父と娘

「ママは?」拓也は訊ねた。「ママは急用ができて来ない」理恵はそっけなく答えた。「そうか」がっかりしたが元気な理恵の姿に安心した。「もしかしたら、お姉ちゃんが来るかも?」理恵はトマトジュースをグラスに注ぎ喉を鳴らし飲み始めた。「食事はまだだろ?」拓也は一緒に外食する予定にしていた。「まだだけど、買いたいものがあるから、チョッと出る」理恵は笑顔を送ると飛び出していった。

 

 瞳には3人の子供がいる。長女の麗子、長男の達也、次女の理恵。麗子と達也の父親は同じであるが理恵の父親は違う。二度の結婚は破局に終わっていた。子育ては母親にまかせて瞳は水商売を続けた。理恵にいたっては育児放棄をしてしまった。発見が遅れていたならば、理恵はここにはいなかったことになる。今でも瞳には数人の男性がいて、資金援助を受けている。瞳は波乱万丈の人生を送ってきたが、拓也のことは一度も忘れたことはなかった。

 

 結婚を望んでいる拓也は三人の子供と親しくなるための努力を続けている。三人の子供たちは拓也をパパと呼び、ほぼ父親として受け入れてくれているが、瞳は結婚には今ひとつ乗り気でない。ともあれ、正式な結婚にいたらなくとも拓也はそれなりに満足していた。麗子は高校時代暴走族の一員であった。一度、警察に補導されたとき、拓也は引き取りに行った。

 達也の高校卒業のときも、叔父として式に出席した。理恵の万引き事件においても父親の気持ちで解決に向かった。だが、瞳の心は依然としてはっきりしなかった。瞳とは夫婦同然の関係にあるのだが、心は拓也が掴むことのできない幻であった。拓也が近づくと離れ、離れると近づいてくる不思議な瞳の笑顔は、拓也をいつまでも見守ってくれる女神であった。

 

 理恵が飛び出してから約2時間が経ったころ突然ドアが開いた。理恵と麗子がどやどやと走りこんできた。「ただいま、エサだよ~ん」理恵がスーパーの袋をテーブルの上に放り投げた。「もっと、丁寧に置きなさい」拓也は苛立ちを抑え切れなかった。理恵はまったく聞く耳を持っていなかった。麗子もがさつだが、理恵にいたってはあきれるほどの振る舞いであった。言葉にも動作にもしつけと言うものがまったくなかった。

 

 「ママの言いつけ通り、最高級蕎麦を買ってきました」少し丁寧に言い直した。拓也が笑顔を見せると二人は食事の準備を始めた。気を利かせた拓也が書斎に戻ると理恵お気に入りのAKBの曲が流れてきた。ノートPCのニュースを読んでいると携帯が振動した。瞳からであった。「ごめん、急用ができていけない」とそっけない瞳の言葉が聞こえるとすぐに切れてしまった。

「パパ、できました」エプロン姿の理恵が書斎にやってきたと思うと、すぐに引き返した。拓也がキッチンに行くとテーブルの真ん中にバースデーケーキが輝いていた。ケーキには14本のろうそくの炎が揺れていた。「あ、理恵ちゃんの誕生日だったね、パパ失格だな」拓也は頭を掻いて椅子に腰掛けた。三人で誕生日の歌を歌うと拍手の中で理恵は口を尖らせ炎を消した。

 

 「パパがいる誕生日っていいね」麗子が理恵に微笑んだ。理恵はニッコリすると涙目になっていた。万引き事件が丸く収まったのは拓也のおかげであることを瞳から聞いていたに違いない。理恵は言葉には表さなかったが、笑顔で感謝していた。麗子と達也は父親がいた時期を過ごしたが、理恵は物心着いたとき父親がいないことを知った。拓也と出会って初めて甘えられる父親を経験した。

 

 理恵の拓也への乱暴な態度は精一杯の甘えであり、愛情であった。理恵は拓也を本当の父親と思い込もうとしていた。食事を終えると拓也はシャワーを浴びる準備を始めた。パジャマに着替えた拓也はバスルームに入っていった。二人は食事の後片付けを終えると麗子が理恵に何か話しかけていた。理恵が頷くとバスルームにかけていった。「パパ、理恵が背中流してあげる」言い終えると服を脱ぎ始めた。

「お待たせ~」裸の理恵は笑顔で拓也の後ろにやってきた。拓也は断るにも断れず、ありがとう、と言って小さな椅子に腰掛けた。拓也はタオルを前にかけ、その上に洗面器を載せて両手でしっかり押さえた。「パパの背中大きいね」シャボンをつけたスポンジで背中を壁でも洗うようにごしごし洗い始めた。拓也はどんな話をすればいいか戸惑ったが、ぎこちなく「パパって言われると嬉しくなるよ」と話をつないだ。

 

 理恵はシャワーのホースを手に取ると頭から冷たい水を浴びせかけた。「お~」拓也がびっくりした声を上げると理恵はケラケラ笑って頭のシャンプーを始めた。頭の泡を手に取ると拓也の口やほっぺに塗りつけて、からかっては大きな笑い声を上げた。拓也もいたたまらなくなりバスに飛び込んだ。バスから見える理恵の裸は瞳とはまったく違った妖精であった。

 

 拓也が洗面器で前を隠しバスから出るとすぐに着替えキッチンのテーブルに着いた。ミッキーマウスのプレートには缶ビール、グラス、板わさ、おきゅうと、冷奴がセットされていた。麗子は拓也の好物を良く知っていた。グラスにビールを注ぐと麗子もバスに向かった。麗子は一回り大きくした瞳のようで、まさにそっくりである。理恵は父親に似たのかあまり瞳に似ていない。性格も明るくダイレクトでがさつではあるが、とても愛想がいい。

春日信彦
作家:春日信彦
父と娘
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