さて、法然の問いに親鸞はどう応えるのでしょうか。
- 「わたくしはそれはちがうと思います。男は男のまま、女は女のままにて往生し、そして仏となる。仏の前にはすべて平等である、と上人さまは日ごろ教えておられます。尊い経典をかろんずるわけではございませんが、わたくしは変成男子という説にはこだわっておりません」
ざわめきがおこった。法然上人の左右につきしたがう高弟のなかには、呆れたような顔をするものや、嘲りの表情をうかべる者もいた。法然が静かな口調で話し出した
なんと、法話の席で名だたる仏典批判が飛び出しました。
これに対する法然の応答は感動的です。
- 「さきほど問われた女性に聞いていただきたいことがある。わたしは西国の美作国の田舎の生まれじゃ。父は幼くして争いの中で死に、わたしは母の手ひとつで育てられた。ゆえに母はただ一人の肉親じゃ。
やがて縁あって比叡山にのぼり、母と別れた。それが十三歳のときのこと。その数年後に、その母も世を去られた。わたしを手放したあとの独り暮らしは、どんなにさびしかったことであろうのう。わたしは、母を置き去りにして比叡山で学問したのじゃ。
だが、母を思わぬ日は、一日もなかった。いまもそうじゃ。そして、あの母上は、かならず浄土に往生されたと思うておる。たしかに仏になられたと。しかし、よいか。
わたしは浄土で男に変わった母になど、会いとうもない」
五木寛之『親鸞』
これはある意味、親鸞の仏典批判よりさらに過激です。親鸞の場合、仏の前では男女平等であるという理念から理論的に仏説の矛盾をつき、これを否定しているわけですが、法然の場合、たとえ仏典の言うことが正しく、母をが男子に変成して成仏したとしても
仏教の教理で捻じ曲げられた母親なぞには会いたくない、すなわち、そんな往生は息子のこの俺は認めないと自分の存在をかけて仏説に対峙しているように見えるからです。
彼岸にある仏の永遠が、此岸である母の思い出と地続きに直結していなくば、そんな来世に何の意味もない。自分はそんな世界には興味はないというこの否は、仏教教理の否定ではなくて、ことと次第によっては仏教そのものをまるごと認めないぞ、と宣言しているといえないでしょうか。
キリスト教の場合、現在は永遠から演繹されて現前すると言っていいでしょう。
それに対して法然のこの思想は、まず永遠の存在である母が現前し、そしてその母が何者にも変わることなく、来世に成仏する。
したがってこの思想を押しすすめれば、この世でゆえあって悪人であった自分の父親が
<罪を悔い改めて>(この聖書の常套句がすなわち永遠の側からの現在の真実の捏造であり教育的暴力であると私は思います)彼岸に善人として生まれ変わるのではなく、悪人のまま変成せずに成仏することこそ正しい成仏であるという思想が生まれます。
「悪人正機」とは、悪人が悔い改めて善人になって往生するのではなく、現世の宿命でそうであらねばならなかった悪人が、そのまま「よし、もう一度」と自分の人生を肯定して輪廻を選び直すことに似ているかもしれません。
私は今ここでもちろんニーチェの「永劫回帰」を思い浮かべながらこの文章を書いているのですが、決定論を生きることこそが人生の最高の肯定様式である、というこれ以上ない強度を持つツァラトゥストラの逆説は、また悪人正機の本質でもあろうと思います。
続く…
次回(下)で最後ね('-^*)/