怪夢

病院( 3 / 3 )

 と云いも終らぬうちに私は、相手のモシャモシャした頭の毛を引っ掴んだ。その眼と鼻の間へ、一撃を食らわした。そうして鼻血をポタポタと滴らしながらグッタリとなった身体を、力一パイ向うの方へ突き飛ばすと、深夜の廊下に夥しい音を立てて……ドターン……と長くなった。そのまま、死んだように動かなくなった。
「……ハッハッハッ……ザマを見ろ……アハアハアハアハ」

七本の海藻( 1 / 2 )

 曇り空の下に横たわる陰鬱な、鉛色の海の底へ、静かに静かに私は沈んで行く。金貨を積んで沈んだオーラス丸の所在をたしかめよ……という官憲の命令を受けて……。
 潜水着の中の気圧が次第次第に高まって、耳の底がイイイ――ンンと鳴り出した。続いて心臓の動悸がゴトンゴトン、ボコンボコンという雑音を含みながら頭蓋骨の内側へ響きはじめる。それにつれて、あたりの静けさが、いよいよ深まって行くような……。
 ……どこか遠くで、お寺の鐘が鳴るような……。
 灰色の海藻の破片がスルスルと上の方へ昇って行く。つづいて、やはり灰色の小さい魚の群が、整然と行列を立てたまま上の方へ消え失せて行く。
 眼の前がだんだん暗くなり初める。
 ……とうとう鼻を抓まれても解らない真の闇になると、そのうちに重たい靴底がフンワリと、海底の泥の上に落付いたようである。
 私は信号綱を引いて海面の仲間に知らせた。
 私は潜水兜に取付けた電燈の光りをたよりに、ゆっくりゆっくりと歩き出した。まん丸い、ゆるやかな斜面を持った灰色の砂丘を、いくつもいくつも越えて行った。
 しかし行けども行けども同じような低い、丸い砂の丘ばかりで、見渡しても見渡しても船の影はおろか、貝殻一つ見当らなかった。……のみならず私は暫く歩いて行くうちに、そこいら中がいつともなく薄明るくなって、青白い、燐のような光りに満ち満ちて来たことに気が付いた。……沙漠の夕暮のような……冥府(あのよ)へ行く途中のような……たよりない……気味のわるい……。
 私は静かに方向を転換しかけた。何となく不吉な出来事が、私の行く手に待っているような予感がしたので……。けれども、まだ半廻転もしないうちに、私はハッと全身を強直さした。
 ツイ私の背後の鼻の先に、いつの間に立ち現われたものか、何ともいえない奇妙な恰好をした海藻の森が、涯てしもない砂丘の起伏を背景にして迫り近付いている。
 ……海藻の森……その一本一本は、それぞれ五六尺から一丈ぐらいある。頭のまん丸いホンダワラのような楕円形をした……その根元の縊れたところから細い紐で海底に繋がっている。並んだり重なり合ったりしながら、お墓のように垂直に突立っている。蒼白い、燐光の中に、真黒く、ハッキリと……数えてみると合計七本あった。
 私は唖然となった。取りあえずドキンドキンと心臓の鼓動を高めながら、二三歩ゆるゆると後じさりをした。
 するとその巨大な海藻の一群の中でも、私に一番近い一本の中から人間の声が洩れ聞えて来た。

七本の海藻( 2 / 2 )

 低い、カスレた声であった。
「モシモシ……」
 私は全身の骨が一つ一つ氷のように冷え固まるのを感じた。同時に、その声の正体はわからないまま、この上もなく恐ろしい妖怪に出遭ったような感じに囚われたので、そのままなおもジリジリと後じさりをして行った。すると又、右手に在る八尺位の海藻の中から、濁った、けだるそうな声が聞えて来た。
「……貴方は……金貨を探しに来られたのでしょう」
 私の胸の動悸が又、突然に高まった。そうして又、急に静かに、ピッタリと動かなくなった。……妖怪以上の何とも知れない恐ろしいものに睨まれていることを自覚して……。
 すると又、一番向うの背の低い、すこし離れている一本の中から、悲しい、優しい女の声がユックリと聞えて来た。
「私たちは妖怪じゃないのですよ。貴方がお探しになっているオーラス丸の船長夫婦と……一人の女の児と……一人の運転手と……三人の水夫の死骸なのです。……今、貴方とお話したのは船長で、妾(わたし)はその妻なのです。おわかりになりまして……。それから一番最初に貴方をお呼び止めしたのは一等運転手なのです」
「……聞いてくんねえ。いいかい……おいらは三人ともオーラス丸の船長の味方だったのだ」
 と別の錆び沈んだ声が云った。
「……だから人非人ばかりのオーラス丸の乗組員の奴等に打ち殺されて、ズックの袋を引っかぶせられて、チャンやタールで塗り固められて、足に錘(おもり)を結わえ付けられて、水雑炊にされちまったんだ」
「……………」
「……それからなあ……ほかの奴らあ、船の破片を波の上にブチ撒いて、沈没したように見せかけながら、行衛(ゆくえ)を晦(くら)ましちまやがったんだ」
「……………」
「……その中でも発頭人になっていた野郎がワザと故郷の警察に嘘を吐きに帰りやがったんだ。タッタ一人助かったような面をしやがって……ここで船が沈んだなんて云いふらしやがったんだ……」
「ホントウよ。オジサン……その人がお父さんとお母さんの前で、妾を絞め殺したのよ。オジサンはチャント知っていらっしゃるでしょ」
 という可愛らしい、悲しい女の児の声が一番最後にきこえて来た。七本のまん中にある一番丈の低い袋の中から洩れ出したのであろう……。あとはピッタリと静かになって、スッスッという啜り泣きの声ばかりが、海の水に沁み渡って来た。  私は棒立ちになったまま動けなくなった。だんだんと気が遠くなって来た。信号綱を引く力もなくなったまま……。
 私が、その張本人の水夫長だったのだ……。
 ……どこかで、お寺の鐘が鳴るような……。

硝子世界( 1 / 2 )

 世界の涯の涯まで硝子で出来ている。
 河や海はむろんの事、町も、家も、橋も、街路樹も、森も、山も水晶のように透きとおっている。
 スケート靴を穿いた私は、そうした風景の中心を一直線に、水平線まで貫いている硝子の舗道をやはり一直線に辷(すべ)って行く……どこまでも……どこまでも……。
 私の背後のはるか彼方に聳(そび)ゆるビルデングの一室が、真赤な血の色に染まっているのが、外からハッキリと透かして見える。何度振り返って見ても依然としてアリアリと見えている。家越し、橋越し、並木ごしに……すべてが硝子で出来ているのだから……。
 私はその一室でタッタ今、一人の女を殺したのだ。ところが、そうした私の行動を、はるか向うの警察の塔上から透視していた一人の名探偵が、その室が私の兇行で真赤になったと見るや否や、すぐに私とおんなじスケート靴を穿いて、警察の玄関から私の方向に向って辷り出して来た。スケートの秘術をつくして……弦(つる)を離れた矢のように一直線に……。
 それと見るや否や私も一生懸命に逃げ出した。おんなじようにスケートの秘術をつくして……一直線に……矢のように……。
 青い青い空の下……ピカピカ光る無限の硝子の道を、追う探偵も、逃げる私もどちらもお互同志に透かし合いつつ……ミジンも姿を隠すことの出来ない、息苦しい気持のままに……。
 探偵はだんだんスピードを増して来た。だから私も死物狂いに爪先を蹴立てた。……一歩を先んじて辷り出した私の加速度が、グングンと二人の間の距離を引離して行くのを感じながら……。
 私は、うしろ向きになって辷りつつ右手を拡げた。拇指(ぼし)を鼻の頭に当てがって、はるかに追いかけて来る探偵を指の先で嘲弄し、侮辱してやった。
 探偵の顔色が見る見る真赤になったのが、遠くからハッキリとわかった。多分歯噛みをして口惜しがっているのであろう。溺れかけた人間のように両手を振りまわして、死物狂いに硝子の舗道を蹴立てて来る身振りがトテモ可笑しい……ザマを見やがれ……と思いながらも、ウッカリすると追い付かれるぞと思って、いい加減な処でクルリと方向を転換したが……私はハッとした。いつの間にか地平線の端まで来てしまった。……足の下は無限の空虚である。
 私は慌てた。一生懸命で踏み止まろうとした。その拍子に足を踏み辷らして硝子の舗道の上に身体をタタキ付けたので、そのまま血だらけの両手を突張って、自分の身体を支え止めようとしたが、しかし今まで辷って来た惰力が承知しなかった。私の身体はそのまま一直線に地平線の端から、辷り出して無限の空間に真逆様に落込んだ。
 私は歯噛みをした。虚空を掴んだ。手足を縦横ムジンに振りまわした。しかし私は何物も掴むことが出来なかった。
 その時に一直線に切れた地平線の端から、探偵の顔がニュッと覗いた。落ちて行く私の顔を見下しながら、白い歯を一パイに剥き出した。
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作家:夢野久作
怪夢
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