 本書は、このような考え方を基にして著述されるもので、対象は一般家庭の主婦(現在では、「組織」や「団体」も、一種の擬似家族とみなした上で、「やる気」などをマネージメントする方法などとして、管理者なども対象とすることができるようになっている)であり、民俗医学(現在では、日本文化(祖先崇拝)の心理学と家族療法、という)に基づく家族療法の実践主体である。私は家庭における女性(主婦・妻・母親の立場となる)を、KeyPerson(鍵となる人物)と称して、その重要佳を主張している(日本家族研究・家族療法学会家族療法セミナー委員会編、「家」と家族療法、金剛出版刊に所収の私の論文である、ユタと沖縄の「家」、
を参照)。

 生活習慣を正しく実践するだけで家族療法の治療効果が発揮される、これは私には「素晴らしい」としか言い様がない。学術的な観点からしても、治療者は、普通は高等教育・専門教育を受けた一部の人がなる訳だけれども、本書に述べる方法によるならば、原理的には全ての人がなれる訳であるし(現在の教育システムのように、心理学の専門家を増やしても、専門家と患者を増やすことにしか貢献しえず、結局は、世の中はいつまでも混沌としたまま、ということでしかない。これは何かおかしいのである)、また宗教的な観点からしても、現世利益の追求と人間性の高揚の、一見しただけでは矛盾のありそうなことが実現可能という、革命的な事柄が含まれているのである。ただし、その実践主体が女性に限られる(現在では、このことは、「他者を甘えさせる立場にある者」と一般化できるようになっている)という制約があるけれども、しかし、実践主体が女性にあるからといって、男性である私が躊躇する必要もないと考えられる。実践主体が効果的に実践できるようにするための技法の研究が不可欠だからである。これは例えば企業において、幾ら優秀な製造工がいようとも、製造のための新しい技術の開発となれば、それはそれで別の専門家、そして製造を行なうための適切な環境などが必要とされるからである。

 この意味で、女性が家庭生活における種々の問題に対処する能力を発揮することができるような技法を提供することが本書の第一義的目的であるが、その能力を効果的に発揮するための環境を整備するということでは、女性のためだけではなく、男性のためでもあるように、注意してまとめてあるのが本書である。
いずれにせよ、人間には悩みがつきものではあるけれども、これを自分自身で対処し解決する能力を少しでも修得することは、大変に良いことである。フィンランドのガイ・ベックマン教授が大阪府立大学の黒田研二教授とともに来沖されたことがあるが、そのときのベックマン教授のお話では、社会福祉が高度に進んだかの国では、家庭内の問題(夫婦喧嘩なども)は専門の相談員が応じるようになっているという。しかし、そのような個人的な問題まで社会が面倒をみるようでは、福祉で国家予算はパンクしてしまうであろうということだ。各人が各人なりの問題解決能力を身につける必要が叫ばれるのであるが、沖縄の祖先祭祀の方法は、そのようなものなのである。したがって、今後は世界の注目を集めるようなものなのであると言えよう。

 多くの人にお役に立つことができれば、それだけ杜会も良い方向に変化するであろうし、これは私も学者、研究者として、冥利につきるものである。今後とも多くの方々のご意見などを伺わせて頂き、もっともっと今後とも理論体系と実践体系の整備の研究に邁進していきたい所存であるので、各位の御協力が得られることを願っている。またこれまでに種々の面で多くの人々のご協力が頂けたのであるが、それらの方々の御名前を一人一人あげるゆとりはないのが恐縮ではあるが、末筆ながら深謝の意を表しておきたい。

                                                       平成2年11月吉日
                                                   医学博士 又吉正治

 (付記)今年(平成15年)始めに亡くなられたユタの上原実余子さんには、とくにメリーランド大学内での祖先崇拝学の講義に際し、アメリカ人学生達の判示をとって頂くなど、多大な御協力を得た。記して感謝の意を表しておきたい。

目次( 1 / 1 )


まえがきのまえがき 一
まえがき
第一版まえがき 
家族療法としての祖先祭祀の基本儀礼の意義

第一章 はじめに ……….....................................………3
祖先祭祀と心理療法

第二章 祖先は崇拝すべきか?.....................................5
祖先崇拝か?先祖崇拝か?

第三章 火の神について ……… ...................................6
第一節 火の神の意味
第一項 ヒヌカンは点・値・海の象徴 
第二項 ヒヌカンの位置付け
第二節 ヒヌカンの祭祀
第三節 塩と水について
第四節 線香について
第一項 三枚の白紙の意味
第二項 線香の意味 
第五節 ヒヌカンの設置場所

第四章 仏および元祖の祭祀.........................................7
第一節 仏について 
第二節 ウクワンヌン 
第三節 ウクワンティン 
第四節 石巌当 
第五節 将来の「仏」 
第六節 トートーメーの祭祀
第一項 写真とトートーメー
第二項 苦揺解きの基本 
第三項 夫と妻のトートーメー

第五章 祖先祭祀の基本儀礼 … .................................8
第一節 基礎事項 
第二節ウチャトー・ミントー 
第一項 朝の報告 
第二項 晩の報告 
第三項フンシヘの報告

第六章 良い点の見付け方...........................................9
第一節 良い点のみつけ方① 
第二節 良い点のみつけ方② 
第三節 良い点のみつけ方③ 
第四節 良い点のみつけ方④ 
第五節 良い点のみつけ方⑤
第六節 良い点のみつけ方⑥
第七節 良い点のみつけ方⑦ 

第七章 大家、元家の御願 …....................................10

第八章 屋敷の御願 ………...................................…11 
第一節 なぜ二月と八月か? 
第二節 「ミ」と「巳」と「実」
第三節 蛇の夢を見ると、お金が儲かる? 
第四節 線香は? 
屋敷の御願の御意趣(一) 
屋敷の御願の御意趣(二) 
ヒヌカンの御意趣
屋敷の御願の御意趣(三) 
四隅の御意趣

第九章 祖先祭祀と家族療法.....................................12
第一節 なぜ治るのか? 
第二節 共稼ぎ家庭と祖先祭祀
第三節 子供の言葉遺いと祖先祭祀

第十章 あとがき~人聞とは? ...................................13

第1章 諸論( 1 / 2 )

 本書は、私達の日常生活に深く根を下ろしているところの、祖先祭祀の慣習を心理学、精神医学的に分析し、毎日の生活に活かそうとするものである。祖先祭祀は、いわゆる伝統的な宗教があまり好まないところの『現世利益』の追求、すなわち、悩み事、不幸、病気といったものの解消を第一義的な目的としているところにその大きな特徴がある。このためもあってか、一般的には、祖先祭祀を行う祖先崇拝は低級宗教、原始宗教などと考えられるのが普通である(例えば広辞苑(岩波書店刊)を参照してみよ)。

 しかし、悩み事や不幸、病気の解消を願うことは、人間にとって最も基本的なものの一つと考えられるのであって、これらを願うこと、すなわち現世利益の追求が程度の低いこととは、実際問題としては大変に考え難いことである。現世利益の追求は、換言すれば、医学的効果の追求であろう。私は医学者の端くれであるわけだが、私が人々に提供する学識や技法が、どう考えても低級とか原始的とは見なし難いのである。悩み事や不幸、病気の発生する原因や家庭内の人間関係の心理については、拙著『琉球文化の精神分析・第一巻および第二巻』、さらに『「男」と「女」こころの違い』などの書物を参考(既述したように、これらの書物は、もうなかなか手に入らない。現時点(平成十五年)では、琉球新報社のカルチャーセンターで行われている「祖先崇拝の心理学と家族療法入門」講座を受講していただき、副読本などを手に入れる方法しかない)にして戴くこととして、本書では、それらの諸理論に基づいて、祖先祭祀の基本儀礼を実践するだけで「家族療法」が効果的に実施されることをねらっている。現在(平成23年、2011年)においては、東洋企画印刷(株)刊の、まぶい分析学講義第1巻・マブイとユタの世界、第2巻・祖先からの知らせと御願、第3巻(上)・皇位/トートーメー継承の理論と実際が書店等で入手可能である。

 したがって、あくまでも現世利益の効果的追求を、家族療法の理論を全く学んだことの無い素人でも、祖先祭祀の基本儀礼を正しく実践することによって、効果的に行なうことを目的としたものが本書である。なぜ私がこのように主張するかというと、私のこれまでの経験では、従来から提唱していた民俗医学および民俗医学に基づいた家族療法の講義(平成15年現在では、「祖先崇拝の心理学と家族療法講座」という。平成21年現在ではまぶい分析学講座という)を行った後には、必ずといってよいほど聴衆・受講生からは、

先生! 火の神には、線香を何本立てて、拝むべきなのでしょうか?

   注 沖縄の家庭は必ず見られるもので「火の神」とされるものである。
             本土では、「竈神」とか「コージンさん」とか呼ばれたりする。台所の
 「火」のそばに置かれる「神」で、「家庭の守護神」とされているものである。
沖縄では線香を灯して立てる香炉があるが、本土では香炉はないのが一般的
なようである。

といった類いの質問が出されてきたことに端を発する。人間の心理や家族関係の講話を終えると、すぐに、このような質問が出るのである。かんじんの心理や家族療法の話の内容は理解して戴けたのかどうか? ということに大きな疑問と不安を感じながらも、いつもこの種の質問に答えることから質疑応答が始まるのが
常であった。

  これは一体どういうことなのであろうか。正直に言って、研究と講義・講習を始めた頃は、果たしてこれでよいのかどうかと、迷ってばかりであった。さらに正直に告白すると、こんなことなら、いわゆる学識者が言う「沖縄の人間は、はなはだ次元が低い!」と言うことも無理のないことかも、と考えあぐねることがしばしばであった。しかし、落ち着いて冷静に考えてみると、これは決して馬鹿げたことではなかったのである。この辺の事情をよく考えてみると、私が本章の冒頭で主張している、次の様なことが浮かび上がってくるのである。

一、 明らかに、心理的あるいは家族関係の問題と火の神ヘの祈りは、沖縄の
         人々の心の中では全く同一のものである。
二、 心の問題から生じる病や不幸などは、祖先への祈りの不足が原因として考
                        えられている。

 私自身、始めは疑間だらけであったことなのだが、実は後になってみると、琉球文化の精神分析という仕事を通して、この様なことには実に奥深い意味があることを逆に教えられてしまう結果ことになってしまったのである。著者が主催していた民俗医学講習会、これは、現在では「家族と人間講座」に発展し、さらに、名護市教育委員会が主宰する名護市民大学では心理学として、タイムスメイト文化教室の活き生き女性学級(当時は、沖縄県内でも、いわゆるフェミニズム、ジェンダーフリー運動が盛んになりつつある頃で、ミスコンテストや那覇市の「じゅりうま祭り」…遊郭の女性たちのお祭り…などが凶弾される中で、祖先祭祀の慣習も凶弾される傾向にあった。沖縄タイムス社は、新聞不買運動を起こす!という女性運動化の圧力に負けて、この教室は閉鎖となった経緯がある)では「民俗医学・家族療法」として発展したが、これらでは、この様なことを講義させて頂いているのである(平成15年6月現在では、日本文化の心理学と家族療法入門講座(沖縄県向けとして「祖先崇拝の心理学と家族療法入門講座」として、琉球新報カルチャーセンターで週2回行われたりしていたが、平成20年現在以降はもう役目を終えた感じである)。

 以上の各講義の中では詳しく話しているのであるが、やはり本書のような内容のものも、本書の前身である「生活習慣としての祖先崇拝の基本儀礼その心理学・精神医学的な意義について」と同様に、ちゃんと文章にまとめて書き著さねばならなくなってきている。それは次のような理由によるのである。

一、 せっかく講習を受けても、要領を忘れてしまう。
二、 自分でも勉強したり、復習ができるようにして欲しい、という要望が多くでるようになった。
三、 家族や知人。友人にうまく説明することができない。

 しかし実際には、まとめるにしても、頭を悩ます問題が発生する。一体、祖先祭祀という伝統的な生活習慣というものは、人間の素朴かつ自然な感情の現れであると考えられるためであろうか、その儀礼自体の細部は各地域によってかなり異なるものであった。したがって、本書にてその全貌を述べることは、到底、不可能である。また私が宗教家の立場をとって、一つの標準的な儀式を構成することも手ではあろうが、それでは各地に伝承されてきている儀式・儀礼を抑圧してしまうことになり兼ねないし、これは自分の研究素材を自分で潰していくことでもあるので到底できないことである。

 このような事情もあって、私は民俗学的な手法(注)に基づく記述はいっさい採用せず、悩み事や不幸、病気からの回復を目指すための「家族療法」の観点からの記述に終始することとした。

(注)一般に民俗学では、種々の儀礼、儀式をなるたけ忠実に記録すると
いうことが大切にされる。

 私がそのような民俗学の手法を踏襲するとすれば、膨大な記録が出来上がり、記録するだけで私の一生は終わってしまうであろう。したがって、種々の儀式・儀礼の根底に流れる思想を読み取って、その思想を具現化するために必要最小限の儀式・儀礼を抽出して記述することとした。したがって、儀式・儀礼の意味するところを汲み取ってさえもらえるならば、細かな点は各地域における特徴を大いに出して良いと思う。このようにすれば、各地のそれぞれに独特な儀礼・儀式も温存することができるので、大変に都合が良いと言えよう。

 このために、特に「家族療法」なるものを必要とするのは特定の一地域の人々だけではないこともあって、本書では、できるだけ多くの人々に共通な「基本儀礼」のみを取り上げている。それらの基本儀礼のエッセンスさえ汲み取れば、どの様な地域においても、それなりに儀礼・儀式を心を込めて実践すれば、「家族療法」としての治療効果が得られるような生活習憤を構成することが可能なはずである。祖先祭祀の墓本儀礼は、我々の親・祖先が「当たり前のこと」として、その意味はたとえ理解せずとも、毎日毎日飽くこと無く、怠ること無く行って代々に渡って受け継いできたものである。特に沖縄の人々にとっては、それは余りにも身近で行われていることもあって、その意義の重大さを見落としがちであると言えよう。

 しかし、一度、その心理学・精神医学・家族療法学的な意味を知ると、我々の祖先が生み出した、日常生活の知恵の偉大さに改めて感心と驚嘆の念を禁じ得ない。このことは、私の理論を学習してくださった人々、講演会を聴いてくださった人々の意見を求めるとき(求めなくとも自発的に感想を述べてくれる人が多かったけれども(笑))、これまでには、延べ2万人余が聴いてくれたことになるが、異口同音に祖先が残した精神的文化遺産の重要さに驚嘆するのを感じ、かつ自分達の祖先と地域に親しみの念と誇りの気持ちが出てくることを報告してくれたのである。

 実際、自分の親・祖先、生まれた土地に愛着の念が生じるというのは、心理療法の効果としても素晴らしいものである。親・祖先、生まれた土地(育った土地ももちろんである)に愛着が持てずに、例えば反感・嫌悪感を感じるような人は、自己受容ができない人である。分析心理学者カール・グスタフ・ユングも、彼の著書のなかで、そのような人が勤勉さと努力で社会的地位を登りつめていく過程で、ある程度登ったときに、原因不明の体のしびれや悪寒を感じて仕事ができなくなってしまった男の例を述べ、そのような症状を山岳病と呼んだのである。これは、現代では「燃え尽き症候群」として理解されるものだ。

 ところで、『港川原人』の発掘などから知れるように、沖縄には太古の時代から人々が住んでいたことが明らかである。この様な地域には、人間が生き抜くため、苦痛を和らげるため、などの生活を豊かにするための叡智が、「祖先からの精神的な文化遺産」として伝承されているはずである。これらは「伝統文化」ないしは「民間伝承」として、我々には馴染みの深いものである。実際、古代から人間が住み着いている地域には、もろもろの文化が生まれて発展・継承されてきているものである(もちろん廃れたものもあるけれども)。精神的な文化遺産は「宗教」が代表的なものと考えてよいと思われるが、キリスト教にしろ仏教にしろ、あるいは道教にしろ、古くから人間が居住した地域に発生している。それらの宗教は、その地域で生活をするのに便利なように造られたものであり、その地域で生き抜いていくための独特の人間観を持っているものである。

 例えばキリスト教などは基本的人間観として性悪説(人間の本来の性質は悪であるという説。中国の荀子〈じゅんし〉が唱えた)を、祖先祭祀などは性善説(人間の本来の性質は善であるという説。中国の孟子〈もうし〉が唱えたをもっている。これは、どちらが正しいかということを考えるよりも、どちらもその地域にとっては正しいものなのである、と考えるほうが善いだろう。沖縄県内においても、一般に、農業に従事する人達(ハルサー)は性善説を、漁業に従事する人達(ウミンチュ)は性悪説をとっている傾向にある。

 しかし人間性に重要な影響を与えるので、私達はその場や環境に応じて適切に取捨選択できる力を持つ必要がある。例えば、性悪説にたって物事を考えるならば、常に欠点・短所がないかどうかを見定めようとするであろうし、性善説に基づくならば、物事の長所・利点を見つけようとすることになる。前者は科学技術や工業などといった分野では大きな力を発揮するであろうし、後者は対人間関係の分野で大きな力を発揮するであろう。実際、歴史的に見ても、性悪説の人間観を持つ国で技術的な問題は近代化を遂げてきたし、遅れてはいるけれども、性善説の人間観を持つ国の人間関係論は前者の国が学び始めているのである。具体的な例としては、工業製品の開発は、我が国が欧米諸国に遅れをとっているけれども、工業製品の生産の面では信頼性(人闇性が大きく関与する)の分野で大きく進歩していることがある。

 話をもとに戻そう。各地域には各地域で快適に生活していくための生活の知恵の伝承が行なわれてきている筈であり、それは地域の特性を十分に反映したものであるから、自分達の身近なものの理解を深めていくことはきわめて重要である。ここに我々は、伝統文化と民間伝承の、取り分け、心理・精神分析的な研究の重要な意義を見出すのである。参考のため、平成十一年に、東京・駒澤大学で行われた、第二回東洋思想と心理療法研究会において、講演した「祖先崇拝と心理療法」の小論を挙げておく。
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