仄の底

水の冷たさにはっとした。

気付くと私は湖の中にいた。腰の高さまで水に浸かっている。辺りは耳が痛くなるほどに静かで何の音も聞こえない。凍てついた空気に私は身震いした。

おうい。友人の声がした。辺りを見回したが人影は見当たらない。おうい。また聞こえた。どうした、どこにいる、と聞き返すと近くにいる、と友人の声は答えた。

「おかしいな、姿が見えないが」

「そりゃそうだろう。俺は自殺で君は他殺なんだから、全然違う」

「どういうことだ」

「彼女が殺したんだ。君を一人占めしたかったんだろうな。独占欲が強いのさ。女ってのは大抵がそんなもんだ。まったくもって醜い。誰も来ない湖に沈めて、自分のものにした気でいやがる」

「意味が分からない」

「今に分かるさ。ほら、来るぞ」

ぱしゃんと水の音がして、それっきり友人の声はしなくなった。おい、と呼びかけても返事はない。私は困惑した。どうすればいいのか分からずやみくもに動いた。動くたびにばしゃばしゃと音がして、気がつくと水面が上がってきているようだった。腰の高さまでだった水面は今や首のあたりまできている。それでも動くのをやめられずもがいた。とうとう頭が水に沈んだ。と、そこで、上から頭を押さえつけられた。ざぶりと水面が動く。私は大きく水を飲んでしまった。どうにか顔を上げようとするが出来ない。押さえつける腕は細く女のもののようであったが、力は女のものとは思えなかった。私を沈めようとする執念が感じられる。苦しい。

「彼女の目を見たことがないのですか」

不愉快な声が思い出された。最後の酸素がとうとう逃げていった。私の体は急速に力が抜けていき、それと同時に頭を押さえつける腕の力も弱まっていくようだった。私は最後に水面越しの彼女を見た。水面が揺れて波紋が広がり、彼女が誰なのか、どんな目をしているのか、結局分からないままになった。


目を開く。ここはどこだ、と辺りを見回すと自分の家であった。寝床に上半身を起こした状態で私はいた。夜の寝苦しさに目が覚めたのだろう。部屋の中は暗い。室温は高い。心臓の音はうるさい程だ。気分を落ち着かせようと自分の顔に手をやって、どきりとした。びっしょり濡れているのである。ぞっとする思いで今まで見ていた気がする夢を思い出そうとしたが、断片的な記憶は何の意味も果たさず、ただ茫然とそこにいるしかなかった。夜はまだ明けないようだ。ぴちゃん、と私の中に水滴が落ちる音がした。

葛城
仄の底
0
  • 0円
  • ダウンロード

6 / 7

  • 最初のページ
  • 前のページ
  • 次のページ
  • 最後のページ
  • もくじ
  • ダウンロード
  • 設定

    文字サイズ

    フォント