ファミレスの奥まった席で、目の前にいるシライシ先生の顔を眺めた。『思ったより若くて綺麗な女性だな』そう思うと、急に気恥ずかしくなった。
シライシ先生が話し始める。
「オキムラさん、いつ頃から何ですか? 特定の人からあなたが見えなくなり始めたのは」
「三年くらい前だったと思います」
俺は特定の人間の目には映らない、言わば半透明人間になったのだ。元に戻そうと情報を探し、精神科医で、心理学の研究者だというシライシ先生にたどり着いた。変わった症例の研究をしているという。
「最初に気づいた時のことを教えてもらえますか?」
「仕事中に部長が近づいて来たのですが、何だか様子が変だったのです。あまり現場に来ない人なので顔を合わすことは少ないのですが、たまに会うと口うるさく説教をする人でした。でもその時は、他のメンバーへは説教したのに、私にだけ何も言わなかったのです。それまでは、私が一番強く文句を言われてたのですが」
話していると部長のことを思い出し、背筋が冷たくなった。それほど嫌いな相手だ。
「同じことが何度か続きました。あるとき、部長が部屋を出るときに小さな声で『今日もオキムラはいないのか』とつぶやいたのが聞こえました」
「なるほど、それで部長さんにはオキムラさんの姿が見えないのではないかと思ったのですね」
「その少し後、スナックで飲んでいるとき、酔っ払って他の客に絡んでいる人がいました。警察沙汰になったほどの暴れっぷりでした。どうやらその酔っ払いにも私は目に入らなかったようです。私だけ絡まれなかったし、ふらついてぶつかったとき妙な顔をしましたから。何にぶつかったのかわからないという表情でした」
「その後も同じようなことが続いたのですね」
「はい。今では、私が見えていない人が二十人以上いると思います」
「一度、オキムラさんのことが見えなくなった人は、そのままなのでしょうか? また見え始めたということはありませんか?」
「ないですね」
「お話を聞いて思ったのですが、オキムラさんのことが見えない人というのは、オキムラさん自身が、かかわりたくない人、目に入らないで欲しいと望んだ人ではないでしょうか?」
「そうなんです。だから今まで放っておいたのです。というより逆に、このままの方がいいと思っていました」
「では、何故元に戻そうと考えたのでしょうか」
「実は、結婚を考えている人がいまして、結婚となるとこのままではいけないと考え始めたのです。彼女の家族や親せき、知り合いなど、新しい人との付き合いが始まるのですが、その中に私の嫌いなタイプの人がいるかもしれない。いえ、それだけの人数の中には絶対にいるはずです。その人から見えなくなると、何かとトラブルになり、彼女に迷惑をかけることになりますから」
「なるほど」
そう言うとシライシ先生は、少しの間、窓の外を眺めていた。そしておもむろに話し始めた。
「大体わかりました。私もこういう現象を聞いたのは初めてです。でも、説明はつくと思います。あくまでも仮説ですが」
シライシ先生は、グラスを手に取りストローに口をつけた。
「私は、人間の精神は無意識でつながっていると考えています。これまで色々な現象を調べてたどり着いた結論です。別に珍しい考えでもなくて、同じことを言っている人も多いのですが」
「聞いたことがあります」
「多分オキムラさんは、かかわりたくない人に対して『自分を見ないで欲しい』と強く想ったのだと思います。その想いが、相手の無意識に伝わった――」
「無意識に伝わる……」
「最初の部長さん、その人に対する『自分を見ないで欲しい』という気持ちが強すぎたのだと思います。それが部長さんの無意識に働きかけ、催眠状態を作り出した――催眠術も相手の無意識に働きかけるものです。普通の催眠術と違い、直接相手の無意識に作用するのですから、その効果も非常に強いものになったと考えられます。部長さんは、オキムラさんが見えないという強い催眠術にかかっている状態なのです。最初は偶発的なものだったと思いますが、一度コツをつかんだ無意識は、それから簡単に相手に催眠をかけるようになっていったのでしょう」
「何となくわかります。で、この症状は治るのでしょうか?」
「不可能ではないでしょう。無意識もある程度コントロールできるようになります。ただし、時間がかかります。少しずつ訓練していかなくてはなりません」
「少し安心しました。治るのですね」
「治ると言っても、あくまでも無意識に催眠をかけることを防ぐ方法を身に着けることができるだけです。新たに催眠をかけることを防止するだけで、これまでにかけた相手の催眠を解くのは難しいでしょう」
「そうですか。完全に元に戻るわけではないのですね」
でも、何の問題もない。今自分のことが見えない相手は、本当に嫌な奴ばかりで別にこのままでも構わない。
これで彼女と結婚できる! 苦労してシライシ先生を見つけて本当に良かった。今まで目の前を覆っていた暗雲が一気に晴れた思いだ。
どんな訓練をすればいいのかわからないが、今ならどんな難しい訓練でも耐えることができる。
「それで、どのような訓練を……」
そう話始めた時、ドアを開けて新しい客が入ってきた。入口に目をむけて驚く。ユキ――俺の彼女だ。
『やばい』
ユキは嫉妬深い。シライシ先生のような若い女性と二人でいるところを見られると、面倒なことになる。せっかく幸せの絶頂だったのに、そんなことなったら台無しだ。
『ユキに気づかれませんように。ユキの目に俺の姿が見えませんように』
俺はそう強く想った。