松山美奈子。
17歳でこの世を去った僕のたった1人の姉。
姉は生まれつき身体が弱く、更に精神薄弱であった。
その短い人生を、ほとんど華やかに飾り立てられた自宅のベッドの上か、殺風景な病院の個室で過ごした。
外にあまり出てないからか、その肌は透き通るように白く、髪は母が洗髪の時に椿油を塗るからか、艶めく黒髪で、身内は勿論、近所でも評判の美人で、噂を聞いた男子学生が家の前をうろついていたこともある。
精神薄弱であっても、姉は自分の美しさは自覚していたようで、体調の良い時には、ベッドから身を起こし、南向きの小さな窓から、純粋な男子学生に怪しい微笑みを撒き散らしていた。
白痴美人…という言葉が、姉を形容するのにぴったりだった。
僕は、親の、特に母親の愛情を一身に受ける姉が憎らしく、あまりいい思い出がない。
だから、目下1番大切といえる華が、姉に似ていると言われて、心が怒りに激しく波打つのを感じた。
しかし、その感情は、姉と華が確かに同じ雰囲気を醸し出していたからであることは否めない。
昔、こんなことがあった。
ある夏の夜、友達と夏祭りに行った僕は、当てもので中国製のエアガンを当てたことに気をよくして、夏の暑さで体調を壊し家のベッドに寝たきりの姉に土産を持って帰ろうと思いついた。
よくあるカステーラやりんご飴は、屋台の食べ物が嫌いな母が嫌がると思い、土産を探しうろついていると、人だかりを見つけた。
覗いて見ると、そこは、鮮やかな金魚が舞泳ぐ金魚すくいの屋台で、子どもはもちろん、大人もその小さく非力な金魚をアイスクリームのもなかのようなポイで追いかけていた。
「そうだ!金魚を持って帰ろう!」
僕は金魚すくいの屋台の煌々とついたライトに負けないくらいのヒラメキを感じ、ポケットに残っている最後の300円をタバコを咥えた屋台のおじさんに渡した。
ヒラヒラ尾びれを水中でひらめかせながら泳ぐ金魚はみな元気で、金魚すくいを初めてした僕は、狙った金魚にことごとく逃げられ、モナカのようなポイはすぐにふにゃふにゃになり使い物にならなくなってしまった。
あまりに早すぎたことの終わりに落胆した僕を憐れんだのか、屋台のおじさんは、白い煙を吐きながら一匹の真っ赤な金魚を持ち帰りのビニール袋にいれてくれた。
無骨なおじさんの優しさに胸を一杯にし、おじさんにむかって精一杯頷き、駆けて帰ろうとするとおじさんが僕の背中にむけて言った。
「その金魚弱ってんで~。」
幼い僕には、おじさんの投げかけた言葉の意味が理解できず、何がなんだかわからなかった。
善意でくれたはずの金魚が弱っているって、小さないたずら的な悪意だったのか?
振り返る勇気のなかった僕は、祭りの人ごみの中を金魚のようにすり抜け、家にひた走った。
今思えば、その金魚の運命は、その後の姉を彷彿とさせるものであった。
華と白昼夢のような生活をひっそりと送るうちに、季節は晩春から初夏へのカーテンをおろそうとしていた。
相変わらず派遣のアルバイトに週5日通い、定時になると一目散に華の待つ家に帰った。
帰る道中に買い物する日もあれば、華とスーパーに行く日もあった。
華が手料理を振舞ってくれるようになったのは、奇妙な共同生活を始めて一週間ほどたったころ…一緒にスーパーに行った華がちょっと目を離した隙に迷子になる幼児のように居なくなったかと思ったら、卵のパックを手に僕を探していた。
「この卵、買っていただいていいかしら?」
僕を見つけた安堵の瞳をもって、たかだか198円の卵を手にした華のえらく丁寧なねだり方に小さな感動を覚えた。
「いいけど…温める気?」
「まあ!違うわ!私は鶏じゃないわ!料理したいのよ!」
ちょっとからかうとすぐムキになるところが可愛くて、ついつい余計なことをいってしまう。
結局華は、可愛い怒りのとうり、卵を温めずに、炒り卵を作ってくれた。
醤油と砂糖で味付けされた、少し甘めの炒り卵は白米のおかずにピッタリで、僕は電子レンジで加熱してできるパックご飯を2パックぶん平らげた。
華はそんな僕を目を細めて微笑みながら見つめ、残った米粒に眉をひそめて注意した。
「ばあちゃんみたいだね。」
もちろん冗談のつもりで僕が言ったことに一瞬その大きな目を見開き、
「まあ……!」
と言ってからすぐに華は大きな大きなため息をついた。
「そうよね…あなたは私よりずっとあとに生まれたんですもの。私はおばあさんだわ。」
まつげをふせ苦渋の色を浮かべた華をみて、まずいことを言ったと思ったが、放った言葉はどうあがいても取り戻せやしない。
小さな折りたたみのテーブルの向かい側に座り、少しうつむく華の手を取り
「ごめん。」
と言うと、華は透き通る目でまっすぐ僕の顔を見据え、
「行動と同じよ。言葉は消せないから簡単に人を傷つけることができるの。だから、人はもっと自分の言動に責任をもつことが大切よ。それは貴方にもいえることだわ。」
と言った。
ああ、そうだ。
わかっていたつもりでもわかっていないことだった。
今までも友人から注意されたことがあるが、結局、その場しのぎの「無神経!」の一言で怒りの感情しかわかず、気づかずにいた。
しかし、こうして面と向かってはっきり言われると、感情の波に揺さぶられず、やっと今までの「無神経!」の意味を理解したのだ。
「本当にごめん。」
そう言ったとき、どこかで風鈴の音がした。
「そうだ、すぐそこの神社にもうすぐ縁日がでるんだ。浴衣をプレゼントするからいかないか?」
「本当に?」
華は顔をパッと明るくした。
「うん、本当だ。今の発言の全責任をもつよ。」
僕はまだ果たされていない約束に誇らしい気持ちで笑った。
初夏の縁日は、いくつになっても特別なものだ。
闇に煌々とともった下品なほど眩しいライトに、飛び交うテキ屋の怒声にも似た呼び込みの声。
川のように流れる人の波にチラチラ見え隠れする、艶やかな浴衣姿の女性たち。
和服を身につけた女性は、心なしか普段より上品に、たおやかにその身を踊らせているような気がする。
それはただ動きづらいからか、それともやはり、身体の奥底に根付く、本来控えめであった日本女性としての血なのか僕にはわからないけれど、和服を身につけた女性を洋服のときより好ましく、色香があるように思う僕の身体には間違いなく日本男子の血が脈々と流れているんだなあとこの身に感じられる。
「あんず飴よ!」
僕が買った真っ赤な浴衣を着た華が、興奮の声をあげる。
縁日は、いつの時代も同じらしい。見慣れないものを見るよりも見慣れたものを見つけたときのほうが華は興奮するようだ。
「食べたい?」
「優さんがいいのなら…」
と控えめに言いつつも足先はあんず飴の店に向かっている華が可笑しくて笑いがこぼれる。
目当てのあんず飴を手にした華は子どものように、妖し紅色を舐めている。その様子をみて僕は心底愛しいと思った。
僕は焼きもろこしを、華はあんず飴を舐めながら、立ち並ぶ出店をひやかしていると、激しい既視感に襲われた。
それは、初めて金魚すくいをしたあの日と同じ空気、感情で、僕の瞳はスコープから覗いたように金魚すくいの出店をフォーカスしていた。
「あら、金魚すくいだわ。見てみましょう!」
華が足のすくんだ僕の手をとり引っ張ったので、僕は抵抗することができなかった。
どうして、こんなにも金魚すくい、または金魚が苦手なのか、それは僕がまだ小学生の頃、姉に金魚の土産を持ち帰ったことから始まった。
あの日、僕はテキ屋のおじさんがおまけにくれた赤く弱っているらしい金魚を揚々とした気分で持ち帰った。
姉と母は、居間で西瓜を食べながら、毎週姉が楽しみにしている動物番組を観ていた。
「お姉ちゃんにお土産!」
僕が金魚の入ったビニール袋を持ち上げ言うと、一瞬の間ののち母が
「あら、珍しい。」
と言った。
「お姉ちゃん毎日退屈だと思って…これからはこの金魚みてたらいいよ!」
姉はキョトンとした顔をし、何か言いかけたがすぐに母がそれを遮った。
「縁日の金魚はすぐに死んでしまうからねえ…」
「でも、ほら、この金魚元気だよ。」
僕は出店のおじさんの放った「その金魚弱ってんで~!」という言葉を頭の奥に押しやり言った。
「そうかしら…?なんだか元気がないように見えるけど。それにうちには水槽もないし…」
「私、飼うわ!」
母の文句を止めるには、姉のこの一言で十分だった。
猫可愛がりしている姉にこう言われては、母も行動に移すしかない。
それからの母の行動は早く、すぐに車で10分ほどのホームセンターに行き、金魚の飼育セットを買ってきた。
母がホームセンターに行っている間、僕と姉は、ビニール袋の狭さから解放されピンクの洗面器に移された金魚が尾ビレをフリフリ泳ぎまわるのを、上から覗き込みながら話した。
「お姉ちゃんの金魚だから、お姉ちゃんが名前をつけてよ!」
「金魚に名前をつけるの?すぐに死んじゃうのに?」
まぶたを伏せ諦めにも似た微笑みでそう言う姉をみて、僕は金魚と姉が重なってみえた。
「上手く飼えば長生きするんだよ!学校の玄関の金魚だって、元は一昨年の花火大会の金魚だけど、今はこんなになってるよ!」
両手で20センチくらいの大きさをつくって僕が言うと、
「ほんとに~?う~ん…じゃあ……」
姉は空を見つめ
「カモメ!カモメにしよう!」
と言った。
「なんで金魚なのにカモメなの?!」
思いもよらない名づけに僕はわらってしまった。
「だって、この子はこの世界しか生きられないのよ。きっと、カモメみたいに羽根を羽ばたかせて違う世界を見てみたいはずよ。」
「そっか…。」
僕は、家から出られない姉を思うと、その名前の由来に妙に納得してしまった。
それからカモメは姉の部屋のサイドテーブルに、一匹には大きすぎる居を構えた。
最初は殺風景だったカモメの家は、父が、母が、色とりどりのビー玉や、竜宮城のような飾りを追加するので、次第に豪邸に変化していった。
姉と僕は、僕が学校で借りてきた金魚の飼育法の本を、姉のベッドの上で丸暗記できるほど読み込み、何度も同じ本を借りてくるので、とうとう見兼ねた母がその飼育本を書店で買ってきてくれた。
それほど僕と姉は真剣にカモメを長生きさせること、学校の金魚の大きさを抜かすという目標に熱く燃えていた。
それは、僕たちが初めて共有した感情であった。
あの日のように出店のおじさんに、大人の料金500円を払って、いまはプラスチックと薄い紙でできたポイを華に渡すともう華は金魚しか見ていなかった。
浴衣の袖が水に浸からないように押さえたのは僕で、華は興奮した様子で逃げ回る金魚を追い回していた。
華には悪いけれど、僕は動きが人よりゆっくりな華に、敏捷な金魚はすくえるはずはないと思った。
だが、華はその白く華奢な手をつかって、見事に三匹の金魚をすくってみせた。
「意外に上手いじゃないか!」
「ふふふ。小さい頃からおじいさまに仕込まれたからね。」
いたずらな瞳で華が答えると、出店のおじさんが
「持って帰るんだったら袋代がいるよ。」
とぶっきらぼうに言ったのと、
「この金魚、いただきます。」
華が答えたのは、ほぼ同時だった。
「優さん、金魚の様子がなんだか変だわ。」
昔ながらのガラス製の金魚鉢で、泳ぐとも浮かんでいるともとれる真っ赤な金魚をみながら華が言った。
縁日で華のすくってきた金魚の飼育を始めて二週間が経った。
最初は三匹いた金魚も、一匹目が3日目に死んでしまい、あとを追うように二匹目が死んだ。
残された金魚は、縄張り争いで勝ち残ったかのように、そのガラスの城を我が物顏で泳いでいた。昨日までは。
「死んじゃうのかしら?」
最後の金魚ともなると、華も前の二匹より物憂げである。
「どれどれ…」
僕がガラスの城を覗き込むと、その城の主は水草に隠れた。
「もしかしたら病気かもしれないな」
水草の間から見え隠れする尾びれをみて僕は言った。
小さな尾びれの先が、少し破れたようになっている。
「病気?金魚にも病気があるの?」
「うん。尾腐れっていって尾びれの先がボロボロになってきてるだろ?」
「あら、ほんと!」
「ほっておくと死んでしまうんだ。」
「やっぱり死んでしまうの…」
「いや、薬をいれたら大丈夫だよ。薬を買ってくるよ!」
「本当に?すごいわ優さん!優さんって何でも知ってるのね!」
「昔、飼ってたからだよ。」
そうだった。姉と大切に飼っていたカモメも尾腐れになったのだ。
ただ、僕たちは気がつくのが遅くて、薬をいれても手遅れになってしまったけれど。
華の不安げな表情にせかされ、すぐさまペット用品もおいてある大型スーパーに、水に溶かす粉末タイプの消毒殺菌剤メチレンブルーを買いに出かけた。
華は金魚が心配で仕方がないらしく、薄い眉を八の字にさせたまま家に残った。
きつくなった日射しの大きく濃い影を落とす大型スーパーの、一列だけのペット用品コーナーで、薬の小さな箱を手にし、なにか果物でも買って帰ろうと生鮮食品コーナーに向かおうとすると、
「優くん!」
佳菜子が満面の笑みで立っていた。
「なんだ、最近よく会うな。」
「会えて嬉しい?」
短い舌をだしながら、からかうように佳菜子がいった。
「嬉しくはないな。今急いでるんだ。」
「可愛くない!優くん、変わったよね。昔はまだ明るいほうだったのに…」
余計なお世話だよと出そうになったが、口をつぐんだ。
「このあいだの綺麗な彼女さんに嫌われちゃうわよ!」
少し険しい表情の佳菜子に違和感をおぼえながらも、よく考えてみると、華の前では僕はとにかくよく笑い、柔軟であった。というより柔軟でしかおれなかった。
それはまるで母親の前の幼子のようだった。
「あの彼女さんの名前なんていうの?どこに住んでるの?」
「なんでいちいちそんなこと聞くんだよ。」
プライバシーの侵害という言葉を匂わせながら答えると
「なんだかどこかで見たような気がして…でも、きっと美奈子さんに似てるからね。」
僕の変わらない態度に頬を膨らませた佳菜子は、自ら投げかけた疑問を自らの答えでもって解決させた。
「ほんと、気のせいだよ。彼女は大正時代からやってきたんだからさ。」
佳菜子が信じないことをわかっていて、わざと小さな笑みを交えて言ってみると
「あはは~!くだらない冗談!タイムスリップじゃあるまいし…。タイムスリップといえば、また近いうちにタイムカプセル開けにきてよね!じゃあねバイバイ!」
と、生き急ぐように去っていった。
毎回毎回突然登場し、言いたい事を言って去る佳菜子に、なんだか少し消化しきれない気持ちを残したまま、華に少し早い西瓜を買って帰った。
家に帰ると、子犬のように華が玄関で待ち構えていた。
早速、金魚のガラスの城にメチレンブルーをいれると、たちまち今まで透明だった城は青い王国の城となった。
「まるで魔法みたいね。」
華が目をまん丸くし金魚鉢を覗き込むと、向かいにいる僕の目には青い瞳の、青い顔の華が見えた。
子どもの頃に好きだったアニメ映画に出てきた魔法の粉は、妖精が持つ金色の粉で、その粉をかけると楽しいことを考えるだけで、大空を飛ぶことができた。
僕が今、金魚鉢に振りかけたメチレンブルーという名の魔法の粉に感嘆する、僕の世界を瞬く間に変えた華という魔法。
二つの魔法が重なった時、僕の心に起こったのは、この魔法のかかったような生活を失いたくないという強い感情だった。
どうか僕から華を、そしてこの華の大切にする金魚を奪わないでほしい。
姉のように、自分の大切なものを自ら奪うようなことを、僕はしたくなかった。