怪夢

病院( 1 / 3 )

 私はいつの間にか頑丈な鉄の檻の中に入れられている。白い金巾(かなきん)の患者服を着せられて、ガーゼの帯を捲き付けられて、コンクリートの床のまん中に大の字型(なり)に投げ出されている。
 ……精神病院らしい。
 しかし私は驚かなかった。そのまま声も立てずにジット考えた。ここが精神病院だとわかれば、騒いでも無駄だからである。騒げば騒ぐほど非道い目に合う事がわかり切っているからである。おまけに今は深夜である。かなり大きい病院らしいのにコットリとも物音がしない。……騒いではいけない、憤ってはいけない。否々。泣いても笑ってもいけないのだ。いよいよキチガイと思われるばかりだから……。
 私はそろそろとコンクリートの床のまん中に坐り直した。両手を膝の上に並べて静坐をして、眼を半眼に開いて、檻の鉄棒の並んだ根元を凝視した。神経を鎮めるつもりで……。
 果して私の神経はズンズンと鎮静して行った。かなり広い病院の隅から隅までシンカンとなって……。
 その時であった。私が正面している鉄の檻の向うから誰か一人ポツポツと歩いて来た。それは白い診察着を着た若い男らしく、私が坐っているコンクリートの床よりも一尺ばかり高くなっている板張りの廊下を、何か考えているらしい緩やかな歩度でコトリコトリと近付いて来るのであったが、やがて私の檻の前まで来るとピッタリと立ち止まった。そうして両手をポケットに突込んだまま、ジット私を見下しているらしく、爪先を揃えたスリッパ兼用の靴が、私の上瞼の下に並んだまま動かなくなった。
 私はソロソロと顔を上げた。
 その私の視界の中には、まず膝の突んがった縞のズボンと、インキの汚染のついた診察着が這入って来た……が……それはどこかで見た事のある縞ズボンと診察着であった……と思ってチョット眼を閉じて考えたが……間もなく私はハッと気付いた。眼をまん丸く剥き出して、その顔を見上げた。
 それは私が予想した通りの顔であった。……青白く痩せこけて……髪毛をクシャクシャに掻き乱して……無精髪を蓬々 (ぼうぼう)と生やして……憂鬱な黒い瞳を伏せた……受難のキリストじみた……。
 それは私であった……嘗(かつ)てこの病院の医務局で勉強していた私に相違なかった。
 私の胸が一しきりドキドキドキドキと躍り出した。そうして又ドクドクドク……コツコツコツコツと静まって行った。
 診察着の背後の巨大な建物の上を流れ漂う銀河が、思い出したようにギラギラと輝いた。
 ……と……同時に私は、一切の疑問が解決したように思った。私を精神病患者にして、この檻に入れたのは、たしかにこの鉄格子の外に立っている診察着の私であった。この診察着の私は、あまりに自分の脳髄を研究し過ぎた結果、精神に異状を呈して、自分と間違えてこの私を、ここにブチ込んだものに相違なかった。この「診察着の私」さえ居なければ私は、こんなにキチガイ扱いされずとも済む私であったのだ。
 そう気が付くと同時に私は思わずカッとなった。吾を忘れて、鉄檻の外の私の顔を睨み付けながら怒鳴った。

病院( 2 / 3 )

「……何しに来たんだ……貴様は……」
 その声は病院中に大きな反響を作ってグルグルまわりながら消え失せて行った。しかし外の私は少しも表情を動かさなかった。診察着のポケットに両手を突込んだまま、依然として基督(きりすと)じみた憂鬱な眼付で見下しつつ、静かな、澄明(ちょうめい)な声で答えた。
「お前を見舞いに来たんだ」
 私はイヨイヨカッとなった。
「……見舞いに来る必要はない。コノ馬鹿野郎……早く帰れ。そうして自分の仕事を勉強しろ……」
 そういう私の荒っぽい声の反響を聞いているうちに私は、自分の眼がしらがズウーと熱くなって来るように思った……何故だかわからないまま……しかし外の私はイヨイヨ冷静になったらしく、その薄い唇の隅に微な冷笑を浮かべたのであった。
「お前をこうやって監視するのが、俺の勉強なのだ。お前が完全に発狂すると同時に俺の研究も完成するのだ。……もうジキだと思うんだけれど……」
「おのれ……コノ人非人。キ……貴様はコノ俺を……オ……オモチャにして殺すのか……コ、コ、コノ冷血漢……」
「科学はいつも冷血だ……ハハ……」
 相手は白い歯を出して笑った。突然に空を仰いで……嘯くように……。
 私は夢中になった。イキナリ立ち上って檻の中から両手を突き出した。相手の白い診察着の襟を掴んでコヅキ廻した。 「……サ……ここから出せ……出してくれ……この檻の中から……そうして一緒に研究を完成しようじゃないか……ね……ね……後生だから……」
 私は思わず熱い涙に咽せんだ。その塩辛い幾流れかを咽喉の奥へ流し込んだ。
 けれども診察着の私は抵抗もしなければ、逃げもしなかった。そうして患者服の私に小突かれながら苦しそうに云った。
「……ダ……メ……ダ……お前は俺の……大切な研究材料だ……ここを出す事は出来ない」
「ナ……ナ……何だと……」
「お前を……ここから出しちゃ……実験にならない……」
 私は思わず手をゆるめた。その代りに相手の顔を、自分の鼻の先に引き付けて、穴の明く程覗き込んだ。
「……何だと! モウ一ペン云って見ろ」
「何遍云ったっておんなじ事だよ。俺はお前をこの檻の中に封じ籠めて、完全に発狂させなければならないのだ。その経過報告が俺の学位論文になるんだ。国家社会のために有益な……」
「……エエッ……勝手に……しやがれ……」

病院( 3 / 3 )

 と云いも終らぬうちに私は、相手のモシャモシャした頭の毛を引っ掴んだ。その眼と鼻の間へ、一撃を食らわした。そうして鼻血をポタポタと滴らしながらグッタリとなった身体を、力一パイ向うの方へ突き飛ばすと、深夜の廊下に夥しい音を立てて……ドターン……と長くなった。そのまま、死んだように動かなくなった。
「……ハッハッハッ……ザマを見ろ……アハアハアハアハ」

七本の海藻( 1 / 2 )

 曇り空の下に横たわる陰鬱な、鉛色の海の底へ、静かに静かに私は沈んで行く。金貨を積んで沈んだオーラス丸の所在をたしかめよ……という官憲の命令を受けて……。
 潜水着の中の気圧が次第次第に高まって、耳の底がイイイ――ンンと鳴り出した。続いて心臓の動悸がゴトンゴトン、ボコンボコンという雑音を含みながら頭蓋骨の内側へ響きはじめる。それにつれて、あたりの静けさが、いよいよ深まって行くような……。
 ……どこか遠くで、お寺の鐘が鳴るような……。
 灰色の海藻の破片がスルスルと上の方へ昇って行く。つづいて、やはり灰色の小さい魚の群が、整然と行列を立てたまま上の方へ消え失せて行く。
 眼の前がだんだん暗くなり初める。
 ……とうとう鼻を抓まれても解らない真の闇になると、そのうちに重たい靴底がフンワリと、海底の泥の上に落付いたようである。
 私は信号綱を引いて海面の仲間に知らせた。
 私は潜水兜に取付けた電燈の光りをたよりに、ゆっくりゆっくりと歩き出した。まん丸い、ゆるやかな斜面を持った灰色の砂丘を、いくつもいくつも越えて行った。
 しかし行けども行けども同じような低い、丸い砂の丘ばかりで、見渡しても見渡しても船の影はおろか、貝殻一つ見当らなかった。……のみならず私は暫く歩いて行くうちに、そこいら中がいつともなく薄明るくなって、青白い、燐のような光りに満ち満ちて来たことに気が付いた。……沙漠の夕暮のような……冥府(あのよ)へ行く途中のような……たよりない……気味のわるい……。
 私は静かに方向を転換しかけた。何となく不吉な出来事が、私の行く手に待っているような予感がしたので……。けれども、まだ半廻転もしないうちに、私はハッと全身を強直さした。
 ツイ私の背後の鼻の先に、いつの間に立ち現われたものか、何ともいえない奇妙な恰好をした海藻の森が、涯てしもない砂丘の起伏を背景にして迫り近付いている。
 ……海藻の森……その一本一本は、それぞれ五六尺から一丈ぐらいある。頭のまん丸いホンダワラのような楕円形をした……その根元の縊れたところから細い紐で海底に繋がっている。並んだり重なり合ったりしながら、お墓のように垂直に突立っている。蒼白い、燐光の中に、真黒く、ハッキリと……数えてみると合計七本あった。
 私は唖然となった。取りあえずドキンドキンと心臓の鼓動を高めながら、二三歩ゆるゆると後じさりをした。
 するとその巨大な海藻の一群の中でも、私に一番近い一本の中から人間の声が洩れ聞えて来た。
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作家:夢野久作
怪夢
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