夏の日

夏の日


 暑い夏の日の午後だった。外は、うだるような暑さだった。

待ち合わせの喫茶店は、冷房が程好く効いていて涼い。店の入り口からは、加茂川の流れと、その向こうに糺の森の木々が風に揺れているのが見えた。しかしながら、その景色は、彼にはぼんやりとしか見えておらず、ピンとは店の扉に合っていた。

 その扉が彼の期待通りに開くのには、まだ15分以上もあるのに、ただじっと見つめていた。


 加茂川沿いの道に面してあったその喫茶店は、そうは広くなかった。テーブル席が奥に3つ、手前にはカウンターがあり、4人も座るといっぱいになる幅に、何故か椅子は5脚あり、案の定一つは隅に追いやられ、普段は使われることは無かった。常連客が来た時に店の人がその椅子を引っ張り出してきて、客と談笑していた。

 店自体は古くからあったようで、お世辞にも綺麗とは言えなかったが、掃除が行き届いており、小奇麗にされていた。間接照明が多く使われていて、何処と無くノスタルジックな雰囲気を醸し出していた。夜になると少し暗いのでは思うくらいの照明が作り出す空間は暖かく、やわらかい雰囲気を纏っていた。

 静かに音楽も流れている。有名なジャズ・ピアニストの曲らしいことを店のマスターらしき年配の人が、他の客と話をしているのを聞いていた。それは、心地よいボリュームで、話をするにしろ本を読むにしろ、邪魔になるようなものではなかった。実際今も窓際の明るい席に座って読書に耽る女性がいる。


 「待ち合わせなので。」

 彼は店に入ると、そう言って、入り口が見える奥のテーブル席に座り、キリマンジャロを注文した。


 その店は、本格的なコーヒーを出す店でもあった。注文を聞いてから豆を挽き、サイフォンでたてる。コーヒーが運ばれてくるまで少し時間がかかるが、それは決して苦にはならなかった。目の前にカップが出された時に漂う香りが彼の嗅覚を刺激した瞬間に、その時間は消え去ってしまうようだった。

 それまで、ストレートコーヒーなど飲む機会が彼には無かった。この店に入り、初めて飲んだキリマンジャロに魅了されてからは、それ以外のものは飲まなかったし、他の店に行くことも無かった。口の中に広がる、それほど強くないが癖のある酸味、それに合わせてコクのある奥の深い味わいが忘れられなかった。

 彼は、以前からこの店を知っているわけではなかった。少し前、何かの帰り道で少し時間があったので、ふと立ち寄ってからだった。彼がキリマンジャロを選んだ理由にしても、ただどこかでその名前を読んだ記憶があり、メニューを見せられた時、一番初めに目に入っただけのことだった。




 京都生まれの彼は、受験勉強を頑張った甲斐があったのか、無事地元の大学に入ることができた。今は、その大学の2回生だった。他の学生と同様に、今時の若者だった。友人に誘われれば合コンも行くし、飲みにも行く、流行のJ-POPの曲は、必ずインターネットでチェックして、気に入ればiPodに入れて持ち歩く、ごく普通の若者だった。アルバイトも近くのコンビニで高校時代からやっており、それは今も続いている。

 2回生になってほどない頃、そのコンビニに新しいアルバイトとして来たのが彼女だった。彼女は、かつて彼と同じ高校に通っていた。同じクラスになったことはなかったが、よく知っていた。

 そう、よく知っていた。

 彼女は、彼の友人と付き合っていて、当時は仲の良い二人で有名だった。彼女を含め男女数人のグループで、よく遊びにも行ったし、学校でも休み時間などは集まって、他愛もない話をしていた。その頃と変わらない明るい性格は、コンビニの店長にも好印象のようだった。

 そんな彼女と一緒に働き始め、1年ほど経ったある日、彼女はアルバイトを辞めた。彼にとっては突然であったが、暫く前から辞めるということを店長には伝えていたようだった。

「また、メールでもしてな。」

彼女のアルバイトの最終日、彼女が言った。彼は、そう言えばアルバイト仲間で何回か飲みに行っていたことを思い出し、

「そやね、また飲みに行こ。」

と答えた時、彼は自分の心の中に、何とも形にならないものが澱み始めていた。


 暫く経って、そんなことも忘れかけた頃、偶然彼は彼女を見かけた。ちょうど河原町通りの反対側の舗道を友達と二人で歩いているところだった。彼女のあの時と変わらない笑顔は、初夏の爽やかな風の中で輝いていた。

 実際彼は、あの時の妙な感覚を忘れていたわけではなかった。いつも心の中に違和感を覚え続けていた。ぼうっと何も考えないでいる時には、突然心の淵からせり上がって来るものがあることは分かっていたが、それが何を意味することなのかは分からないままだった。

 しかし、彼女を街で見かけたその時、あの違和感は一つの方向性を持ち、形に成り始めているのに気付いた。それからというもの、彼女のことを思い遣っている自分に気付くことが多くなった。

「ガキじゃあるまいし。」

 淡い初恋でもなければ、まして今までに女の子と付き合ったことが無いわけでもない。確かに今は特定の女性と付き合ってはいないが、一緒に遊びに行くくらいの友人は何人かいる。そんなことを考えながら、また時が流れた。




 夏も近くなったある日、朝から雨が降っていた。元々出かける予定の無かった彼は、自分の部屋にこもり、珍しく本を読んでいた。ふと部屋の窓から外に目を遣ると、小降りになった雨の中に、向かいの家の庭の木が目に入った。青々と茂る葉から落ちる雨の雫は冷たい感じが全く無く、来るべき季節のための時を刻んでいるようだった。

 ここ暫くの彼は、携帯電話に登録されている彼女のアドレスを見ることが多くなった。ただ見ているだけで、電話をするわけでもなく、メールを送るわけでもなかった。ただ、それを見つめているだけだった。

 無意識のうちに彼は、また彼女のことに思いを馳せていた。街で見かけた時のこと、アルバイト中の笑顔、学生時代の真剣な面持ち。どれも自分に向けられたものではなかった。でも、もし、自分に向けられるものだったなら...

 確かめたかった。彼女に会って、確かめたいと、この時初めて、彼はそう思った。

 彼は、おもむろに机の上にある携帯電話を取り上げ、アドレス帳を開いた。見慣れたはずの彼女のアドレスは、この時は不思議と新鮮に見えた。少しの間、それをじっと眺めて、思い立ったように彼女のアドレスを選択した。ボタンを押す指が少し震えていたのが、妙に気恥ずかしく、誰もいない自分の部屋を見回すのに顔を上げた。彼の心臓の鼓動は、ほんの少しだけ早く打ち始めていた。

 メールの表題を選択して書き始めようとしたが、何も書かずに入力画面を一旦閉じ、先に本文を一気に書き上げた。そして、あらためて読み返してみると、当たり障りの無い言葉が並んでいるだけで、それを見て彼は溜め息を洩らした。

 そうじゃないんだと呟きながら、今書いたものを全て削除し、空白の画面を見つめていた。早く会いたい、会って話がしたい、この思いを伝えたい。たったこれだけのことが言葉にならない。心の中にいっぱいに広がって飽和状態になり、思考が追いついていかない。

 着飾った言葉を並べても、それは自分のものではないことは分かっていた。これまでに何人もの人が思いを伝えるために使い古してきた言葉でしかないのだから。彼は、窓の外の雨の景色に目を遣り、自分の言葉を探そうとした。雨は、まだ止んではいなかった。不規則なリズムを刻みながら、雨だれが軒から落ちていた。

 どれくらいの時間が過ぎただろう。静かになった心に、浮かんで来たものがあった。言葉を選んでいては、ダメなんだと。そうやって考えることで、また本当に伝えたいことが埋もれてしまうように思えた。そんなことを考えていると、急に心が澄んで、アルバイトの最終日の別れ際に見せた彼女の微笑んでいる顔が思い浮かんだ。


 外は雲一つ無いというわけではなく、時折日差しが遮られ、すっと蔭っていく。その時は、爽やかな風が通り抜けているように見えた。彼は、この十数分の間に何回か思い出せないくらい見た腕時計に目を落とした。

 - 後5分。

 彼は、少し大げさに溜め息をつき、足を組み直して座った。入り口から見える風景は、また目が痛くなるような強い日差しに戻っていた。いつの間にか、店内に流れている曲はサックスに変わっていた。流れるようなトーンが、少々緊張に疲れた彼の気持ちを解してくれるようだった。


 カランとドアのカウベルが鳴った。



2012/04/16
しあき いさと
作家:しあき いさと
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