父と娘

 達也の高校卒業のときも、叔父として式に出席した。理恵の万引き事件においても父親の気持ちで解決に向かった。だが、瞳の心は依然としてはっきりしなかった。瞳とは夫婦同然の関係にあるのだが、心は拓也が掴むことのできない幻であった。拓也が近づくと離れ、離れると近づいてくる不思議な瞳の笑顔は、拓也をいつまでも見守ってくれる女神であった。

 

 理恵が飛び出してから約2時間が経ったころ突然ドアが開いた。理恵と麗子がどやどやと走りこんできた。「ただいま、エサだよ~ん」理恵がスーパーの袋をテーブルの上に放り投げた。「もっと、丁寧に置きなさい」拓也は苛立ちを抑え切れなかった。理恵はまったく聞く耳を持っていなかった。麗子もがさつだが、理恵にいたってはあきれるほどの振る舞いであった。言葉にも動作にもしつけと言うものがまったくなかった。

 

 「ママの言いつけ通り、最高級蕎麦を買ってきました」少し丁寧に言い直した。拓也が笑顔を見せると二人は食事の準備を始めた。気を利かせた拓也が書斎に戻ると理恵お気に入りのAKBの曲が流れてきた。ノートPCのニュースを読んでいると携帯が振動した。瞳からであった。「ごめん、急用ができていけない」とそっけない瞳の言葉が聞こえるとすぐに切れてしまった。

「パパ、できました」エプロン姿の理恵が書斎にやってきたと思うと、すぐに引き返した。拓也がキッチンに行くとテーブルの真ん中にバースデーケーキが輝いていた。ケーキには14本のろうそくの炎が揺れていた。「あ、理恵ちゃんの誕生日だったね、パパ失格だな」拓也は頭を掻いて椅子に腰掛けた。三人で誕生日の歌を歌うと拍手の中で理恵は口を尖らせ炎を消した。

 

 「パパがいる誕生日っていいね」麗子が理恵に微笑んだ。理恵はニッコリすると涙目になっていた。万引き事件が丸く収まったのは拓也のおかげであることを瞳から聞いていたに違いない。理恵は言葉には表さなかったが、笑顔で感謝していた。麗子と達也は父親がいた時期を過ごしたが、理恵は物心着いたとき父親がいないことを知った。拓也と出会って初めて甘えられる父親を経験した。

 

 理恵の拓也への乱暴な態度は精一杯の甘えであり、愛情であった。理恵は拓也を本当の父親と思い込もうとしていた。食事を終えると拓也はシャワーを浴びる準備を始めた。パジャマに着替えた拓也はバスルームに入っていった。二人は食事の後片付けを終えると麗子が理恵に何か話しかけていた。理恵が頷くとバスルームにかけていった。「パパ、理恵が背中流してあげる」言い終えると服を脱ぎ始めた。

「お待たせ~」裸の理恵は笑顔で拓也の後ろにやってきた。拓也は断るにも断れず、ありがとう、と言って小さな椅子に腰掛けた。拓也はタオルを前にかけ、その上に洗面器を載せて両手でしっかり押さえた。「パパの背中大きいね」シャボンをつけたスポンジで背中を壁でも洗うようにごしごし洗い始めた。拓也はどんな話をすればいいか戸惑ったが、ぎこちなく「パパって言われると嬉しくなるよ」と話をつないだ。

 

 理恵はシャワーのホースを手に取ると頭から冷たい水を浴びせかけた。「お~」拓也がびっくりした声を上げると理恵はケラケラ笑って頭のシャンプーを始めた。頭の泡を手に取ると拓也の口やほっぺに塗りつけて、からかっては大きな笑い声を上げた。拓也もいたたまらなくなりバスに飛び込んだ。バスから見える理恵の裸は瞳とはまったく違った妖精であった。

 

 拓也が洗面器で前を隠しバスから出るとすぐに着替えキッチンのテーブルに着いた。ミッキーマウスのプレートには缶ビール、グラス、板わさ、おきゅうと、冷奴がセットされていた。麗子は拓也の好物を良く知っていた。グラスにビールを注ぐと麗子もバスに向かった。麗子は一回り大きくした瞳のようで、まさにそっくりである。理恵は父親に似たのかあまり瞳に似ていない。性格も明るくダイレクトでがさつではあるが、とても愛想がいい。

 バスからは二人の黄色い声が頻繁に聞こえてくる。女の子にとってはすべてのことが楽しい話題になってしまう。いつも一人でいる拓也にとって、二人の訪問は楽園に連れて行ってくれたようなプレゼントであった。拓也はビールを飲み終えると瞳の携帯に電話した。 

携帯はきられていた。二人は笑いながらバスから出るとパジャマに着替え、麗子がドライヤーを片手に理恵の長い髪をブローし始めた。

 

 拓也はタクシーで帰るものと思っていたので、キッチンで二人が部屋から出てくるのを待っていたが、出てくる様子がないので声をかけた。「何時ごろ帰るんだい?」拓也はドアの外から二人に声をかけた。「今日は泊まるよ」理恵の声が即座に返ってきた。拓也は「そう」といってキッチンに戻り、ブランディーをサイドボードから取り出した。音を響かせながらグラスに注がれた琥珀色の液体をじっと見つめていると、昨日のことが脳裏に浮かんできた。

 

女性はブラックホール

 

 研究室でお世話になったキャサリンを磨いていると突然杏子が飛び込んできた。「ハ~イ、先生おひさですぅ~」杏子の間の抜けた挨拶が耳をくすぐった。いつもの超ミニスカートではないベージュのスーツを着た杏子がしおらしく頭を下げた。「どんな事件が起きたんだい、その格好は?」笑って杏子の服装をじろっとなめるように眺めた。「先生ったら、今日はラッキーな報告にやってきたんです」勝手に椅子に腰掛けると拓也に椅子を勧めた。

 

春日信彦
作家:春日信彦
父と娘
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