とよみ父ちゃんの破天荒日記

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とよみ父ちゃんの破天荒日記8

前章に引き続き銅の商品について書こうと思います。 この、本を書いていると無性に父ちゃんに会いたくなりますが、 今はもういない父ちゃんと会話が出来ることを楽しみに書いていきます。 父ちゃんと私が、銅イオン水なるものを開発したのは、もう20年も前にさかのぼります。 当時、ある花を生産してみえる方が、水あげに困ってました。 水あげというのは、花を出荷するために、茎のところを切って しまうため、水が上がらなくなるので、水にしばらくつけておく事が 水あげと言います。 その水あげ時に、茎が腐って花が萎れて商品にならないとのことでした。 そこで、開発のが銅イオン水でした。 父ちゃんと私は、銀は殺菌力が抜群に強い事はわかってはいましたが、 人体の影響も考えて、銅イオン水の開発を着手したのでした。 試供品なども、沢山運びましたが何せ水が多くいるので 500リッター5000円の仕事は、割に合わない仕事でした。 ただ私にとっては、良いこずかい稼ぎだった事は言うまでもありません。 その頃の父ちゃんは、銅イオン水のさらなる進化形を頭で考えているようではあったが、 いくら父ちゃんの天才的頭脳だとしても、電気回路だけは得意ではなさそうで 開発には至らなかった。 とよみ父ちゃんは、平成17年12月の丁度寒くなりかけの時に永眠した。 64歳であった。 とよみ父ちゃんの後を継いだ私も、10年経とうとしている。 植物医として、また武道家としてまた、ソーシャルを駆使してなんとか、 この厳しい時代を乗り越えて来ましたが、今にして思えば父ちゃんとの 二人三脚の、商売は一番楽しかったかも知れない。 これで、とよみ父ちゃんの話も終わりにしたいと思います。 これまで、とよみ父ちゃんの話を最後まで読んでくださった皆様 誠にありがとうございました。 次回は、とよみ父ちゃんに、一歳の誕生日を祝ってもらえなかった孫の有梨沙ちゃんの登場です。 乞うご期待ください。 それでは、また!

目次( 1 / 1 )

 目 次 一 覧

 

1、前章  とよみ父ちゃんの回想録

2、第一章 

前章( 1 / 1 )

とよみ父ちゃんの破天荒追悼日記

とよみ父ちゃんの破天荒追悼日記(前章)

「ただいまー父ちゃん・・・」

「今日は、ヒロ君と言う友達連れきたから一緒に遊ぶね!」

「おいおい・・・ひろくんだっけか?・・・このレースなんが入ると思う?」

っと父ちゃんのいつもの挨拶が始った。

うちは自営業で、父ちゃんが昼間でも飲んでいた。

そんな父ちゃんの口癖はいつも俺には時間がないからっだった!

誰にでもうちの父ちゃんは、こんにちはの普通の挨拶はしない。

いつもなにかしらギャンブルの話が、今思うと父ちゃんなりのアプローチだったのかもしれない。

父ちゃんの日課は朝起きて競艇新聞と競馬新聞をみて、いつもこたつで朝飯を食べていた。

それも仕方がなく、糖尿病と肝臓病と言う相反する病気になっていたので、3日くらいは働き4日はそんな暮

らしだったから、父ちゃんはいつ仕事をしているのか疑問に思ったものだった。

当事自分は、自動車のセールスをしていたので父ちゃんが病になっていることをしばらく知らなかった。

父ちゃんは植物のお医者さんだったから、植物の事には詳しかった。

樹木のお医者さんでも後になったくらいだったから。

父ちゃんは、口癖のように「丸いものは、マルだと思うな!」「四角のものは、四角で

なければならないと思うな」といつも言っていた。

そんな父ちゃんは、いくつもの缶詰特許をもっていた。

缶詰特許とは、文字通り世に出ることのない特許である。

父ちゃんは、思いついたら色んな人を巻き込んでそれができるまではあきらめなかった。

だから、うちには沢山の人がとっかえひっかえ・・・うちに出入りしていた

 

 

 

 

とよみとうちゃんは、鹿児島県に昭和16年10月に生まれた。

母親(ばあちゃん)従軍看護婦の厳格な母親に育てられる。

こんな厳しいばあちゃんのところで育ってなんでこんな父ちゃんなんだろうと疑問に思ったもんだった。

とうちゃんは、運動神経はよかったようだ。特に鉄棒は大の得意だったらしい。

そんな父ちゃんは、やんちゃで小さい時にはどこからか仕入れた琉球空手なるもの

を探求していたようだった。

のちにこれが、生涯私のささえになることになるのだが、その話はもっと先にしようと思う。

 

 

 

 

 

第1章( 1 / 1 )

とよみ父ちゃんの破天荒日記

とよみ父ちゃんの破天荒追悼日記1

幼い頃に記憶を遡ると、父ちゃんの記憶は定かではないのでスミちゃん(母親)に一部を聞いて

付け足ししたが、だいたいのところはこの本の中に書いてある通りだった。

 

さて、父ちゃんの思い出は小学校3年生にさかのぼります。

ある日父ちゃんは、キャッチボールをしようと私を誘います。

私はグローブを買ってもらって、いたのでグローブがあったのですが、父ちゃんは素手です。

私は父ちゃんは、手があついんだなあっとかってに思いこんだものでしたがグローブのない父ちゃんは

5球が精一杯だった。でもそんな父ちゃんが、とても好きだった。

いつだったか、野球をみにいったときでもただお酒(ビール)を飲んでどっちが勝ったかを

スミちゃんに聞いたものだった。

私は何をしに父ちゃんはきたんだろう?っと当時は思ったものだった。

と同時に父ちゃんは野球を知らないことがわかってしまった。

父ちゃんの時代はまだ、車が家庭にある時代ではなかったので、良く会社からクルマを借りて

俺たちを、海につれていってくれた。

会社のvanだったので、会社のロゴが入っていた。

父ちゃんは、素潜りが上手で良く海で貝やかにのとりかたなどを教えてくれた。

中でも一番楽しかったのは川での魚しびれだった。

魚しびれというのは、車のバッテリーをもってきて、川で電流を流すとバタバタと

一時は魚が仮死状態になるのだった。

だから、魚がばしばしとれたのだった。

 

しかし、大人になってわかったこのことは、非常に危険なことがわかった。

でもそんなことは関係なく「ちょっとしびれるかもしれんから・・・俺からはなれとけ」っと

びしっ・・・びしっ・・・っと音がしたかと思ったら、バシバシと魚が浮いてきて魚をとっていた。

しばらくすると・・・魚は仮死状態から回復して何事もなく泳ぎだした。

父ちゃんは「かえるぞっ」といって川を後にしようとしたので、俺は父ちゃんに「魚は持って帰らなの?」って

聞いたら、父ちゃんは「うん・・・今日は取り方を教えにきただけだからまた今度な・・・」と言って

川を後にした。

でもあとになったら父ちゃんは魚を取るけど魚はさばけないので、とっても後で困ると思っていたようだった。

 

 

 

父ちゃんは、夜が遅かったので俺たちを良く帰ってきては寝床に酒くさい息を吐いて

「おい・・・今帰ってきたぞ・・・」っと頭をなでて、自分の寝床に行った。

俺たちは、酒臭い息が嫌いで寝たふりを妹としたものだった。

父ちゃんは手で回す方式のパチンコまでは、良く行っていた。

ニコニコして、良くチョコをもらってきたから、私たちにもチョコがいつもたくさんあった。

私が虫歯だらけだったのもこんな理由だったかもしれない。

でも父ちゃんは、チョコは一つも食べなくて「なあ・・・ありきよ・・・なぜパチンコやには

お酒がおいてないんかな?」っといっていた。

父ちゃんは、どこへでもビールを飲んでいたからいつでも欲しかったんだろう。

父ちゃんの仲間で、植木さんという人がいたその人がくると家族中でまたガラス代がかかると思ったものだっ

た。植木さんは目が少しわるいのか?ガラスに激突してガラスを割るという特技をもっていた。

だから、家族はまたガラス代がかかるので、すみちゃんはああ・・・また修理代がっ・・・と思いながらも

「植木さん大丈夫・・・」っと声をかけていた。

時代は前後するが、小学校高学年になった時には、自家用車があった。

当時トヨタのカリーナという車を買ってのっていた。

父ちゃんはクルマ好きと言うこともあってか・・・今のような広いクルマもなかったこともあって、

クーペタイプにのっていたので、後ろのスペースは非常に狭かった。

だけど、小さかった俺たちには一番居心地の良いスペースだった。

でもいつも行ったのは、競艇場と競馬場であった。

俺たちは、父ちゃんがレースが終わってかえるまで競馬場での遊園地で遊んでいた。

レースに勝つとラーメン等が食べれたので楽しみのひとつでもあった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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