産婦人科医の悲劇

「お蕎麦だったら、あそこね。高祖においしいところがあるの。江戸流手打ちだから、きっと気に入ると思うわ」笙子は時々食べに行く蕎麦屋に向かった。「へ~、江戸流ね、それは楽しみだわ、ど田舎にもそんなお店があるのね」お菊は糸島には古墳しかないと思っている。「糸島はど田舎でも空気は良くて、観光名所はたくさんあるんだから。きっと、糸島を気に入ると思うわ」ど田舎と言われて少しムカついたが、確かにど田舎だから笑顔で案内することにした。

 

 「糸島に引っ越したのはいつからだったかしら、以前は赤坂だったでしょ。この前来たときは、笙ちゃんはまだ中学生だったわね。そう、大濠公園の桜がとてもきれいだったわね」お菊は電話では何度か笙子と話したことはあったが、直に会うのは6年ぶりであった。キャナルの入口で待っていた笙子を見ても最初は笙子とは気づかなかった。お菊さん、と笙子が声をかけたとき、あどけなかったころの笙子の面影がパッと眼に浮かんだ。

 

「二年前に引っ越したの。父が長生きするには糸島が一番と言って、私が大学に入学すると早速前原に新築したのよ。父って、思い立ったら吉日って言って、すぐに実行する人だから、家族みんなびっくりしちゃった。だけど、父が言っていたことは正しかったわ。糸島はとってもいいところよ。糸島をしっかり観光してくださいね、お菊さん」最初、笙子はど田舎の糸島を嫌っていたが、住んでみると空気がきれいで交通の便もいいことがわかり、今では友達を案内して自慢するようになっていた。

 

「福岡は田舎の匂いがするけど、糸島はどんな匂いがするのかしらね。古墳の匂いかしら?そういえば、周りにはビルが一つもないわね。幽霊が出るんじゃないかしら。こんなところにも人類が住めるのね。やはり、長生きするものね」お菊は東京育ちで田舎のよさがまったくわかっていない。さすがに笙子もここまで馬鹿にされるとキレた。

 

 「そんなに田舎がいやだったら天神でお食事しましょうか?」笙子は目を吊り上げて睨みつけた。「え、何か気に障ること言ったかしら。田舎って空気がおいしくて、景色も素敵じゃない。笙子さん、糸島、とっても気に入ったわ」お菊はつい本音を言ってしまい、まずかったと気づいた。せっかく、情報を取るために田舎までやってきたのに、笙子の機嫌を損ねては肝心の話ができなくなってしまうと、即座に田舎をほめた。

 

 「お菊さんも、田舎のよさがすぐにわかりますよ。最初は誰だってびっくりするんです。だけど、いろんな名所を観光されると、きっと感動していただけると思います。蕎麦屋、もう少しでつきますよ」機嫌を取り直した笙子は少しムカついたことに恥ずかしくなった。笙子も最初は田舎を軽蔑していたからだ。末永を左に曲がると古びた蕎麦屋が左手に見えた。

 二人は席に案内されると、左上にお花、手前にお箸、中央に二皿の突出しが乗せられたお盆が運ばれてきた。お菊は聞き出す項目をイメージして早速話を切り出した。「笙ちゃんは坊ちゃんに夢子さんのことをお話されたでしょ。私も坊ちゃんにそのお話を聞いて頷いたのよ。夢子さんの自白は何かの間違いよね」お菊は笙子の言っていたことを肯定し、笙子の口を軽くする作戦に出た。

 

 「あら、やっぱりその件でやってきたのね。さっしはついていたけど、秀ちゃんに頼まれたのね。夢子のことは私が一番わかっているつもりよ。あんな自白、まったくの嘘よ。信じられないわ」笙子はメニューをめくりながら小さな声で答えた。笙子は自分の注文を決めるとお菊の注文を確認した。お菊は三味蕎麦に眼をすえると指で笙子に合図した。笙子も同じ三味蕎麦を注文した。

 

 「夢子さんはバイオリンがお得意でいらしたとお聞きしたわ。将来はバイオリニストを夢見ていらしたとか。ところが、突然、2年のころからT大を目指して勉強なされたみたいね。いったい、何があったのかしらね」お菊は夢子の夢に変化があったことに何か糸口があるのではないかと思った。

 

「そうなのよ、中学のころから一緒に練習してきた仲で、二人とも音楽の道を目指していたのよ。特別養護老人ホームや児童養護施設などでライブをやったりもしたのよ。それなのに、突然練習はしなくなるし、T大に合格しなければならないのって、まったくわけのわからないことを言い出し、頭がおかしくなったんじゃないかと思ったわ。夢子のご両親は二人一緒にヨーロッパの音大に留学しなさい、と言っていたほどなのに」笙子は小さな声で早口にしゃべった。

 

お菊は夢子の自白は嘘だと確信した。夢子には原発とは関係ない、八神教授との間に隠された事件があると思った。お菊は異性関係のもつれが原因ではないかとふと思った。「夢子さんが帰省されたときは、お会いになっていたでしょ。そんな時、彼氏との悩みなんか話されなかったかしら?」お菊は周りには聞こえないように極力小さな声で訊ねた。それぞれに、お盆に載った三つのお椀の蕎麦が運ばれてくると、笙子はとろろ蕎麦のお椀を、お菊は海老天蕎麦のお椀をそれぞれ手に取った。

 

「夢子は男嫌いなの。と言うより、左足が義足でしょ。だから、あまり男性とはつき合いたくなかったみたいね。他の人には話さないでね、夢子は奇形児だったの。耳、鼻、唇、左脚の膝から下がなかったの。今は、普通に見えるけど、耳と鼻は人工なの。唇は整形して、左足は義足ね。だから、小さいころはいじめにあってとてもつらかったと思う。だけど、気が強くて、頭も良くて、バイオリンもすごく才能があるのよ。ご両親は夢子のためだったら、何でもしてあげたいとおっしゃられていたわ」笙子は奇形児という言葉を特に小さな声で話した。

春日信彦
作家:春日信彦
産婦人科医の悲劇
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