大人のピアノ

大人のピアノ そのにじゅうろく 大人の音

 篠崎は延髄あたりにぼぅっと溜まった肉体的な快楽の余韻と、まだ次から次へと迫ってくる鍵盤の官能のスコールに自分の身を任せていた。

 武志のピアノは二十歳そこそこの人間の指から生まれたものとはとても思えなかった。何と言ったらいいのだろう…。音楽の技巧を語る言葉を持たない篠崎はまず、「円熟」とか「豊穣」とか「艶やか」といった言葉を思い浮かべたが、そのどれもが若者に対する賛辞の言葉としては似つかわしくないようにも思えた。しかし、目の前の演奏を聴いていると、それらはもしかすると必ずしも若さと矛盾するものでもないかと思いなおした。若さを保ちつつ、いや若さゆえのその独特な円熟味、豊穣さ、艶やかさといったものがこの世には確かにあるんだと思った。

 この音を紡ぎ出す若者は、大げさにいえば生きていくことの急所のようなものを見たことがある、感じたことが確実にあるのだと思った。人は普通年齢を重ねることで、自然と樹木の年輪が増えるように円熟したり、豊穣さが自然と湧いたり、艶やかさが内側から出てくるのだと無条件に前提している。若さの特権という言葉があるように、加齢の特権もまた等しくあるのだと思っている。
 篠崎は人からどれだけいい加減な男だと笑われながらも、自分なりにはその急所のようなものを垣間見、打ちのめされ、咀嚼し、小さく喜びを噛みしめて丁寧に生きてきた自負がある。だから「本物」だけは分かるつもりだったし、そのことは誰にも言ったことがないが絶対の自信を持っている。

 若い武志のピアノは「本物」だった。その本物さは技巧を褒めそやす言葉では捉えることのできない種類のものだった。32分音符の下降音がどうのといった言葉はむしろ滑稽に思えた。
 それにしても篠崎は不思議でならなかった。若い武志はいったいどうやっこの急所を捉えて咀嚼して自分のピアノに反映させることができたのだろうか。自分のような凡人がまったく想像もできない手順で人生を近道する秘密がこの世界には隠されているのだろうか。

 篠崎はこの世界の迷路の中で出口を見失ってしまう人間がほとんどだと経験上確信していた。自分もまたこうして自分の家の中に妻と子供と生活をし、仕事に出かけ、ピアノを覚え、人と喧嘩したり仲直りしたりする毎日を送れていることは奇跡だと思っていた。

 しかしそれが奇跡だと気がつくまでに実に少なくとも四十年はかかった。気がつけて良かったと心の底から思っている。無信仰の自分だが、神に感謝したいくらいだ。自分には神はいないので、密かに妻や娘や仕事仲間に神に感謝するようにこっそり感謝してる。妻も娘も仕事仲間も誰一人篠崎の気持ちを察するものはいないだろう。察せられないことがこの信仰の証であり、そんな恥ずかしことがバレないことが信仰の条件だ。

 武志のピアノは、その誰にも言ったことのないはずの篠崎の気持ちを鍵盤に載せ、優しくそっと一緒に感謝してくれるような音だった。僕は篠崎さんのその心の音を聴いたことがあるよ。武志のピアノは篠崎にそう語りかけていた。その音は自分だけしか知らないはずの音だった。しかしその秘密の音が、今目の前の若者の指から奏でられては自分の精神と肉体の髄に達して心地よく自分を支配していた。




 たぶん石橋もまた自分と同じようなことを感じていると篠崎は確信した。

 おそらく南方もそうなのだろう。





 さて、困った。

 この天才をどうやってこの窮地から救ったら良いのだろうか…





 篠崎がふと顔をあげると、同じような顔をしている石橋と目が合った。

 二人はにっこり笑いあった。

 そしていくつかのことに対して苦笑した…。

 幸せな気持ちだった。




つづく

 

大人のピアノ そのにじゅうなな 天才の苦悩

 一曲終わった。

 正味5分程だったのだろうが、篠崎には30-40分くらい感じられた。それ程ずっしりと耳というより心に残るものがあった。

 曲が終わったあと、朝子が放心状態からさめて涙ながらに拍手をしている。なつみ先生も驚いている様子だった。おそらく数年前までの自分が知っていた頃の武志のピアノとは格段に違っていたのだろう。いわゆる職業柄、自分以外のピアニストの優れた演奏などというものは聞き飽きているなつみ先生はずだったが、先生は弟の演奏に驚嘆の念を持って感動していた。



 曲の名は知らない。出だしはモーツアルトのピアノ協奏曲のような華やかながらも端正な輪郭を持った感じだったが、カデンツァはモーツァルトを逸脱してもっとベートーヴェン的で、ロマンティックであり情熱的だった。おそらくたった今即興的に、武志が頭の中で作って演奏したものだろう。

 篠崎の知る数少ない作曲家のエピソードで印象的なのが、ベートーヴェンのものだった。もっとも篠崎が好きなのはいわゆるベートーヴェンらしいベートーヴェンの話ではない。ベートーヴェンらしいというと、例えばゲーテと宮殿の庭を歩いている時に貴族が前からやってきた話だ。元総理大臣のゲーテが道を譲ったのにベートーヴェンは最後まで譲らず、結局貴族に道を譲らせた話などだ。篠崎の好きなのは、口下手のベートーヴェンが自宅で妙齢なご婦人を前にして話が続かず、すっと立ち上がるとピアノの前に行って何時間も即興演奏をしたというものだった。当たり前だがCDなど残ってなどいないが、篠崎はこういう時のベートーヴェンの演奏を聴いてみたいと思ったものだった。



 それはこんな理由である。

 斎藤なつみ「大人のピアノ教室」のテーマソングみたいになっている西田敏行の「もしもピアノが弾けたなら」。これは、もしもピアノが弾けたなら思いのすべてを歌にして、君に伝えたい、だけど僕にはピアノもその腕もないというのがテーマだ。

 篠崎がベートーヴェンの即興演奏のエピソードが身近に感じられて好きなのは、ベートーヴェンがちょうど西田敏行と反対側から同じことを思っていたんじゃないか、という勝手な想像からだった。

 ベートーヴェンはもちろん、君に聴かせるピアノも腕もあった。でも伝える言葉がうまく出てこなかった。音にしたくても音にできない、ピアノが弾きたくても弾けない。それと同じように言葉にしたくてもできない、伝えたくても伝わらない。そんな悩みもあるんじゃないか。音楽であれほどまでに男女の愛の官能的な秘密の奥底に達しながらも、目の前の女性にそれを言葉では伝えられない。そのもどかしさを、他に伝えるすべのないベートーヴェンは音に託した。本当は気の利いた愛の言葉でもかけたかったのかもしれない。間違いなく貴族に道を譲ったゲーテにはそれができた。篠崎はベートーヴェンの即興演奏のエピソードをそんな風に自分なりに勝手に解釈していた。


 篠崎がこのことを思い出したのは、この凄まじいまでの演奏をした武志もまた、音楽の才能ゆえの早すぎる円熟、豊穣、艶やかさを持て余しているのではないのか。自分が音楽を通じて感じてしまった人生の秘密に自分の人生が追いつかないことのアンバランスに苦しんでいたりすることはないのだろうか…。完璧なピアニストであったベートーヴェンが心を寄せる女性の前では言葉が出てこなかったように。

 自分を認めてくれる人間は自分の周りにはおそらく沢山いただろう。しかしその武志が、ヤクザ者の南方のピアノにのめり込んだということの秘密はそのあたりにありはしないだろうか。



 次の曲が始まった。

 なつみ先生と朝子はじっと聴き入っている。

 篠崎は思いきって、さっき想像した武志が南方に惹かれた理由を石橋に話してみることにした。





つづく

大人のピアノ そのにじゅうはち ヤクザの心性

 篠崎は石橋に話をした。石橋は篠崎の話を黙って興味深そうに聞いていた。話の内容ばかりでなくその話し方の中に篠崎の人物を見ようというような視線であった。

「なるほど、興味深い話ですな。私などはあなたのようにきちんと言葉を使って考えをまとめる習慣も能力もないものですから、自分では深く考えてみようとはしませんでしたが、そういうことなのかもしれません」

 武志が新しく弾き始めたのはポピュラー曲だった。二人は演奏に耳を傾けながら話をした。

「人間みんな本来片足立ちで世間に足を下ろしてるようなアンバランスなものです。何処かが突出するとバランスが欠ける。バランスを崩せばよろけそうになって何かにつかまろうとする」

「武志君の場合それが南方さんだった」

 話をうまく合わせてくれた部分はあるかも知れないにせよ、篠崎はひとまず堅気じゃない人間と話が通じたことに安堵した。

「そういうところはあるのでしょう。あなたの話を伺ってそう思いました。考えてみれば武志とタイプは違うが南方のところに来る人間はみんな、片足立ちでふらついてそのまま一度倒れると自分は二度と起き上がれないんじゃないか、と思いつめた者ばかりかもしれないですね」

 まんざら篠崎に話を合わせているというばかりでなく、石橋は独りで頷きながら話し始めた。

「南方さんのところに、というとその…何と言いますか組に入門?入門というんでしょうか…」

「まあ、その言い方でもいいです。盃をもらうまでは事務所の下働き、少し上がって南方や私の自宅の警護と身の回りの世話などですから、ある面で伝統芸能の家元に身を預けるようなものかもしれません。そういう方々が聞いたら怒るかもしれませんが」そう言うと石橋おかしそうに笑った。

「もっとも当然求めているものは違いますな。組の若い連中はとにかく明快な答えが欲しいんですよ」

「…といいますと…」

「よくいうでしょう。この世界では親が白と言ったら黒いものでも白になる、と」

「聞きますね、それは」

「カタギの世界ですとこれは『長いものに巻かれろ』となります。しかしそれとは決定的に違うところがあります」

「違うところ?」

「ええ。うちの若い連中はね、南方が黒いものを白と言いますでしょ、それはまるで世紀の手品を見るような体験なんですよ。本当に黒いものが真っ白に見えるんです」

「手品…」

「そう、そこが違うところです。カタギの方が上司に例えばそう言われたらどうですか?色は手品のように変わったりしないでしょう」

「それはそうです」篠崎は広告代理店の営業マン生活を思い出して一人苦笑いをした。

「その時感じるのは、相手への嫌悪ですね」

「そうです」

「そしてもう一つ、そんな嫌悪すべき相手に従わざるを得ない自分に対する、輪をかけた嫌悪もあるはずでしょう」

「ええ、まあ」篠崎はぼんやりと自分が電報堂を辞めることになったいきさつを思い浮かべた。

「南方が『これは白だ』と言った場合、言われた方は本当にさっきまで黒だったものが白に見えてしまう。理屈じゃないんですな。それまで自分を捉えて放さなかった根源的不安や抑えきれない動物的な暴力衝動がまるで嘘のように消えて、その代わりに今自分は何をすべきかがはっきりと分かる明晰な純白の世界が広がるんです。そしてその大魔術を見ることができるのは選ばれた人間だけだ、という強烈な快感が自分の体に電流のように流れるんです。理屈をこねれば頭のいい人間に絶対にかなわず、単純に動物的な暴力に訴えて世間の爪弾きに成り果てた連中にとってこれは手品というより奇跡です」

「イエスキリストの奇跡を見ているようなものでしょうか」半分冗談で篠崎は尋ねる。

「そう言っていいでしょう」石橋は真顔で答えた。

「まあ、一種の催眠術かもしれませんが、南方を信じるものにとってその催眠術はずっと持続して解けることがないんですよ」

「ううん、ますます宗教のようだ」

「そうです。一種の宗教です。キリスト教が暴力を否定することが根本にあるのと違って、ヤクザ者の宗教は根底に暴力の肯定がある。それ以外は実に宗教的なものですよ。奇跡もあれば信仰もあるし、他者へのいたわりの心、戒律もある。その名の下に戦争をやらかす心理的メカニズムも同じです」

 石橋は今度は、宗教団体の人が聞いたら怒るだろうという言葉は加えなかった。




「武志君は…」

「さっき言ったように組の若い連中とは求めている答えは違います。ただ、南方のマジックが見えていて、そのマジックには心酔しているようにも見えます。もっとも南方が若い連中はにやって見せるマジックと、武志に対してやるマジックは別のものですがね。私もこうして言葉にするのは初めてなんですが…」

「それをお聞かせ願えませんか?」

「ええ、もちろんです」

 石橋は不慣れな言葉を手繰り寄せるように、じっとピアノを弾き続ける武志の後ろ姿を見ていた。






つづく

大人のピアノ そのにじゅうく 白と黒

 武志の弾く曲は三曲目に入っていた。今度は一転して典雅なバロック風の曲だった。バロックと言ってもバッハ的な荘厳さというよりは、少しヘンデル風の純朴で落ち着いたメロディックな対位法だ。これもおそらく武志の即興だろう。

「組の若い連中が、白と黒の必ずどちらかの世界を南方に与えてもらって満足するのとは違って…」

 武志の弾く曲を聴きながら石橋が言葉を探した。篠崎はどんな言葉が石橋の口から出てくるのかじっと待った。

「白でも黒でもない世界を武志は南方に探しているのかもしれません」

 まだ抽象的で篠崎にはよくわからなかった。石橋の次の言葉が出てくるのを待つべきだろうか…。

「そうですね、白でも黒でもなかったら灰色か、それともまったく違う赤とか黄色とか、そういうのじゃないな…」石橋自身言葉を探しながらしゃべっている。

「色のない世界かな、しいていえば」ここで石橋は武志の方を向いていた顔を篠崎に向けた。

「そういうものを超越した世界ですか?」石橋の邪魔をしてはいけないとタイミングを計っていた篠崎はここでやっと合いの手をいれた。

「ええ、ある意味不気味で恐ろしい世界かなとも思います。私を含めてヤクザ者の根本はやはり白か黒の二進法なんですよ。それが親の一言で反転したとしても。敵と味方、その二つしかない。味方は守るし敵は殺す。根本原理はそれだけです。」

 いきなり過激な言葉が飛び出してきて、しかもこの石橋がそういう言葉を使うと当たり前だがリアリティがありすぎて、篠崎は思わずゴクリと唾を飲み込んだ。

「あ、いや、これは場違いなたとえを言いまして申し訳ありません」

 リビングの空気の温度が少し下がったのを感じて石橋が苦笑しながら言った。曲を聴いていたなつみ先生と朝子も耳ざとく反応して、目を合わさないようにしながらもこちらをチラチラ見たのを察したのだろう。

「要するに白か黒かどちらでもない世界、それどころか色のない世界というようなものを認めるということは私を含めたある種の人間にとってはある意味恐怖なわけです」つとめて柔和な顔を作って石橋が言った。

「恐怖…ですか」

「ええ、なんといいますかね…私は戦争は直接は知らないですが、敵もまた人間だとか、自分と同じ悩みを持っているという考えは戦場では必要ないでしょう」

「ああ、やっと分かってきましたよ。はい、それなら分かります。戦場で敵を前にした時そういう感覚は、もしかすると必要ないどころか命取りになる時もあるかもしれませんね」

「ええ、ええ。そういうことを言いたかったのですが、つい不慣れな話をしているもので恐縮です」

 石橋はそういうと篠崎と、さっきからこちらの様子をこっそりうかがっていたなつみ先生と朝子に軽く頭を下げた。二人は様子を伺っていたのばれていたのに気がつき、顔を見合わせてやはり同じようにチョコンと頭を下げた。

「色がない世界というのは…だから…」

 ここでまた石橋が言葉を探した。一般人に過激な言葉を排除しながら説明しようと苦労している様子だった。

「アメリカと日本がけんかしているとしてどっちが正しいとか、いやいや中国の言っていることが正しいんだとか、これが白でも黒でもなく、赤が正しいっていうバトルかな」

「なるほど、その例でいう中国が目の前の敵でも味方でもない世界ですね」

「そうです。これも我々は嫌います。この場合中国が敵なのか味方なのかどっちなのかを親に決めてもらいたいわけですね」

「よく分かります」

「武志のピアノを聴いていると…」石橋はまたここで言葉を探し始めた。



「天皇制もヤクザ組織も大統領制も共産主義も、何もなくなった世界にいるような…」

「あ、また少しわかりかけてきました。それが色のない世界ですか」

「ええ、何と言いますか。戦場では非常に有害な危険で音楽だと思います。ですのでヤクザ者にとっても本来よくない音楽だと言えるでしょう」

 石橋は自分ではなんとか一定の説明はできたのかもしれないという顔をした。同時にこれ以上はうまく言えないという困った顔もしていた。

「皆さんそう感じているのでしょうか」おぼろげながら言いたいことは分かったような気がした篠崎は尋ねてみた。

「組の人間ですか?たぶんそういうことは感じてはいないでしょう。私とあとは南方のおやじだけです」

「南方さんも」

「はい。音楽の素養も何も皆無の私ですが、武志のピアノを聴いたときどこかで聴いたことのあるピアノだって思ったんです」

「もしかするとそれが…」

「ええ。一番白黒の二進法の頂点にいるはずの南方がたまに弾くピアノは、武志とそっくりな音だったんです」

「同じ音…」

「そうです。白も黒も親兄弟も敵味方も何もない世界、南方が弾くピアノはそういうピアノだったんです。武志のピアノを聴くようになって分かった。オヤジのピアノが、私がお側で40年ばかり常に命をかけてお守りしようとしてきた南方が弾くピアノがそういうところを根本に抱えているピアノであり、南方本人もまたそういう人間なのだなってことがよく分かった。だから武志には感謝してますし、一方では……。まあ複雑な気持ちです」





つづく
ゆっきー
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