だから僕は此処にいる

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第一章「11月13日午前7時」( 3 / 5 )

居間では天神家の平常運転が展開されていた。
 母は、カルチャースクールの予定を叫び、妹は靴下がないと喚く。テレビは天気予報と交通情報を伝え、猫は走ってリモコンを踏み芸能ニュースに番組を切り替えアイドルの離婚騒動を声高に告げる。そんなケンケンガクガクとした食卓で、父は黙ってお茶を飲む。
 挨拶をしながら、食卓に座ると、テレビは星占いを告げてた。祐介の星座は射手座である。味噌汁を流し込みながら、見るともなしに画面を眺めているとランクは6位、ラッキースポットはロカ岬だった。煮えきらない運勢の上に行き先は不明である。
 卵ご飯の最後の一口を掻き込むと、祐介は台所に置いてあった青いお弁当箱の包みを取ると自分の部屋に戻り、通学鞄に詰めた。
 相変わらずコルクボードは一枚写真が欠けている。その光景に再びため息を吐くと、祐介は家を出た。

 通学路には、見知った顔が蠢いている。いつも通りのその光景に、安堵感と憂鬱さを覚えながら祐介は、声をかけた。
「おはよう」
「おはよ。誰かと思えば天神か。やっぱり生きてたか。喪服と数珠を用意しておいたのに」
 不適にほくそ笑むのは蠢く顔見知り一号、朝永和人である。
「なんだよー、死んでろよー。昨日のお前の勢いだったら俺たちは合法的に楽しく一日狩り出来たのに~」
 不穏当な発言を漏らすのは蠢く顔見知り二号、江崎雄一郎。電脳世界の狩人である。
「黙れ、一号、二号。お前らに人間の心は無いのか」
「おわっ、天神が生きてる。歩く死人か」
 不躾な発言は蠢く顔見知り三号、南部有香である。
「人の顔をした冷血動物どもめ、ここは失われた世界か!」
 祐介は憤りを新たにし三人に向き直った。
「あ、天神君だ。おはよ~。昨日の告白する以前の自爆は最高だったよ~」
「天神か。昨日は死にそうな顔してたな、ほらアレだ。青春にほろ苦い失敗は付き物だから。まあ諦めろ」
「おはよう。天神君。昨日はご苦労様。気を落とさずにガンバレ」
 クラスメート達が、祐介の背中に声をかけていく。
「いや~、傷口に塩どころか硫酸を塗り込むような人々ばかりですなぁ」
「おい、江崎、硫酸は言い過ぎだ。苛性ソーダぐらいにしとけ」
「朝永もエゲツない。傷口を再切開に・・・・・・」
「お前等全員が、人でなし、って事は、良く分かったよ」
 そんなこんなで、猫型の入道雲の下、緩い坂道を登る。朝の日差しの中、児童公園を越えれば、そこは校門だった。
 正門左手側のグラウンドでは野球部が朝練をしており、その脇には駐輪場がある。そしてそこには、朝から祐介を憂鬱にしている元凶がいた。
「おお、氷の女王のご光臨だ」
 江崎が茶化すように呟く。朝永が笑う。祐介は気まずい思いを抱いた。
「おはよう」
 何の感情も感じられない朝の挨拶が交わされる。祐介は全ての禍因、憂鬱の源流、九路崎陽子を見た。
 祐介には負の感情がある。目の前の少女を目にした瞬間から憂鬱は、責め苦に姿を変えた。
 しかしそこまで苦悩を胸に秘めても九路崎陽子の凛とした姿は、祐介の心を蕩ろかすに充分だった。
 陽光が滴ったかの様に艶やかな長い黒髪、理知的で冷ややかな瞳、顔の造形は減点方式で採点しても満点を下らないだろう。細すぎず伸びやかな四肢。余人が纏えば画一化されてしまう制服も、彼女の着こなしならば魅力、と言うより次世代の大量殺戮兵器となりうる。
 爽やかな芳香を残し昇降口へ向かう陽子の後ろ姿を見送り、祐介は憂鬱さを新たにした。

第一章「11月13日午前7時」( 5 / 5 )

「今から考えるに、アレは自爆というよりも、暴発と言うのが正しいんじゃないかと思う」
 日がな一日憂鬱でも時間は過ぎし、空腹にもなる。学食のA定食をつつきながら朝永が雑談を開始する。
「確かに告白の決意を、声高に叫んだら後ろに本人がいて『ゴメンナサイ』だもんね。九路崎さんに責任の大半があるわね」
 カツ定食大盛りを迅速に胃中に納めながら、南部有香が品評を挟む。二時限目の休み時間に早弁をしながらこの食欲、女子バスケ部のエース様は尋常一様ならないらしい。
「確かに。誰が選択授業に行った人間が授業中に戻ってくると思う。つまり祐介。お前の告白は、結果は分かりきっていたとはいえ、自爆じゃなくて不運と言う事だ」
 祐介の脳裏に教室での光景が蘇る。
 その日(と言っても昨日の事であるが)書道の時間は、自習だった。祐介達にとって自習は珍しくもない事なのでいつも通りに雑談に興じていたのだ。
 その時、何故か話は祐介が好きな人の話となった。因みに祐介が九路崎陽子に好意を抱いているのは、友人間では常識以前の問題である。
 だから朝永達は、興味半分からかい半分で祐介が今後、どうするのかを聞いてきたのだった。
 ちなみに南部有香など女子有志提供の情報により、九路崎陽子がフリーであるのは確定している。
「俺は、九路崎に告白するぞッッッッッ! そしてバカップルになるんだ」
 その場の熱狂に流された。その瞬間の祐介の脳裏には、未来もなければ、過去もなく、酷い事に現在さえなかった。あるのは一瞬だけ、前後不覚に祐介は場の空気に陶酔していたのだ。
 この時点での不幸は、三つある。
 一つ目は、美術講師の小柴ゆかり(29歳、独身)が、授業開始直前、三年付き合っていた彼氏から唐突に別れを告げられ、授業を行えるメンタリティではなくなった事(と言うよりも、生徒達の衆人環視の元でも復縁の電話をかけまくっていたというのが事実である)
 二つ目は、九路崎陽子が内職用の参考書を教室に忘れていたという事だった。
 三つ目は、九路崎陽子が教室に入る瞬間にクラスメートの水山あやめが、貧血により保健室に行こうとしており接近を感知できなかった事である。
 三つの突発的偶然が重なり合った結果、祐介は九路崎陽子の接近を察知できなかった。
 事態が九路崎陽子の拒絶で終わった後、教室内に広がったデュオニソス的なお祭り騒ぎの余波は、ニーチェであろうとクロノスであろうと恐れをなして彼岸の彼方に裸足で逃げ出しそうな程激しかった。
 呆然と立ち尽くす祐介が唯一覚えているのは、書道の時間終了を告げるチャイムのみであった。
 絶望と喪失感と、絶望と喪失感と、そして更なる絶望と喪失感は、一日では消えるものではなかったが、ゆっくりと減衰していく。事実、今朝起きた時の清々しいまでの憂鬱は、明日の数学小テストという憂鬱で塗りつぶされていた。
 そして放課後が訪れる。
「今日は一日が早く進んだ気がするな~」
 江崎が感慨深そうに呟く。
「おまえ、八割の教科で寝てただろう。そんな事してりゃ一日は早いわ」
「この睡眠が、狩りでの集中力に繋がるんだ。貴重な犠牲と諦めましょう」
 祐介のツッコミに江崎は、至極まじめな顔をして返答する。
「それより本屋行こう、本屋。天文年鑑が欲しいんだ」
 朝永が駅前商店街への道を指さす。
「またマニアックな本を」
「地学部部長としては当然のチョイスだ」
 江崎の感想に朝永は大きく自己存在を主張した。
「星座の名前も満足に知らない奴が、地学部部長とは世も末だ」
「星座の名前なんて本に書いてあるだろ。百年単位で変わらない物ならイチイチ暗記なんかしなくても、その都度、星座早見表でチェックすれば良い話じゃないか」
 非常にプラグマティックな発言である。朝永に先導され江崎と祐介は、ため息を吐き吐き、本屋へ足を向けた。
 善隣堂書店。
 駅前の老舗であり、祐介等が良く利用する本屋である。雑誌、参考書を中心とした品揃えだが専門書の類もそれななりに扱っている使い勝手の良い本屋である。
「地球物理関連、地球物理関連~」
 朝永は、素早く2階奥に消える。目的以外の本を見る気は充分である。
 江崎は、PC・ゲーム関連の棚で不動の姿勢をとる。
「やれやれ文庫でも見るか」
 堅苦しい古典は好きではないが、軽すぎるファンタジーも好きではない。祐介は、見るでもなく背表紙の羅列を眺めていった。
 『翔ぶが如く』全11巻。『坂の上の雲』全8巻。『菜の花の沖』全6巻。『樅の木は残った』上下巻。『長い坂』。『宮本武蔵』全8巻。『剣客商売』23巻まで。『鬼平犯科帳』4巻欠の18巻まで。『真田太平記』8巻欠全12巻『御宿かわせみ』シリーズ全巻。『日露戦争』全12巻。『徳川家康』3巻欠全23巻。『武田信玄』2巻欠全8巻『小説十八史略』全4巻。『孟嘗君』全4巻。
 ここは、無駄にシリーズ物が揃っているらしい。
 有名所の時代小説をパラパラとめくり時間を潰していると、朝永が戻ってきた。
「待たせた。待たせた」
「天文年鑑ってそんなに量あったか?」
 右手に持つ紙袋は、手提げ式であり明らかに一冊ではない。
「ああ、ついでに宇宙関連の本を何冊か買った。後ネタ本だな」
「ネタ本?」
「終わったのか~」
 江崎が満足した顔で、これまた紙袋を持って戻ってきた。
「ネットゲームの画集か?」
「ネットゲームの画集だな、他に考えられない」
「きっと美しき狩りの思い出に、とか理由付けて買ったんだ」
 祐介と朝永は、小声で会話をする。ここで江崎に購入した書籍の事を問わないのは、無駄な蘊蓄を二時間に亘って聞かされると経験的に知っているからである。
「そういや、ネタ本ってなんだ?」
 書店から出て祐介は、朝永に途中になっていた会話を復帰させた。
「そうそう、これ」
 手提げ袋の中からハードカバーの本が取り出される。無骨な青地の表紙に明朝体で『素粒子と線形時空理論』と記されている。
「また難しそうな内容だな」
「いや見るべきは、そこじゃない」
 朝永は、著者名を指さす。
 著者名には『九路崎京一郎』と六文字の漢字があった。
「九路崎………?」
「氷の女お………もとい、我らがクラスメート九路崎陽子の父親だ」
 九路崎陽子、の単語を聴いた瞬間、祐介の心に疼痛が走る。だがそんな事に気づきもせず朝永は説明を続けた。
「うちの顧問と九路崎の親父さんは同期生で同じ研究室だったらしくて、良く話してくれるんだ。顧問曰く『四色問題が誰かに解かれたというニュースが入っても僕は不思議に思わない。だけどタイムマシンが彼以外の人間に作られたというニュースが入れば、僕はその時初めて不思議に思うだろう』だってさ」
 九路崎陽子の学力テスト上位常連で理知的な雰囲気は、血筋からも培われてきたのだろう。祐介は、朝永の蘊蓄に酷く説得力を感じた。

 楽しき友人との歓談も終わり、祐介は帰途につく。総じて憂鬱が多い一日であったが客観的に見れば通常以上普通未満の代わり映えのしない一日だったろう。
 尤も祐介にとっては、昨日から続く不幸な日々以外の何物にも見えなかったのだが。
 見慣れた我が家に帰り着くと、玄関先に見慣れぬ段ボール箱が置いてある。厳重に荷造りされたその箱は、何故か近寄り難さを感じさせた。
「母さん、玄関の箱ってなに?」
 声をかけながら居間に入ると、祐介の母親は食卓に顔を突っ伏していた。
「ああ、祐ちゃん。お帰りなさい」
 右手に握りしめたハンカチで簡単に目元を拭うと、真っ赤になった瞳が祐介を見た。
「た、ただいま」
「ご飯すぐに用意するわね。香奈ちゃんを呼んできてくれる」
 感情を押し殺した声でそう言うと、母親はそそくさと台所に姿を消した。
 重苦しい空気が漂っている。そう思いながら妹香奈子の部屋の襖を開けると、布団を被ってベッドの上に座り込んでいる姿が見えた。
「香奈子、メシだってさ」
 妹は力のない声で「分かった」と返答する。
 その夜、祐介は飼い猫ボーアが午後、バイクに轢かれて死んだ事を知った。
 こうして祐介の憂鬱な11月13日は、不快な一日として幕を閉じたのだった。

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副墨亭
作家:三浦 NSX
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